(二)幸せとは
§
十五時の鐘の音と共にくずはが声をかけてくる。
「お疲れ様。明日からは書類の整理をお願いするわね」
「承知しました。お先に失礼します」
華の勤務初日は、物の置き場所などの説明であっという間に終わってしまった。
覚えることは多く、緊張もしていた。帝国想軍の建物を出たところで、両腕を伸ばし、大きく伸びをする。
「……ふぅ」
(新生活のためだ。がんばらなきゃ)
何をどうしたって華が天涯孤独なことに変わりはない。今必要なものは、一にも二にも、お金なのだ。
「初日はどうだった」
「い、一条さま!?」
階段の下に立っていたのは、尊だった。しかも何故だか軍服ではなくて、和服に着替えている。
華は訳が分からず、急いで階段を駆け下りた。
「今日は一通りの説明を受けて終わりました」
「やっていけそうか」
「はい。というか、やっていくしかありませんから」
華が尊を見上げると、ふい、と尊は視線を逸らした。
「……帰るか」
「? まだ、お仕事が残っているのでは?」
「たまには早く帰れと追い出された」
「???」
華は首を傾げた。
(くずはさんの言う通り、過保護になってない?)
よほど尊にとって華は危なっかしく見えるようだ。
それについて残念ながら否定はできない。尊を助けようとして八岐大蛇の中へ飛び込んだりもしたのだから。同じことをしろと言われてもできる気はしなかった。
尊の通勤手段は馬車送迎である。しかし、今日は華に合わせてくれるという。
帝国想軍前の電停から、路面電車に乗り込む。
やはり尊はひときわ目を引いた。華と尊が隣同士に座ることで、ひそひそと囁く声と、ちくちく刺さる視線。
華は、帝都中央駅で感じた視線のいたたまれなさを思い出した。だからこそ、敢えて気にしないように努める。
(すみませんねぇ、一般人が美丈夫と一緒に電車に乗っていて)
尊の髪が、さらりと揺れた。
ふわりと漂う香のにおいに、華の心臓が大きく跳ねる。
居候とはいえ、客人の華は洋館側で生活しているため、その香りの由来が何なのかは知らない。
ちらり、横顔を盗み見る華。
尊の隣は、どれだけ共に死線を潜り抜けたとしても慣れない。今も、どんどん心臓の鼓動が速くなっているというのに。
尊はそんな華の様子に気づいていなかった。
「そう言えば、君は、くずはと百貨店には行ったが帝国劇場へは行っていなかったな」
「は、はい。また今度ね、と言っていただけました」
「今日、くずはから観劇券を二枚貰った。君と行くように、と」
「えっ?」
尊がわずかに眉根を寄せた。
「私とでは嫌か?」
「いえ、そんなことはありません。むしろ、一条さまこそご迷惑ではないでしょうか」
「まさか」
(一条さまも流行ものに興味があるとは意外だけど……お休みも少ないだろうに、いいのかな)
「少し先の話になるが、楽しみにしている」
華の心配を吹き飛ばすように、ふっと、尊の表情が和らいだ。
「……!」
突然の破顔に、華は赤面してしまい、そのまま崩れ落ちそうになった。
座席についていたのが幸いとしか言いようがない。
(美丈夫の微笑! なんてものを見てしまったのかしら)
「華? どうした? やはり初日だから疲れたのか」
「大丈夫です……。大丈夫です、はい、えぇ」
(心臓がもたない可能性はあるけれど大丈夫です)
しかし冗談を冗談だと受け取ってくれなさそうなので黙っておく。
八岐大蛇との戦いが決着してから、華もまた尊への想いをこじらせそうになっては我に返る日々なのだった。
§
あっという間に半月ほどが経ち、華も仕事に慣れてきた頃。
とうとう約束の日がやってきた。
路面電車の一件で、改めて、尊と己が釣り合わないのは身に染みている。
今回の外出は最後のものになるだろう。
(だからこそいい想い出になるようにしたいな……)
華は一条家の玄関で革靴に足を入れる。ようやく革が足になじみはじめて、靴ずれもおさまってきた。
……どろり。足元に何かが絡みつくのを感じて、動きを止める。
『お前だけが幸せになれると思っているのか』
「!?」
声が聞こえた気がして、華は、辺りを見回した。
ばくばくと心臓が大きく波打っている。汗が額に滲む。視界は、どんどん暗くなっていく。
「……華?」
はっと我に返ると、目の前に尊が立っていた。
屋敷側から洋館側へまわってきたらしい。いつもの大島紬に羽織を合わせている。
裾が汚れるのも厭わないように身を屈めて、華の顔を覗き込んできた。
「顔が真っ青だ。疲れが出たなら今日は延期しても」
「いえ、大丈夫です。ちょっとめまいがしただけです」
(あの声は……)
今までに華が知り合ったどの人間とも違い、どの人間でもあるような不気味な声だった。
集落の人々の怨嗟だと言われても納得してしまう。
全員が朔夜に殺された。八岐大蛇顕現の、贄となった……。
「くれぐれも無理はしないように」
「はい。承知しました」
迎えの馬車は既に屋敷の外に停まっていた。
先に乗った尊が、華へ手を差し伸べる。手袋越しではなく素手だ。
「手を」
「は、はい」
(思ったよりごつごつとしていて、男の人って感じ。だけど、父様や
じゃあ、朔夜はどうだったかというと、全く思い出せないのだ。
婚約者だったはずなのに。
本性を現すまでは優しく接してくれていたから、手を見る機会なんていくらでもあったはず、なのに。
華と尊は四人掛けの馬車に、斜めに向かい合って座った。
初めは氷の彫刻のようだと思った。いじわるだと決めつけた。
(だけど、とても温かいひとだ)
一緒に過ごすうちに分かったことだ。
(いろんなことがあったな……)
華が帝都へ来てからもうすぐ半年。季節は、最も暑い時期に近づいている。
最初は体も心も、まったく動けなかった。
そこから刀を鍛えたり、八岐大蛇に立ち向かったりもした。そして今は帝都から離れるために働いている。
(幸せ、って、何だろう)
自立することだろうか。
それは生きることそのもので、幸せとか不幸せとは違う気がした。
「本当に大丈夫か?」
「あっ、はい。すみません。あの、一条さま」
「何だ」
「幸せって、何だと思いますか」
尊が虚を突かれたような表情になる。
それから、瞑目する。
「……考えたことは、ない」
「そうですか」
「答えを見つけたら、教えてもらえませんか?」
「分かった」
それからは無言で、馬車の揺れる音が響く。
「あの歌は、今日は歌わないのか」
指し示すのが故郷の子守歌だと気づき、華は、答える代わりに鼻歌を口ずさむことにした。
「♪~」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます