(三)ずっとここにはいられない
§
帝国劇場は百貨店の隣に建っている。
百貨店の入り口には獅子がいるが、帝国劇場の上方には鶴と亀が彫られている。白い壁が印象的な洋風建築だ。
建物前の大通りは、相変わらず多くの人で賑わっていた。
華も何度か通りはしたが、この人混みには慣れそうにない。
「一条様、お待ちしておりました」
白い手袋をはめた接待係が馬車まで歩いてきて、恭しく頭を下げた。
同じ
「貴賓席へご案内いたします」
「宜しく頼む」
(き、貴賓席?!)
華はなんとか素っ頓狂な声を出さずに済んだ。
尊やくずはと行動を共にして理解したことがある。ふたりの常識は、華の、いや一般の常識から少し上のところにあるのだ。いちいち驚いていると心臓がもたない。
中に入った第一印象は、天井が高いということ。
人々の話し声は空間内で反響して、耳に届く頃には喜びの感情のみになっていた。ざわめきだが、不快なものではなかった。
上方には色とりどりの硝子で見事な模様が施されていた。
これもまた華にとっては初めて見る意匠である。
「あれらはステンドグラスという」
華がぽかんと口を開けて眺めていると、こっそり、尊が教えてくれた。
なお、この後案内された二階貴賓席からの眺めには、流石に声を上げざるをえなかった。
§
演劇の内容は流行の恋愛ものだった。
男性役もすべて女性が演じていた。圧巻の演技と歌声。悲恋かと思われたが最後は結ばれた恋人たちに、観客は惜しみない拍手を送った。
華もまた涙だけでなく鼻水を流しながら、立ち上がり、手を叩いて感動を伝えた。
「楽しめたか?」
「はい……とても……」
ホールを出ても華は鼻をすすっていた。涙も時々不意に溢れてくる。
くすりと尊が笑みを浮かべた。
「そんなに泣いているというのに、か」
「泣くくらいよかったということです」
賑わう劇場を足早に出て、華と尊は、百貨店の食堂街へ向かった。
以前、くずはが華を連れてきた場所でもある。
こちらもまた、尊が個室を予約してくれていた。
(一条さまのご尊顔やお立場を考えたら、真っ当な判断とはいえ)
きらびやかな部屋に二人というのは緊張する。……正確には、給仕係が隅に控えているのだが。
「お待たせいたしました」
やがてテーブルに運ばれてきたのはライスカレーだ。銀色のグレイビーボートにはたっぷりのルゥ、平たい丸皿には白いご飯。
家庭の料理では決して出てこない形式で、見た目からして特別感がある。
添えられた褐色の漬物は独特の風味がする。前回、福神漬けと呼ぶのだとくずはから教えてもらった。
同じくくずはから教わった通りに小さなレードルでルゥをよそうと、白いご飯の隅にかけた。
「いただきます」
さっきまで泣いていたというのに、華は顔を綻ばせてライスカレーを口に運ぶ。
黄色がかった茶色いルゥには、たっぷりの玉ねぎ。それから、じゃがいもやにんじんといった根菜が煮込まれている。
「美味しい……」
ふっと尊が表情を和らげた。
「本当に君は泣いたり笑ったり怒ったり、忙しいな」
馬鹿にしているのではない、優しい声色だった。
華はそれだけで胸がいっぱいになる。
ごまかすように尊へ話しかけた。
「こ、このふしぎな味も慣れてくると美味しいですよね」
「あぁ。においが強いのが難点だが、ここに来ると食べたくなる」
尊もライスカレーを銀色のスプーンで口へ運ぶ。
思わず、華はその仕草に釘付けになってしまう。
(所作が美しい……)
一条家の居候とはいえ、洋館側で生活している華と尊は早々顔を合わせることはない。
食事も別々なので、改めて向かい合うと緊張する。
「これからさらに喜んでもらおうと考えているのだが」
「と、いいますと?」
「この百貨店の階下には、刀剣を展示している店舗がある」
「えぇっ!」
華はたちまち瞳を輝かせた。
くつくつ、と尊が笑う。
「やはり、刀剣が一番か」
「……すみません」
華は頬を染めてうつむいた。
(間違ってはいないけれど、刀馬鹿って思われてる……。間違ってはいないけれど!)
「何故謝る? 君は、央殿へ弟子入りして、刀鍛冶になるのだろう?」
「そ、そうです……そうですとも……」
「もっと胸を張れ。『八重垣』を鍛えたのは紛れもなく君だ」
不意に華は思い出す。
尊と初対面の頃。
若くして中将であることに驚いたら、努力の賜物だと、尊は答えたのだ。
(わたしも、一条さまみたいに強く在りたい)
そのためには努力と経験が必要だ。不要なのは、謙遜だ。
華は居住まいを正す。
「はい。わたしは、立派な刀鍛冶になります」
「その意気だ」
尊が満足そうに頷いた。
§
帰途は、すっかり黄昏時になってしまった。
一条家の屋敷が見えてくると、門の前に、女中頭が立っていた。
玄関ならまだしも門の前。しかもその表情は険しさと不安がないまぜになっている。
女中頭が会釈してくる。尊が、彼女に近寄った。
「どうした?」
彼女は、華が弱っていた頃にとてもよくしてくれた内のひとりだ。
その様子からただならぬ事態が起きているのだと伝わってくる。
「
「……!」
さっ、と尊の表情が曇る。
「華。君は部屋に戻るんだ」
「は、はい……」
一切の質問を受け付けない、頑なな言葉だった。
尊は女中頭と共に足早に行ってしまう。
(出会った頃の一条さまみたいな雰囲気だった……?)
ぽつんと取り残された華は、言われた通りに客室へと戻る。
洋風建築の一室は、仮住まいとはいえ帝都での拠点となった空間だ。
華は百貨店で買ってきたばかりの刀の目録を開いた。
正確には尊が買ってくれた。華が断ろうとしたが、就職祝いだと言って。
(
店舗で尊と見た刀剣はどれもすばらしいものだった。思い浮かべながら目録と照らし合わせていく。
刃文というのは刀の模様。波のように見えるものが一般的だ。
帽子というのは刀の先端の刃文のこと。
刀を鍛える工程の中のひとつ、焼き入れによって生まれる。刀に
知識的な部分は、弟子入り予定の央から教わることができない可能性がある。
一緒に八重垣を鍛えて分かった。央は感覚派なのだ。恐らく、父である仁志とは真逆の鍛冶師だろう。
資金を貯めて一条家を出て行く。
央に弟子入りして、刀鍛冶となる。
目下の目標。
そこに尊はいない。当然だ。住む世界が違う人間なのだから。
(ずっと一緒にいられないのだから、あまり、近づかないようにしなければならない……のに)
起きたことを忘れるなんてできない。
しかし、華は、この先、ひとりで生きていかねばならない……のだ。
今日の楽しかった出来事が萎んでいくようで、華はそっと目録を閉じた。
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