【尊視点】肆
父と子
§
尊は、静寂に包まれた廊下を歩いていた。
(空気が冷えている)
一方で、実際に冷たい訳ではないと気づいて口の端に苦笑を浮かべる。
(違うな。さっきまでが、温かいものだったからだ)
久しぶりの休日を華と共に過ごした。
他愛のない内容だ。観劇をして、百貨店で食事をとり、展示されている刀剣を鑑賞した。
刀剣の前で頬を紅潮させて早口で語る華は見たことのない姿で、新鮮だった。
ただそれだけ。だが、それでよかった。
(帝都まで出てくるとは。よほど私のことを不甲斐ないと感じているのだろうが、だとすると時期が遅すぎでは)
襖の前で立ち止まり、ぎゅっと両の拳を握りしめた。
それから顎を引き、顔をしっかりと上げる。
襖に対して真正面に正座をして、中の人物へ声をかけた。
「失礼します」
反応はない。そっと尊は片手で襖をわずかに引いた。
手をすっと下ろしてそのままさらに引く。
上座では、白髪の男性が和服姿で座って茶をすすっていた。尊の声にも動きにも反応しない。
(……)
心中のみで嘆息を漏らすと、尊は襖をしっかりと引き、頭を下げた。
男性は尊に対して、顔どころか視線を向けようともしてこない。
「どうした。早く入って来い」
しゃがれているが威厳を含んだ、感情を一切乗せない声。
(いつものことだ。気にするな)
諦めるように尊は入室し、向かい合って正座した。
一条
一条家の先代当主であり、尊の父親だ。
深く皺の刻まれた顔は、以前より痩せて見えた。尊が物心ついたときから破顔するのを見たことはなく、年々、表情は険しさを増している。
そんな正だが、尊の成人とともに隠居した。今は他界した妻の故郷に住居を構えていて、帝都まで来ることは年に数えるほどしかない。
「久しいな。息災だったかと問いたいところだが、八岐大蛇の件、儂の耳にも入っているぞ」
語尾に込められた力に、尊は視線を落とす。
「聞くに堪えない無様な話だ。愚息の所為で集落がひとつ消えたとは、実に嘆かわしい」
「……申し開きのしようもございません」
「家督を譲るのは早かったようだな。何故、お前はそんなにも弱い」
尊は畳みを一点に見つめたまま微動だにしない。
大仰な溜息の後、正は緑茶を啜った。
「まぁいい。今日はそんな話をしに来たのではない。実は、芦屋と話がついてな」
「芦屋家と……? 一体、何が」
尊は眉間に皺を寄せる。
「見合いの日取りが決まった。いい加減、藤田の娘のことは忘れろ。お前もいい加減、一条の当主として所帯を持て」
「は? お待ちください、父上っ……」
「異論は認めぬ。いいな」
尊の引き留めも虚しく、正は部屋から出て行った。
「……忘れろ、だと?」
呟きは畳に落ちて、消えることなく残る。
「俺のせいで死なせたというのに、忘れられるものか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます