第十一話 夢も恋も

(一)答え

   §




 最初に視界に映ったのは、真っ白な天井だった。

 空間に漂うのは消毒のにおい。

 つまり、翡翠に呼ばれたときの世界とは違う。ここは現実だ、と華は緩やかに理解する。しかし、一条家の客室でもないようだった。


(生きてる……)


 意識を失って目覚めたときのの実感は、二度目だ。

 そっと左腹に触れると、包帯が巻かれている感触がある。短刀で突いた場所だった。

 ただ、痛みはなかった。どうやらある程度は治っているらしい。


 華が時間をかけて、ホテルのような個室のベッドに寝かされていると理解したとき。


「……華?」


 右側から誰かが名前を呼んだ。

 華は、ゆっくりと頭を右側に傾ける。

 大きな窓から、燦々と光が降り注いでいた。逆光になって顔が見えないものの、ベッドの傍らに誰かが座っているようだった。


「華」


 もう一度、名前を呼ばれた。

 今度は泣き出しそうな声。

 しかし、ようやく誰が傍らにいるのかを理解した華は、恐る恐る言葉を発した。


「……一条、さま?」


 そこにいたのは、尊だったのだ。

 和服姿ということは休日なのだろうか。いつからここにいたのだろうか。


「そうだ。痛むところや、おかしなところはないか? ここは病院だ。治療の設備は揃っている」


 大丈夫です、と小さく答えてから、恐る恐る華は尋ねる。


「あの、朔夜は」

「封印した」


 はい、とも、ありがとうございます、とも言えなかった。

 最適な言葉は見つからない。きっと、これからも、ずっと。

 涙は出てこなかった。胸の辺りが、鉛を飲み込んだかのように重たかった。


 それでもひとつだけ確かなことがある。

 ……ようやく、終わったのだ。


「君は本当に無茶ばかりをする。もう少し、自分を大事にしなさい」

「……申し訳ございません」

「謝る必要はない」

 

 すみませんと言いかけて華は飲み込んだ。


 しばしの、沈黙。

 華は上体を起こして、改めて尊へ尋ねる。


「どうしてわたしは生きているんでしょうか? あのとき、確かにわたしは命と引き換えに、願いを叶えてほしいと言いました。……さん、に」 


 翡翠の正体とはくずはの姉、みどりだった。

 華には詳しいことは分からないが、ずっと翡翠の内側に存在していたのだろう。


 左手首へ視線を落とす。

 翡翠の腕輪はきれいなあかい色に変わってしまったし、どこからかみどりの声が聞こえてくるようなことはない。


 躊躇いがちに、尊が口を開いた。


「君は元々異能を持たない。翡翠の腕輪の使役主はくずはで、あくまでも、くずはの命で君を守っていた。だが君の血液が付着することによって、腕輪の使役主は強制的に君へと変更せざるを得ない状況になった。翡翠もまた、それを望んだ。――君を守るために」


 ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。

 尊は、なるべく分かりやすく説明しようと努めてくれているのだろう。


「これは私の推測だが、代償は翡翠自身の魂が引き受けたと考えられる」


 ただ、決して『みどり』という名前は呼ばなかった。


 華は俯いた。


(それって、みどりさんがもうこの世にはいないってことなんだろうか)


 くずはと尊に対して、申し訳ないという気持ちが湧いてくる。

 ふたりにとって大事な人間だというのに、永遠に、再会する可能性を失ってしまったかもしれないのだ。それがどれだけ辛いことが、想像に余りある。


「何を考えているか想像できるが、君が気にするようなことではない。禁術師を封印することができ、新たな犠牲が出るのも防げた」

「……はい」

「ただ、今回の君の行動にはいくつかの問題点がある。待機を命じられていたのに背いたこと。己の力量を顧みず行動したこと」


 再び、すみませんという言葉を華は飲み込んだ。


(一条さまは正しい。わたしは自分の弱さを知っているというのに無茶をした)


 下手したら華は死んでいた。というよりも、命を投げ打ってでも状況を打開したいと思ったのだ。結果として生き延びたものの尊の指摘は当然のことだ。


「そんな君だからこそ、私は、一生をかけて、君のことを守りたいと思う」


 突然、尊の声色が優しくなった。


「一条さま……?」


 華はゆっくりと顔を上げた。

 逆光でも分かる。

 尊は、黄金の双眸でまっすぐに華を見つめていた。


「弱っている状態の君に告げるのは少しずるい気もしたが、そうでもしないと、君はあっという間に私の傍からいなくなってしまうからな」

「……仰っている意味が、よく分かりません」

「分からないのか? つまり、君が好きということだ」


(……え?)


 言葉通り、華は目を見開いたまま固まった。


(好き? って? 今、言った? 一条さまが?)


 顔がみるみるうちに朱く染まっていく。耳まで真っ赤になったところで、華は唇を震わせた。


「ちょっ、えっ、その!?」

「いきなりこんなことを言われても困るのは分かっている。今はまだ返事は要らない。落ち着いたら、」

「わ、わたしも一条さまのことをお慕いしています! うっ」


 華は尊の言葉を遮り一気にまくしたてて、すぐさま脇腹を抑えた。


「華っ!?」

「い、いえ、傷口が開いた訳ではありません……あいたたた……」


 とはいえ急に動いたせいで痛みが出てしまった。


「看護婦を呼んでくる」

「ま、待ってください!」


 立ち上がった尊の袖を、咄嗟に華は掴んでしまった。

 再びふたりの視線が合う。


「あの、本当に大丈夫です。取り乱しただけなので。それよりも、わたしが意識を失っている間に一体何があったんですか? わたしのことを偽の婚約者としてお父さまへ紹介するという話は覚えていますが」

「……あれは君が私の告白を早とちりしただけだ」

「はい!?」


 華が袖を離したので、尊は椅子に座り直した。


「因みに、父への説明は済んでいる。あとは君の説得と合意を残すのみだ」

「そ、そうでしたか……」


 華は平静を装いたかったが、諦めた。

 どのみち、一番辛いときのことも、刀を見て興奮しているときの様子も知られている。

 尊には絶対に敵わない。


 尊は、口元に手をやって、くすくすと笑う。心底楽しそうに、嬉しそうに、目を細めた。

 

「これが私の答えだ、華。私にとって幸せとは、君と共に生きていくことだ」


 尊が、華の手に己の手を重ねた。

 大きな手だ。華の両手はすっぽりと覆われてしまう。

 その温もりに、こわばっていた心が、緩やかに解けていくようだ。


(覚えててくれたんだ)


 あれは、いつの会話だっただろうか。

 華が尊に質問を投げかけたことがあった。




『幸せって、何だと思いますか』

『……考えたことは、ない』

『そうですか。答えを見つけたら、教えてもらえませんか?』

『分かった』




 考えたことはないと答えた尊が、こうして、自分に向き合ってくれている。

 鼻の奥が、じんと熱い。泣きそうになっているのをごまかすように鼻をすすって、華は、ふにゃりと笑ってみせた。


「どんな大変なことがあっても、一条さまとなら、乗り越えられそうな気がします」

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