第一章 その6
金谷郷政太郎が通う高校の最寄り駅から電車で二駅ほどの、ある繁華街。
その一角にあるビルの前に俺はいた。
ビルの三階の窓にはでかでかと『岩井探偵事務所』と書かれている。
そう。俺が放課後立ち寄ろうとしたのは、俺、岩井猛の探偵事務所だったのだ。
気付けば一週間近くも留守にしていたが不在の間に依頼人が訪れた可能性は……ないか。
そんな自虐的なことをビルの階段を登りながら考えつつ俺は事務所の扉の前で立ち止まり、扉の横に置かれた植木鉢を退かす。
植木鉢の下には事務所の鍵が隠されていて俺はその鍵を手に取り、鍵穴に刺して扉を開けた。
「あの時のままか」
事務所の中は、俺が最後に訪れた時と変わらぬ状態であった。
積み上げられた雑誌、ベッド代わりに使っていて毛布が置いたままのソファー、流し台に無造作に置かれたコップ、ポスターの貼られた壁……うん、いつも通り汚いな。
普段から掃除してないから当たり前のことだが。
さて、俺がこの事務所に来たのは一週間近く留守にしていたから様子を見に来たわけでも、今更この汚い事務所を掃除しに来たわけでもない。
俺が用意できそうな人目につかない場所が、この事務所くらいしかなかったからだ。
「……こそこそ嗅ぎ回るのは、やめにしたらどうだ?」
と、俺は開きっぱなしの扉に繋がる廊下に向かって言った。
今朝、俺が感じた監視されているような視線は勘違いの類などではなかった。
授業中も、休み時間も、放課後も、そしてこの事務所に来るまでの道中も、俺は何度も視線を感じていた。
どんな意図があるのかは知らないが俺は監視する相手と対峙することを決めた。
それが、俺の身に起きたことの真実に繋がる手がかりになるかもしれないと思ったからだ。
そして、この人目につかない事務所で監視する相手に話しかければ、そいつが姿を見せると俺は考えていた。
なぜなら何度も視線を感じる内に、その視線に憎しみの意味が込められていることに気付いていたからだ。
「監視するのがへたくそ過ぎて気付かないフリをするの結構大変だったんだぞ?」
駄目押しの挑発的な言葉を俺が吐いた直後、開きっぱなしの扉から、何者かが勢いよく室内に入り、俺に向かってきた。
実力行使できたか。予想通りだ。だが俺は元刑事。当然格闘術の覚えはある。
というか、特犯は捜査対象の大半がスキラーということもあり、普通の警察官よりも荒っぽいことに巻き込まれることが多く、そんじょそこらの警察官よりも強い自負があった。
だからこそ、突然何者かに襲われそうになっても俺が慌てることはなかった。自信を持って向かってきた人物の手首を掴んで投げ飛ばそうとする。
だが、そこで俺はあることに気付いた。
たしかに俺は格闘術の覚えがある。だが、今の俺は金谷郷政太郎であり、いくら格闘術の覚えがあろうとも、体の筋力は別の話である。
どういうことかというと、金谷郷政太郎の体はまったくないと断言していいほど筋肉のない弱々しい体で、こんな体で人を投げ飛ばすのは不可能だったのだ。
さらに俺が手首を掴んだ人物は俺の手をあっという間に振り払うと同時に掴み返して、俺を背負い投げしたのである。
その結果、俺はまともに受身もとれず、事務所の床に叩きつけられることになる。
「痛ってぇ!」
背中を襲う激痛に、俺が叫び声を上げた直後、
「やっと尻尾を掴んだぞ、金谷郷政太郎!」
俺のことを投げ飛ばしてきた人物が大きな声で金谷郷政太郎の名を口にする。
「警察だ。不法侵入の現行犯で逮捕する!」
そして、投げ飛ばしてきた人物は俺に警察手帳を突きつけてきたのだが、
「はっ?」
俺は警察手帳を突きつける人物の顔を見て思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
俺を投げ飛ばした人物が、知り合いだったからである。
「い、
犬成
「ほう、俺の名前を知っているとは嬉しいね。覚悟しろ。連行してお前が隠している岩井猛の死の真実について全てを吐かせてやる」
その一言で、俺は犬成の目的を全て理解した。
犬成は、俺、岩井猛の殺人事件について追っていたのだ。
そしてチャンスがあれば、その殺人事件に深く関わっているであろう金谷郷政太郎をしょっ引くつもりだったのだ。
そんな犬成からしてみれば、金谷郷政太郎が岩井猛の探偵事務所に不法侵入するなど、またとないチャンスと言えよう。
「ま、待て、犬成! 俺は「言い訳は取調室で聞いてやる!」」
状況を理解した俺は、慌てて犬成に事情を説明しようとするが犬成は聞く耳を持たず、力ずくで連行しようとする。
「ちょ、ちょっと、話を聞――――」
必死に抵抗して犬成に事情を説明しようとする俺だったが、ある光景が視界に入り、俺の思考は一気に急速冷凍されていった。
「……おい、待て」
「いいから大人しく「待てと言っているだろ!」ぼへっ!」
俺は犬成の拘束を振りほどき、自分の肘を犬成の腹に叩き込んだ。
「お、お前、公務執行妨害だぞ」
犬成は苦しそうに腹を押さえて言葉を発するが、
「お前は今、自分が何をしでかしたか分かっているのか?」
俺はまったく気にかけることなく、ふつふつと湧き上がる怒りの感情を押さえ込み、そう犬成に問いただした。
「はっ?」
「右足だ」
「右足?」
そう言いながら犬成が視線を自分の右足に向ける。犬成は一冊の雑誌を右足で踏んでいた。
「いいか、お前が今右足で踏みつけているのはな……」
雑誌の表紙を、今をときめくアイドル、
それはまさに、断罪すべき悪行以外の何ものでもなかった。
「ななかちゃんが表紙を飾った雑誌だ、バカ野郎!」
「ぶべら!」
そんなわけで、俺は手加減一切なしの体の筋力の限界を超えた渾身の右ストレートを犬成の顔面に叩き込み、犬成を吹き飛ばした。
もちろん、それだけで手を緩める俺ではない。俺は吹き飛んで倒れた犬成に近づき、馬乗りになり、
「お、おい、おま「繊細で!」ぶばっ! 公務執行ぼ「可憐で!」ぐへっ! き、聞いているの「かわいいななかちゃんの顔を踏むと何様だ!」げへらっ!」
犬成の言葉を無視し、ひたすら犬成の顔面に拳を叩き込み続けた。
「あれ? この想森ななかが関わった時の無茶苦茶な理由からの暴力……もしかしてせんぱ「ななかちゃんを呼び捨てで呼ぶな!」ぐはっ! や、やっぱり先輩「おらっ!」ぼふっ! せ、先輩、俺の話を聞いてー!」
その最中、犬成が何か俺に話しかけていたようだが、ヒートアップしている俺の頭に犬成の言葉はまったく入ってこなかった。
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