第一章 その3

 校舎に入って自分の下駄箱を探すのに手間取りつつ、奥山さんのあとについていくこと数分。


「どうぞ、旦那様」


 目的地である教室に到着し、俺の前を歩いていた奥山さんが教室の扉を開けてくれた。

 扉の上に設置されているプレートには、2年A組と書かれていた。


「ありがとうございます」


 俺は奥山さんにお礼を言いながら教室に一歩、足を踏み入れる。

 次の瞬間、登校して友人同士で和気藹々と会話していた生徒達が静まり返り、一斉に視線を俺に向けた。

 いや、どんだけ嫌われているんだよ、金谷郷政太郎。


「お、おはよう」


 だが俺はそんな視線にめげず、教室内にいる生徒達にあいさつをする。

 すると教室内にいた生徒達は全員が驚いた表情をしながら、近くにいた友人達とひそひそと話を始めた。


「今、私は感動に打ちひしがれています。まさかあんなに不器用で嫌われ者の旦那様がクラスの皆様にあいさつをする日がくるとは……」


 奥山さんの言葉を聞き、俺は頭を抱えてその場にうずくまりたい気分になった。

 しかし、本当にそんなことをしたら教室内の生徒達、そして奥山さんからの視線がより奇異なものになりそうだったので、グッと堪えて俺は自分の席に座ることにした。


 幸いにも教室の後方に設置された掲示板に座席表が貼られており、俺はその座席表を見て自分の席を確認した。俺の座席は教室の一番後方にあり、右隣の席には奥山さんの名前が書かれていた。


 多分、おそらく、きっと、奥山さんが俺の右隣に座っているのは偶然なのだろう。

 なのに、こんな小さなことでも金谷郷家の権力の影を感じてしまうのはなぜなのだろうか。


「よっこらせっと」


 と、俺が無意識に声を出しながら座ると、


「金谷郷家の当主であるお方がそのような言葉を吐いて席に座るなんて……私は金谷郷家の行く末が心配で、心配で……」


 すぐさま奥山さんの指摘を受けることになる。小芝居のおまけ付きで。というかこの人、わざわざハンカチを出してよよよ、と泣くふりしてやがる。


「はぁー」


 あとどれくらい日常生活で奥山さんからの指摘を受け続けるのか、と憂鬱なことを考えた俺はため息をしながら、奥山さんから視線を反らした。


「あっ」

「えっ?」


 その時、視線を反らした俺は左隣に座る女子生徒と偶然目線が合い、女子生徒の声に続いて俺も声を出してしまった。

 女子生徒は前髪が長めの大人しそうな子であるが髪を整えて化粧をすればかなりの美人になりそうなポテンシャルを持っている見た目をしていた。


 俺は、その子から視線を外すことができなかった。

 ただそれは、俺がその子に見惚れていたからではない。

 というかそもそも、クラスメートの女子生徒達は俺からしてみたら若すぎて子供にしか見えず、恋愛対象以前の話だ。


 俺が女子生徒から視線を外せなかったのにはきちんとした理由があった。

俺は、俺を見つめる女子生徒の視線に、引っかかりを覚えたのだ。

 恋愛感情、というわけではなさそうだ。だが、普段なかなか他者からは向けられない視線だ。


 そう、その視線は――――


「旦那様は一体いつまで千倉ちくら様をそのような変質者の目線で見続けるのでしょうか」


 と、女子生徒から向けられていた視線について考え込んでいると、突然奥山さんが冷め切った声色で俺に話しかけてきた。


「えっ! いや、別にそんな変な感じに見ていたわけじゃ……千倉?」

「千倉奈央なお様です。旦那様は自分の右隣に座るお方の名前を忘れてしまうほど、その歳でもうボケが進行してしまったのですか? ああ、なんとお労しい……」

「あ、いえ、そういうわけじゃ……」


 奥山さんのキレッキレッの言葉をどうにか交わしつつ、俺は視線を隣の席に座る女子生徒、千倉さんに向けた。


「えっと、ごめんね、千倉さん。なんか、目線ずっと合わせちゃって」

「えっ? あっ、うん」


 千倉さんは特段驚くこともなく、返事をしたあとすぐに俺から視線を外した。

 その反応が目線をずっと合わせたことを気にしていないだけなのか、金谷郷政太郎と話したくないだけなのかは、残念ながら俺は判断することができなかった。


「何、あいつ。むかつくんだけど」


 一瞬、俺のことを言っているのではないかと、ドキッとしてしまうような言葉が耳に入り、恐る恐る言葉が聞こえた方向に俺は視線を向けた。

 視線の先には、おもしろくなさそうな表情をしながら俺……ではなく、千倉さんに視線を向ける女子生徒達のグループがいた。


「私としたことが迂闊なことを」


 と、奥山さんは自分が失態をしてしまったかのような言葉を呟いた。


「どうかしたの、奥山さん?」

「いえ、何でもありません」


 さり気なく俺は奥山さんに問いかけるが、奥山さんは何でもないの一言で片付ける。

 だが俺からしてみればその一言で十分だった。


 俺は視線を教室後方の掲示板に張られた座席表に向ける。

 少し霞んで見えるが、なんとか座ったままでも座席表を読み取ることができ、俺は千倉さんに視線を向けた女子生徒達の中でただ一人、席に座っている子の名前を確認する。


 若山わかやま亜子あこ。おそらくこの子がグループのリーダー的存在だ。

 そして確証はないが、千倉さんは若山さんを中心とする女子生徒達に、イジメか、それに準ずる何かをされている。

 若山さんを中心とする女子生徒達が千倉さんへ意識を向けてしまう切っ掛けを自分が作ってしまったから、奥山さんは自分が失態をしてしまったかのような言葉を呟いたのだろう。

 それに俺や奥山さんに聞こえて、千倉さんに若山さん達の声が聞こえないわけがない。

 だが千倉さんは無反応のまま。何かがあるのは確実だ。

 俺の方でも一応、気にはしておくか。


 そんな風に考えていると、チャイムの音が鳴り響いた。


「おーし、お前ら席に着けー。ホームルーム始めるぞ」


 そしてチャイムが鳴り終わってすぐに教室の前の扉が開き、一人の成人男性が教室に入ってくる。多分、このクラスの担任だろう。

 教室内で立ち話などをしていた生徒達が一斉に自分の席に座る。その直後、


「セーフ!」


 教室の後ろの扉が勢いよく開き、派手な茶髪の女子生徒が滑り込むように教室に入ってきた。


「アウトだ、バカ」


 その女子生徒を見ながら担任の教師がため息交じりの言葉を口にする。


「はぁ? まだホームルーム始まったばっかだろ、しょうちゃん」


 今、女子生徒が口にしたしょうちゃん、というのがこの教師のあだ名なのだろう。

 本名は……おっ、ラッキー。座席表の教壇の所に書かれている。新地あらち昇一しょういち……新地教諭か。


「たく……早く席に着け」

「ほーい」


 にしてもこの女子生徒は堂々としているというか、図太いというか、まぁ、やんちゃな子なんだろう。

 ただ、新地教諭の反応を見るに、そこまで問題がある生徒ではないんじゃないかと推測できる。

 俺はそんな遅れてやってきた女子生徒の名を、また座席表を見て確認する。

 江月えづき咲弥さや。それが彼女の名だった。


「おーし、出欠を取るぞー」


 新地教諭の言葉を聞き、わざわざ何度も座席表を確認しなくてもこの出欠でクラスメートの名前を確認できたことに気付く。

 自分の効率の悪さにため息をつきつつ、俺はしっかりと新地教諭が発する生徒の名前とそれに対して返答する生徒の顔を確認することにした。


「金谷郷。ん? 金谷郷政太郎はいないのかー?」

「あっ、すいません。います、います」

「金谷郷、いるならちゃんと返事をしろ」

「すいません……」


 クラスメートの名前と顔を確認するよりもまずは、自分が金谷郷政太郎と呼ばれることに慣れなきゃダメだな……。

 そんなことを俺は心の中でそっと呟くのだった。

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