第三章 その6
ふと気付くと、俺は谷山の病室に向かって駆け出す寸前まで座っていた休憩所のイスに再び座っていた。
どうやってここまでやって来たのかは、まったく覚えていない。
視線を腕の袖に向けてみれば、谷山が掴んだあとが皺として残っていた。
谷山はどうなっただろうか。医者が懸命な蘇生措置を施していたが多分……もう……。
「旦那様」
なぜ、こんなにも理不尽なことが起こるんだ。
なぜ、こんなことがまかり通ることが許されるんだ。
なぜ、加名盛と同じ悪魔が生きているのをこの世界は許すんだ。
「旦那様」
この悪魔を、俺は許さない。
もしも、この悪魔が見逃され、生き続けるのならば、俺が、成し遂げられなかった、あの時の、引き金を、今度こそ――――
「……旦那様、ご無礼をお許しください」
当然胸倉を掴まれたことで、俺の思考は中断させられた。
一体誰が胸倉を掴んできたのか認識する前に、
「ぶへっ!」
俺は左頬に強烈なビンタを食らった。
「いつまでそうしてらっしゃるのですか?」
俺の胸倉を掴み、強烈なビンタを叩き込んできたのは奥山さんだった。
予想外の人物からの一撃に俺は言葉を発することができず、ただただ奥山さんの顔を見ることしかできなかった。
「ここ数日、旦那様を見守り続けさせていただきました。ここ数日の旦那様は、輝いていました。真実を追い、誰かの笑顔を守っていました。そうした旦那様の姿を見て私は、旦那様には誰かを守れる力があるのだと思いました」
奥山さんは、拳を強く握り締めながら、何かを堪えるように口を開き、話し始めるが、
「旦那様は…………旦那様は変わりました」
ほどなくして、奥山さんの両目から涙が溢れ始めた。
俺はそんな奥山さんの姿を、まるで罪を告白する人間のように感じた。
「ここ数年の旦那様は、何かに苦しんでいて、辛そうで、周囲とも距離をとっていて、私は旦那様をどうにかして救いたいと思っておりました。ですが、私は何もすることができませんでした。精々、旦那様のそばでお仕えすることが精一杯でした」
奥山さんが口にする言葉は、おそらく奥山さんにとっては自分自身を傷つける言葉なのだろう。
じゃなきゃ、こんなにも辛そうに話などしない。
「今の旦那様は苦しむこともなく、辛そうでもなく、周囲にも溶け込もうとしてらっしゃる。それは私が見たかった旦那様の姿です。ええ、そうです。私が、見たかったんです」
ではなぜ、奥山さんは自分自身を傷つけながらも言葉を紡ぎ続けるのだろうか。
それは多分、俺を救おうとしているからだろう。
人として、落ちてはならない場所に落ちかけている俺を、必死に引きとめようとしてくれているんだ。
「だからどうか、旦那様は、そんな旦那様でいてください。そして真実を追い、誰かの笑顔を守ってください。それがきっと…………いいえ。絶対に正しいことであるはずなんです」
こんな無垢で、純粋な人の気持ちに、俺は答えたい。
いや、答えるだけじゃダメだ。俺は挑まなければならない。悪魔に。
だから見失ってはいけない。自分の中にある歪だが人の道は踏み外していない正義を。
「……奥山さん、ありがとう。目が覚めたよ」
そして俺は決意を固め、奥山さんにお礼の言葉を述べた。
その言葉を受け取った奥山さんは涙を流しながらも、やさしく微笑んだ。
そんな奥山さんを見た俺はポケットからハンカチを取り出し、そっと手渡した。
「これで涙を拭いてきて」
「ありがとうございます」
奥山さんはハンカチを受け取り、そのまま休憩所から離れようとするが、
「奥山さん」
俺は一度、奥山さんを呼び止めた。
「全部終わったら、話がある。時間、作ってもらってもいいかな?」
「……はい」
奥山さんは俺の問いに対して覚悟を滲ませる返答をしてから、休憩所を離れていった。
そして俺は休憩所から離れていく奥山さんを見送った後、ポケットに入れておいた音楽プレイヤーを取り出し、イヤホンを耳につけた。
聴く曲は当然『私は想森ななか』だ。
今から俺は、江月さんの殺人事件の推理を始めるのだ。
江月さんが殺害された理由。これについては現時点の情報だけで推理することは不可能だ。
だから殺害理由については後回しだ。
まずは、江月さんが新地教諭のミサンガを持っていた理由について整理しよう。
これについては、俺の中に一つ仮説がある。そしておそらくその仮説は正しいはずだ。
この仮説を犬成に伝え、警察が調べれば事実であることが判明するだろう。
だが、新地教諭が犯人であることを覆す事実とは言えない。
そこで次は犯人について考えてみよう。
犯人がスキラーであることはおそらく間違いない。
ほぼ完璧に再現した加名盛が起こした殺人事件の現場に酷似したあの状況、そして俺に送られてきた本物と見間違えるほどの偽物の捜査資料。
こんなことができるのは警察関係者以外ではスキラーだけだ。
そして過去の事件の事例から、どんなスキルが使われたのか、推測することはできる。
ここまでは分かっている。
だが、まだ犯人の正体には届かない。
思い出すんだ。どんな小さなことでもいい。犯人に繋がる証拠、もしくは矛盾があるはずだ。
そんなことを考えながら、俺は目の前の机に置きっぱなしのままになっていた奥山さんがくれた缶コーヒーを手に取り、蓋を開けて飲んだ。
だが、考えながら飲んだのがいけなかった。
缶コーヒーから口を離した時に少しだけ中身をこぼしてしまい、着ていた服に染みをつけてしまった。
「あちゃー」
と、呟きながら俺はハンカチを取り出そうとするがハンカチは奥山さんに渡してしまったことを思い出し、どうすることもできないまま広がる染みを見ることしかできなかった。
そして染みを見ていた俺の視界の隅に、谷山に掴まれたあとの腕の袖の皺が入った、その時だった。
「……あっ」
俺の頭の中に、谷山が残した最後の言葉が浮かび上がり、その言葉に小さな矛盾があることに気付いた。
なぜ、小さな矛盾は生まれたのか。
谷山は死ぬ直前だった。わざわざ矛盾するような言葉を残す必要はない。
すなわち、この小さな矛盾が生まれたのは谷山が原因ではない。
「そういう、ことか」
俺は、真実を掴み取った。
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