第四章 その2

 俺が岩井猛であると告げた瞬間、旭さんは少し口を開け、呆けたような表情をするが、


「……先ほどから旦那様がおっしゃっていることがまったく理解できません」


 すぐに頭を切り替え、そう俺に返答してきた。


「なるほど。たしかにとぼけられてしまっては認めさせるのは難しいです……が、それはもう過去の話です」

「ですから、何をおっしゃって「今日も奴が僕の体の中で暴れていた」っ!」


 俺が岩井猛であると告げてもなお、金谷郷政太郎として俺に接しようとする旭さんだったが、俺が口にした一言でその態度は一変した。

 俺は旭さんの様子を確認しつつ、言葉を続けた。


「苦しい。辛い。でも、耐えるしかない。これが僕に科せられた罰なのだから」

「な、なぜ……」


 旭さんは言葉を震わせながら、そう俺に問うてきた。

 今、俺が口にした言葉はあるものに書かれた文章だ。そして、その文章を俺が読み上げることはできないはず。

 そう旭さんは思っていたからこそ、そんな問いを俺に投げてきたのだろう。


 さて、問われたのならば回答せねばならない。

 俺がなぜ、この文章を読むことができたのか。


「奥山さんが渡してくれました」


 俺は、アクリル板越しにいる旭さんでは視界に入れることができない膝元に置いていた赤いノートを手に持ち、旭さんに見せ付けた。

 この赤いノートこそ、俺が死ぬ直前に読んでいた赤いノートそのものである。


「この赤いノートを私はあなたに殺される直前まで読んでいました。殺された時のショックが原因か内容については忘れていましたが、私が殺された理由がもしかしたらこの赤いノートにあるかもしれない。そう考え、私はその行方を探していました。

 そしてある出来事が切っ掛けで奥山さんが赤いノートを所持しているのではないかと推測し、彼女に尋ねたところ数冊の赤いノートを渡してくれました。殺された私の死体が発見された直後、あなたから決して中身を読んではならないと注意されながら誰にも見つからないように隠してほしいと言われた、という証言付きで」


 赤いノートが記載されていたパンフレットを見た時の様子から、奥山さんが赤いノートの行方について何らかのことを知っていると推測した俺は千倉奈央の事件を解決したあと、奥山さんに赤いノートの行方について尋ねた。

 すると彼女は重要な証言と共に数冊の赤いノートを渡してくれたのだ。


「一応補足しておくと奥山さんはあなたの言いつけをきちんと守ってこの赤いノートを読んではいないと思いますよ。なぜなら仮に読んでいたら、奥山さんは気が気じゃなかったはずですからね。例えば、こんな文章とか」


 そう言いながら俺は別の赤いノートを取り出し、その赤いノートの最初のページを開いた。

 そこに書かれていたのは、当時小学生だった金谷郷政太郎が書いた一番最初の日記だ。




 今日から日記を書くことにした。

 僕は自分の苦しみを他人に言いづらい立場にいるが、日記として書き出すことで自分の中から苦しみを吐き出してみたらどうかと、旭がアドバイスしてくれたからだ。


 ただ、どうやってこの苦しみを書けばいいのか悩んでしまう。

 こういった時は、悩む前に書いてみるのがいいんだっけ? と、思うまでに三十分。時間をかけすぎだと自覚する。

 そんな風に悩んだ僕は、まずは一ヶ月前、金谷郷家の当主となり、色々と落ち込んでいた僕を少しでも元気付けようと旭が近くの海に車で連れて行ってくれた日のことを書くことにした。


 あの日、海の近くの道を走る車の窓から景色を見ていた僕は、岩場に人が倒れていることに気付いた。すぐに旭に車を止めてもらって、僕は急いで車を降りて倒れている人に近づいた。

 その人にはまだ意識があった。そしてその人は近づいてきた僕に顔を向けた。

 その時、僕はその人の目を見た。その人の目は、青色の目だった。僕はその目が、とても怖く感じた。

 僕が怖がっている中、その人は僕に向かって右手を伸ばしてきた。その右手に僕は、言葉にできないほどの恐怖を感じた。


 気付いたら僕は、右手に血の付いた石を持っていた。そして、目の前には頭から血を流して倒れている人がいた。

 何が起きたのか、理解したくなかった。

 遅れてやってきた旭は僕を見て顔色を青くしたけどすぐに、あとのことは任せてください、と言ってどうにかしてくれた。

 旭は僕に落ち度はないと言ってくれた。でも、僕はそんな旭の言葉を素直に受け止めることができなかった。

 だって僕はまた、罪を背負ってしまったのだから。


 しかし、そのすぐあとのことだった。僕はふと気付いたら両手で旭の首をしめていた。

 すぐに僕は旭の首から両手を離して謝った。旭は気にしないでください、と言ってくれたけど、僕は何が起きたのかまったく分からなかった。

 でもすぐに、僕はあることに気付いた。


 僕の中に、僕以外の誰かがいる。


 それは他人に説明するのが凄く難しい感覚だったけど、たしかに僕はそう感じていた。

 何で急にそんなことを感じるようになったのか。

 すぐに思いつく原因は一つだけだ。倒れていたあの人が僕に右手を伸ばした時に何かをした。


 僕の考えは正しかった。後日、僕はニュースであの人の正体を知った。

 あの人は、犯罪者だった。しかもただの犯罪者じゃない。世間を騒がした、あの連続殺人犯だったのだ。

 僕は確信した。連続殺人犯の正体がスキラーであると。そして、恐ろしい殺人鬼がスキルを使い、僕の心の中に入ったのだと。


 僕は、すぐにこのことを旭に打ち明けた。

 それから始まったのは、終わりのない戦いだ。

 僕は、僕の中にいる殺人鬼に自分の意識を奪われるのではないかという恐怖を持ちながら日常を過ごすことになる。


 何も考えずにいるのが怖い。油断したら僕の中にいる殺人鬼が意識を奪ってきそうだから。


 夜、寝るのが怖い。起きたら自分の意識がなくなっていそうだから。


 そして何よりも、意識を奪われて周りの誰かを傷つけたり、殺してしまうことを考えるのが怖かった。


 旭の助けもあり、どうにか今日まで僕は僕として過ごすことができた。

 ただ、周りを気にする余裕はない。ついつい、イライラしながら誰かに接してしまい、その誰かに嫌われるようになってしまった。それが、とても苦しい。

 きっと、僕が生きている限り、この苦しみは続くと思う。

 いつ、僕が僕でなくなるのか。それは分からない。


 でも、ほんの少しだけ嬉しいこともある。それはエイリーだ。

 エイリーは、今も変わらず僕に接してくれる。

 エイリーだけが、僕の中にある僕を見失うことなく見続けてくれている。

 エイリーには、このことは隠し続けておくつもりだ。余計な心配をかけたくないから。

 たとえ何があろうともエイリーだけは絶対に傷つけたりしない。

 それが今、僕が思い描いている小さな目標だ。


 最初悩んだのが嘘みたい書くことができた。読み返してみて、まだ僕が僕であると自覚することができる。

 だから、明日の僕へ。明日も日記を書き、読み返して僕であり続けてくれ。




 それが、金谷郷政太郎が書いた日記の内容だった。

 当時、小学生だった金谷郷政太郎がどんな思いでこの日記を書いたのか想像するだけで胸が痛む。

 だがそんな日記には、謎に対する多くの答えが書いてあった。


 まずは、金谷郷政太郎自身についてだ。金谷郷政太郎はなぜあそこまで他人に嫌われていたのか。

 それは、金谷郷政太郎がずっと戦い続けてきたからだ。自分の中にいる殺人鬼と。


 その戦いは、金谷郷政太郎にとって一瞬も気の休まることのないものであり、どれほどの負担だったかは想像もできない。

 自分の行動を自分の意思でコントロールすることができず、必死に抵抗して、表情は自然と誰かを睨みつけるような険しいものになっていただろう。


 そんなことを金谷郷政太郎は何度繰り返したのだろうか。

 それが原因で何度他人から嫌われたのだろうか。

 そして、他人から嫌われて何度傷ついたのだろうか。

 俺は、金谷郷政太郎に同情することしかできない。


 次に、金谷郷政太郎の中にいた殺人鬼について。日記にも書かれている通り殺人鬼のスキルによって金谷郷政太郎の受難は始まった。

 では、金谷郷政太郎をそのような状況に陥らせた殺人鬼のスキルの能力とは何か。    

 様々な可能性が考えられるが、一番可能性として高いのはこの能力しかない。


 自分と相手の心を入れ替える能力。


 なぜこの能力の可能性がもっとも高いと考えたのか。そこには二つの理由がある。

 一つ目の理由は、殺人鬼の正体だ。世間を騒がせた連続殺人犯で、日記が書かれた日付のおよそ一ヶ月前に金谷郷政太郎が海沿いの岩場で倒れているところ見つける可能性があり、青い目を持った人物。これらの条件に当てはまる殺人鬼が一人だけいる。


 加名盛・ランドル・景。かつて俺が対峙した連続殺人犯。

 対峙した時に見た奴の青い目は今でも覚えている。

 そして加名盛は俺の目の前で崖から海に向かって飛び込んでいる。どこかの海沿いの岩場に流れ着いていてもおかしくはない。


 そんな加名盛が引き起こした連続殺人。被害者は皆、被害者自身が自分の腹をナイフで割き、そこに自分の手を突っ込んで中身をかき回して恍惚とした表情をして死んでいた。

 当時の捜査で警察は真実を突き止めることができなかったが、加名盛がスキラーであり、加名盛が使うスキルが自分と相手の心を入れ替える能力だと仮定すると、この異常な現場は説明することができる。

 加名盛は自身のスキルを使って被害者と自分の心を入れ替え、被害者となった加名盛が腹をナイフで割き、手を突っ込んで中身をかき回して殺害したのだ。


 死体の前に必ず残されていた一脚のイスと何者かが縛られていたと思われるロープは、おそらく加名盛がスキルを使用した際に自分の体を支えておくため、もしくは入れ替わったことによって加名盛の体を使って抵抗しようとする被害者を押さえつけておくため、あるいはその両方の目的で使用していたのだろう。

 ただ、被害者に意識があって抵抗していた場合、被害者は目の前で自分の腹を割かれ、その中身を手でかき回される光景を目にしていたことになる。その時の絶望がどれほどのものだったのかは、あまり想像したくない。


 しかし、このことで一つはっきりすることがある。それは加名盛の動機だ。

 加名盛が海に飛び込む直前、奴は俺にこう問いかけてきた。あなたにとって死とは、何だ、と。

 そして続けざまに加名盛が口にした、私にとって死とは、快楽さ、という言葉。

 これが、加名盛の動機だったのだ。


 加名盛にとって死とはまさに快楽を得る瞬間だったのだ。

 だが、死は人間であれば普通一度しか経験することのできない体験だ。そう、普通ならば。

 加名盛には、自分と相手の心を入れ替えるスキルがある。加名盛はこのスキルを使い、他人に移り変わることで一度しか経験できない死の時の感覚を存分に味わい、被害者を殺害したのだ。何度も何度も。

 これこそが、連殺人事件の真実。加名盛は自分の欲求を満たすために殺人を犯し続けたのだ。


 続いて、加名盛のスキルが自分と相手の心を入れ替えるものだと俺が思ったもう一つの理由。

 それは、今の俺の状況そのものだ。

 私立探偵、岩井猛である俺が金谷郷政太郎になっている。この状況を説明できるスキルは自分と相手の心を入れ替えるぐらいしか考えられない。


 そもそも加名盛がスキルを使って相手の体に移って犯行を行った際、本当に死ぬ直前には加名盛は自分の体に戻る必要がある。でなければ加名盛は繰り返し死の感覚を味わうことができないからだ。

 そのため加名盛のスキルは心を入れ替えた先の相手の体でも使えたはずなのだ。


 このことを言い換えると、加名盛の意思が体の中にあった金谷郷政太郎も同じスキルが使えたはずだ。

 そして使えたからこそ、金谷郷政太郎は何らかの意思を持って俺と自分の心を入れ替え、俺は今、金谷郷政太郎になっているのだ。


 以上が、加名盛のスキルが自分と相手の心を入れ替える能力であると俺が推測した二つの理由となる。

 ただし、この推測には一つだけ問題点がある。

 加名盛のスキルが自分と相手の心を入れ替える能力だった場合、本来ならば加名盛がそのスキルを使った時点で、金谷郷政太郎の意思は加名盛の体に行ってしまうはずだ。


 しかし実際のところ金谷郷政太郎の意思は、金谷郷政太郎自身の体に残り続け、加名盛の意思だけが金谷郷政太郎の体に入ってきてしまっている。

 なぜこのようなイレギュラーなことが起きたのか。これは想像に過ぎないが、加名盛がスキルを使うまさにその瞬間、身の危険を感じた金谷郷政太郎に頭部を石で殴られたことでその体が死んでしまったのが原因ではないだろうか。

 つまり、加名盛のスキルが中途半端な状態で発動し、加名盛の意思だけが金谷郷政太郎の体に行き、体の主である金谷郷政太郎の意思に逆らって主導権を握ることができなかったということだ。


 まぁ、加名盛の能力については想像で語るしかない部分もあることから分かるように、現時点では仮説の領域を抜け出すことができていない。

 この領域を抜けるには何かしらの新たなる証拠や証言が必要になってくる。

 ならば、そんな証言を引き出せばいい。

 そう考えながら俺は、アクリル板越しにいる旭さんに視線を向けた。


 金谷郷政太郎の日記を読み終えたあと、俺は日記の内容を踏まえた俺の考察を旭さんにも話していた。

 その間、旭さんは一言も喋ることなく黙って視線を下に向け続けていた。

 余計なことを喋らないようにしているのか、どう反論するべきか考えているのか。

 何を思って旭さんが黙っているのかは分からないが、俺は旭さんの態度を気に掛けることもなく話し続けた。


 だが、それももう終わりだ。

 ここから先は旭さんの言葉を引きずり出さなければならない。

 そう決意し、俺は少しだけ前のめりになりながら旭さんに話しかけ始めた。

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