第一章 その5

「はぁー」


 高校生としての一日が終了し、俺は机に突っ伏した。

 どうにか心は折れかけるだけで済んだが、疲れ度合いは半端なものではなかった。

 というか、頭を痛ませながら必死に授業を理解しようとする中、問題を答えるよう教師に指されて、頓珍漢な解答をしようものなら奥山さんの小言が炸裂するというトラップがあり、俺の疲れはより増したと言える。


「明日は遅刻するなよ」

「分かってるよー」


 と、机に突っ伏していると、新地教諭と江月さんの会話が耳に入り、俺は顔を上げて教室から出る江月さんの姿を視界に収めた。

 今日一日この教室で過ごして、江月さんという女性はやんちゃな性格ではあるが、他者に迷惑をかけるわけでもなく、あいさつもきちんとする子であることが分かった。

 ああいう子なら話しかけられても気軽に対応することができるだろう。


「ねぇ、金谷郷君」

「は、はい?」


 突然千倉さんに話しかけられ、驚いてしまった俺は声が上ずりながら千倉さんに返答してしまった。


「一つ、聞いてもいい?」

「な、何かな、千倉さん?」

「今日の金谷郷君、いつもと違ったね」

「えっ?」

「朝あいさつしてたし、こんなに気軽に話しかけることなんてできなかったし、何よりも人に謝ってくるなんて今までの金谷郷君からは考えられないかな。まるで、人が変わったみたい」

「あ、あはははっ。そう、かもね」


 クラスメートとして、ある程度金谷郷政太郎に接している千倉さんのような人間からすれば今の金谷郷政太郎に違和感を持つのは当然のことだ。

 だからそのことを指摘するのは何ら間違っていない。理解できる行動と言える。


 ただ、俺が金谷郷政太郎になっていることに違和感を持ち、指摘をしてくる人間は千倉さんが初めてであり、そのことに俺は動揺してしまい、下手な相槌を打つことしかできなかった。


「あっ、もしかして失礼なこと言っちゃった?」

「ぜ、全然そんなことないよ」

「そう。なら、いいの。じゃあ、また明日」

「……うん。また明日」


 教室をあとにする千倉さんの背中を見ながら俺は、明日から千倉さんとの接し方について少し気を付けなければならないと考えた。


「旦那様」


 その時、帰り支度を終えた様子の奥山さんが、申し訳なさそうに俺に話しかけてきた。


「大変申し訳ございませんが、私はこのあと私用のため、ご一緒に帰宅することができません。迎えの車は用意しておりますので、お一人でお帰りいただいても問題ないでしょうか?」


 奥山さんが言う私用について、俺はその内容が千倉さんに関することであると推測していた。

 今朝の件で若山さん達の機嫌を損ね、それが千倉さんに向く危険性がある。それを回避するため、何らかの策をこれから講じるのだろう。

 なぜそんなことが分かるのかといえば、まだ短い付き合いだが、何となく奥山さんがそういう人間だと思えたからである。


「あー、うん、いいよ。というか俺もちょっと一人で寄りたい所があるから、車もいらないよ」


 また、奥山さんが別行動をするというのは俺にとってありがたい提案でもあった。

 今日、俺は一人である場所に行きたいと思っており、奥山さんがいない方が、都合がよかったのだ。


「そうですか……。分かりました。では、迎えの車は帰らせておきます」

「うん。お願いします」

「では、失礼いたします。くれぐれも金谷郷家の名を汚すようなことだけはなさらないように」

「あっ、はい」


 奥山さんの中で俺がどんなことをしようとしていると処理されたのか、憂鬱に想像しながら俺は返答する。

 そして、奥山さんが教室を出て行ったすぐあとに、


「えっ、マジ! それヤバくない?」

「しっ! 声が大きい!」


 そんな若山さん達の会話が耳に入り、俺は若山さん達の方に視線を向ける。


「で、でも、大丈夫なの?」

「平気よ。バレるわけないわ」


 取り巻きの子達が不安そうに疑問を口にし、若山さんは自信満々の表情をしながら返答していた。それがよからぬ話であることは、すぐに分かった。

 俺はそのよからぬ話が千倉さんに向けられるようなものであるか探ろうと、こっそり若山さん達の話を聞こうとするのだが、


「おーい、金谷郷」


 タイミング悪く教室に残っていた新地教諭に呼ばれ、俺の意識は新地教諭に向いてしまう。


「は、はい」

「ちょっといいか」


 そう言いながら新地教諭が俺のことを手招く。

 ふと、視線を若山さん達の方に向けてみれば、若山さん達は席を立ち、教室の扉に手をかけていた。


「……構いません」


 探りを入れるのが不可能と判断した俺は大人しく新地教諭の話を聞くことにした。


「ここじゃなんだから、場所を移そう」


 そして俺は新地教諭に先導され、教室からある場所に移動した。

 それは、指導室であった。


「それで先生、用件はなんですか?」


 今日一日の学校生活で、指導室で指導を受けるようなことをした身に覚えがない俺は真っ先にそう新地教諭に問うた。


「いや、今日のお前、いつもと違って積極的に他人と交流してたじゃないか。何かあったのか?」


 何と千倉さんに続き、新地教諭にも金谷郷政太郎になった俺への違和感を指摘された。

 さすがに千倉さんに指摘された直後ということもあり、俺は落ち着いて言葉を口にし始める。


「そんなに人と積極的に交流してませんでしたかね?」

「何言ってんだ。入学した頃からやたらと人を避けてたじゃないか」


 嫌われっぷりからそうだろうとは思っていたが、どうやら本当に金谷郷政太郎は周囲から浮いた存在だったようだ。

 そんな金谷郷政太郎が急に周囲と関わろうとするなど、新地教諭からしてみたら驚天動地のことだろう。


「まぁ、どんな心境の変化があったが知らんが交流するのはいいことだ。……ただ、千倉との交流は慎重にな」


 新地教諭の言葉を聞き、俺は姿勢を正した。どうやら新地教諭も千倉さんと若山さん達の関係性に気付いているようだ。


「若山さん達がいるからですか?」

「分かっているなら話が早い。俺も気にはかけているんだが、いかんせん確証がないし、千倉もなかなか本当のことを話してくれんからな」


 なるほど。若山さん達が千倉さんに何かをしているのは間違いないが、証拠を残していないか、見えないところで行っているのだろう。

 そしてそれが原因で、新地教諭も表立って若山さん達を注意することができていないようだ。


「というか、金谷郷は千倉と若山達のことで何か話せることはあるか?」

「すいません、話せそうなことは何もありません」

「そうか……。分かった。もし何かあったら話してくれ」

「分かりました」


 少なくとも、新地教諭は本気で千倉さんと若山さん達のことを気にかけていて、悪い教師ではない。

 だから何かあった時には、新地教諭にきちんと報告しよう。


「呼び出してすまなかったな」


 と、言いながら新地教諭が右手で俺の肩を二度、ポンポンと叩いた。


「いいえ。……ん?」


 その時、俺の視界にあるものが入った。それは、新地教諭の右手についていたミサンガであった。

 何か叶えたい願いが新地教諭にあるんだと思いつつ、新地教諭がつけているミサンガは新地教諭自身が用意したものではないだろうと俺は推測した。

 なぜなら新地教諭が身につけていたミサンガはある程度の期間つけていたため色落ちしていたが、元が鮮やかなピンク色だったことが分かる女性向けの代物で、親しい女性、即ち恋人からの贈り物である可能性が高いと判断できたからだ。


「先生、そのミサンガって恋人からのプレゼントですか?」


 だから俺は世間話のつもりで、ミサンガについて新地教諭に質問する。


「えっ? ……はっ。そんなんじゃないよ」


 だが新地教諭は短く笑ったあと、俺の言葉を否定した。認めるのが恥ずかしいのだろうか。


「じゃあな。明日も学校ちゃんと来いよ」

「はい、また明日」


 引き止めて深掘りする話でもないだろうと判断した俺は、そのまま指導室から出る新地教諭を見送った後、教室にカバンを取りに戻り、目的地に向かうことにした。

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