第四章 その6
「旭さん。あなた、とんだ嘘つきですね」
「…………はっ?」
帰ろうとした俺の突然の言葉に、旭さんは呆気にとられたのか、随分と間抜けな声を出した。
俺は、旭さんの様子を見て笑みを浮かべながら再び面会室のイスに座り、話を始めた。
「あなたはまだ、真実を話していません。例えば、あなたが私を殺そうとした本当の動機です」
「……何を言うのかと思えば。岩井様、私は全てをお話ししましたよ」
俺の言葉を聞いた旭さんが、瞬きをしていたら見逃しかねないほんのわずかな一瞬だけ、真顔になったが、すぐに先ほどまでと同じ調子で会話を始める。
その反応は俺にとって、十分過ぎるほどの自信を与えてくれるものだった。
「そうですか。……旭さん。実は一つ、私はあなたに話していないことがあります」
「えっ?」
「今日、私があなたとこうして話しているのは、ある事件と向き合うためです。ただし、その事件とは私があなたに殺された事件ではありません」
俺が放った言葉を耳にした旭さんの顔が一瞬だけクシャッと歪んだ。
「金谷郷政太郎の日記に書かれた殺人鬼。当時報道されていましたが、名を加名盛と言います。この加名盛は連続殺人事件を起こし、その事件の捜査に私も関わっていました。ですが、連続殺人事件は今から五年前、犯人である加名盛が逮捕される直前に海に飛び込んで行方不明になったことで不本意な形で幕を下ろすこととなりました。
そして今から五年前、そのことが切っ掛けで私は警察を辞めました。同じく今から五年前、金谷郷政太郎は加名盛と出会い、一つの体の中で加名盛の意思と同居して生きていくことになりました。このように、五年前には様々な人間の人生を変えることになる出来事が数多くありました」
旭さんが視線を俺から外す。
今、俺の目の前でそんな行為をするのは核心を突かれていると自白しているかのような行為に他ならないが、俺と視線を合わせ続けていたらボロを晒してしまうと考えて視線を外すしかなかったのだろう。
「そんな五年前という過去について思い返してみると、まだまだ色々な出来事があります。今から五年前、奥山さんが金谷郷家に使用人として引き取られました。そして…………今から五年前、金谷郷家前当主、金谷郷剛三郎が病死しました」
剛三郎の名が出た瞬間、旭さんの額から一筋の汗が流れ落ちた。
「これは当時、警察が撮影した剛三郎の死体が写った現場の写真です。この光景はあなたも目撃していますね」
俺は懐から写真を取り出し、アクリル板越しに旭さんに見せつけた。
写真にはトイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れこんでいる浴衣を着た剛三郎の姿が収められていたが、旭さんはその写真に視線を向けようとはしなかった。
そんな旭さんの態度に構うことなく、俺は話を続けた。
「さて、病死した剛三郎ですが、死因を詳しく言うと持病であった喘息の発作による窒息死です。どうやら剛三郎は、就寝中に起きて喘息の薬を枕元に置いたままトイレに向かってしまい、運悪くトイレで発作が起きてそのまま亡くなってしまったようです。
剛三郎の死は警察の手によって入念な捜査が行われました。それは剛三郎が政界や財界に影響力を持っている人物だったからという理由もありますが、それ以上に剛三郎が持っていたスキラーへの差別意識が警察の捜査に大きく影響しました。警察はある疑いを持っていたんです。スキラーへの差別意識を持つ剛三郎を恨んだスキラーが起こしたスキル犯罪ではないかと。
私もつい最近知ったんですが、その捜査には特犯の人間も極秘で参加していたようです。しかし警察が捜査した結果、剛三郎の死にスキラーが関わっている可能性は否定され、剛三郎の死は病死として処理されることになりました」
スラスラと、言いよどむことなく俺はここまで分かっている剛三郎の死に関する捜査の内容を口にする。
「と、ここまで剛三郎の死について整理した時、私の中にある既視感が生まれました。私が殺された事件と似ているな、と。私が殺された事件は、犯人であるあなたが自供して警察に一定の結論を与えることで、隠したい真実を隠し通しました。そして、剛三郎の死もまた、警察がスキル犯罪ではないという一定の結論を得て病死として処理されました。
偶然でしょうか。いやそれとも、剛三郎の死にも隠したい真実があるのではないか。私は後者の方が可能性として高いと考え、あらためて剛三郎の死に関する捜査について見直しました。
その結果、ある観点の捜査がスッポリと抜け落ちていることに気付きました。それは、スキルなど関わっていない、ただの殺人の可能性です」
俺の言葉を聞いて動揺した姿を見せまいと堪えようとしたからなのか、微かにギュッとズボンの布を掴んだかのような音が、旭さんがいる方向から聞こえた。
その音を聞くことができたからだろう。俺はより自信を強めながら話を続けることができた。
「そもそも警察はスキル犯罪の可能性も念頭に置き、入念な捜査をしていました。そしてスキル犯罪の可能性が否定されたのならば当然、スキルが関わっていない殺人について力を入れて捜査をするはずです。なのに、そちらの捜査はされていない。なぜか。
これは推測ですが、金谷郷家からの圧力があったのではないでしょうか。例えば、こんな感じです。いつまで捜査をしているのか。警察が捜査を続けるだけで金谷郷家にとって大きなマイナスになる。これについて、誰が責任を取るのか。そんな風に圧力をかけられてしまっては警察の捜査は鈍化します。
ただ、司法解剖で剛三郎の死は病死であり、スキル犯罪の可能性がないことも分かっていたので、警察は結論を出せなくもありませんでした。だから警察は剛三郎の死には事件性のないただの病死であると結論付けた」
「……金谷郷家が、圧力をかけたという根拠は?」
ここまで黙っていた旭さんが絞り出すように声を出し、問いかけてきた。
ただし、その視線は相変わらず俺には向いていなかった。
「ありませんよ。これはあくまでも私の推測です。それに、圧力があったのか、なかったのか、議論するつもりもありません。ですから、旭さん。当事者が図星を突かれて誤魔化そうと粗探しをしようする態度で質問なんてしないでください」
俺は旭さんへ挑発するような言葉を交えつつ、ありのままの回答をした。
俺の回答を聞いた旭さんの表情は、奥歯を噛んでいることが分かる悔しそうなものに変化していた。
「さて、スキルが関わっていない殺人の可能性を考慮して私はこの現場の写真を見返しました。そして、一つの大きな矛盾が写されていることに気付きました。何だか分かりますか?」
今度は俺が旭さんに問いかけた。
旭さんは一瞬だけ俺の手元にある写真に目を向けたあと、すぐに視線を外して反論を口にする。
「矛盾なんてありません」
「そうですか。こんなにも分かりやすい矛盾ってないんですがね」
「失礼ながら、あなたが言う矛盾とは、ただの言いがかりなのでは?」
今まで『岩井様』と呼んでいた旭さんが『あなた』と呼ぶようになった。
どうやら動揺やイライラを抑え込めなくなりつつあるようだ。
「『あなた』ですか……。まぁ、いいです。では、答えを言いましょう。この写真に写されている矛盾。それは、剛三郎の死体です」
そう言いながら俺は写真に写る剛三郎の死体を指差す。
旭さんは再び写真を一瞬だけ見たあと、ため息交じりに言葉を発する。
「それが一体なんだと言うのですか。剛三郎様のご遺体がただ写っているだけじゃないですか」
「はい。トイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れこんでいる剛三郎の死体が写っています。それが矛盾しているんです」
「ですから、それが何で矛盾しているんですか? 剛三郎様のご遺体を写しているのだから、当たり前のことです」
「まだ、お分かりになりませんか。では、一から説明しましょう。司法解剖によって剛三郎の死因が持病の喘息の発作による窒息死であることは間違いありません。
そして警察は捜査の末、剛三郎が持病によって死んでしまったのはトイレの中で発作が起きた時、剛三郎は寝ぼけていて薬を枕元に置き忘れてしまい薬を吸引することができなかったからだと結論付けました。
旭さん。この写真の状況と矛盾していることを私はもう言ってるんですよ」
「はっ?」
「いいですか。剛三郎の死体は、トイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れこんでいます。このような形で倒れるには、トイレの便座の前に立っている必要があります」
「それは剛三郎様がトイレをお使いになろうとしたのだから、当たり前のことじゃないですか」
「いいえ、違います。剛三郎はトイレに行きました。そしてその時、喘息の発作が起きました。剛三郎は当然、薬を吸引しようとします。しかし薬は手元にありませんでした。枕元に置き忘れてしまったんです」
と、俺が話し終えると、「あっ」と心で思ったことがよく分かる表情を旭さんがした。
どうやら旭さんもようやくこの写真に写し出された矛盾に気付いたようだ。
「ようやくお気付きになったようですね。そうなんです。薬が手元にないのならば、取りに戻るはずなんです。なぜならその薬を吸引しなければ命の危険があると、剛三郎自身よく理解していたはずだからです。
だから剛三郎が喘息の発作によって力尽きた時、その死体は薬が置いてあった枕元、またはその道中、もしくは最低でもトイレの扉側に向かって倒れこんでいなければおかしいんです。間違ってもトイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れこむなんてありえないんです」
喘息の持病を持つ患者が発作を起こした時に薬を置き忘れて手元に持っていなかった場合、どのような行動を取るか。
答えは決まっている。薬を取りに置き忘れた場所に向かう。
なぜなら発作を抑えるには薬が必要だからだ。
剛三郎も当然、薬を置き忘れたのならそのように行動するはずなのだ。
そして剛三郎がそのように行動した場合、剛三郎の死体は絶対にトイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れているわけがないのだ。
「トイレの便座の前に立って手元に薬がないか探している内に時間切れになった、という可能性はありえません。この写真に写っている通り、剛三郎は当時、浴衣を着用していました。浴衣姿で手元の物を探すとしたら袖か帯の部分を確認すれば十分です。
枕元に置き忘れたことに気付かずにトイレのどこかに落としたのではないかと探している内に時間切れになった、という可能性もありえません。一般的な家庭ものと比べたら広々とした個室のトイレですが、所詮は個室のトイレです。探すのに時間はかかりません。
それに捜査資料にはこうも書かれています。剛三郎は薬を吸引していれば助かった。もしも薬を吸引する時間がないほどの発作だったとしたら、警察はその可能性について捜査資料上で必ず触れます。そのことについて記載がないということは少なくとも剛三郎にはある程度の猶予があったことになります。
そういった状況にも関わらず、剛三郎はトイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れこみました。なぜ、そんな矛盾した状態になったのでしょうか。逆算して考えてみましょう。
剛三郎はトイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れた。これは事実です。別の場所で倒れた死体がトイレの便座の右横の床に移動したかどうかは、入念な捜査をしていれば分かることです。捜査資料にそんなことは書かれていませんでした。ですから、剛三郎がトイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れたのは紛れもない事実です。
そして、剛三郎がトイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れたのが事実であるならば、剛三郎がトイレの便座の前に立っていたのもまた事実となります。そうでなければ、トイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れこむことなんてできないからです。
さて、ここからが問題なんです。発作に苦しんでいて、薬が手元になかった剛三郎はなぜ薬を取りに戻りもせず、トイレの便座の前に立っていたのでしょうか。そしてなぜそのまま発作によって倒れこみ、死んでしまったのか。このことを合理的に説明できる仮説が、一つだけあります」
そして俺は旭さんを視線で射抜いたまま、この矛盾を説明できる仮説を口にした。
「発作が起きた時、剛三郎は持っていたんです。薬をね」
ヒュッ、と旭さんの口から息が漏れる音が俺の耳に入った。
「そもそも剛三郎にとって持病の喘息とは長い付き合いになります。いくら寝ぼけていても薬を枕元に置き忘れるわけがありません。無意識の内に枕元の薬を手に持ち、トイレに移動したと考えるのが自然です。だから、薬が手元にあった剛三郎は発作が起きた時、トイレの便座の前に立ったまま、いつものように薬を吸引し始めたはずなんです。
しかし、剛三郎の発作は収まることなく、苦しみは続いたはずです。なぜなら…………薬が入っていた容器は、空だったからです」
ほんのわずかに体を震わせながら旭さんがゆっくりと俺の方に視線を向けてきた。
その視線には「なぜ分かるのか」と言いたげな意味があるように俺は感じた。
俺は旭さんが向けてきた視線に自分の視線を合わせつつ、話を続けた。
「そう、薬は容器に入ってなかったんです。だから剛三郎の発作は収まらなかったんです。剛三郎はきっとパニックになったでしょう。薬を吸引しているのに、どんどん苦しくなっていくんですから。剛三郎が最後まで気付いたかどうかは分かりませんが、ほどなくして時間切れとなり、剛三郎はトイレの便座の右横の床にうつ伏せに倒れた。これが、この写真の状況となる唯一の仮説です。
さて、この仮説が正しい場合、剛三郎の死は殺人であると言えます。何者かが喘息の薬を空のものとすり替え、剛三郎の死後、枕元にきちんと薬が入った容器を置き、空の容器を回収して処分する。殺意の証明としては十分過ぎる行動です」
俺の仮説は、何者かの手が加わらなければ実現することはない。
すなわちそれは、計画的に企てられた殺人であることを意味する。
「では、これらの行動をした、この殺人事件の犯人は誰でしょう。容疑者を挙げるには、絶対的な条件が一つあります。それは、薬をすり替えられる隙を伺うことができるほど剛三郎に信頼されている人物です。
喘息の薬は剛三郎にとってまさに命を繋ぐ大事な代物です。それをおいそれと、他人がすり替えることができるように管理しているわけがありません。間違いなく肌身離さず持っていたはずです。ですから、そんな風に管理されていた薬をすり替えられるのは、隙を伺うことができるほど剛三郎に信頼されている人物に限定されるというわけです。その条件に当てはまる人物は、片手で数えられる程度の人数でしょう。
その中で、剛三郎を殺す動機があり、剛三郎の死の前後の行動が怪しい人物。それに当てはまる人物が、一人だけいます」
やめろ。その名を言わないでくれ。
そう訴えかけているような視線を旭さんが向けるが、俺は旭さんの視線を無視して剛三郎を殺害したであろう、犯人の名を口にした。
「それは、剛三郎の息子、金谷郷政太郎です」
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