第30話 間一髪
我が田舎の海水浴場は知名度こそ高くないが、全国各地から海水浴客が訪れる隠れた名所である――らしい。
らしいというのは子供の頃に地元に関心をなくして以来、それまで持っていた知識さえ、瞬く間にどこかに置き去りにした結果だ。
自分が泳がず、関心もないとはいえ、近くを通ることは度々あったので、そこが混雑とは縁がないわりには綺麗なビーチで、ときおりヨットなんかも見かけることがあるのは頭に入っている。
青い空、青い海、そして潮の香り――と言いたいが、生憎と今日は悪天候で、空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうだった。
なんでも台風が来るとかでビーチにたった一件しかない海の家も、すでに戸締まりを終えて、海水浴客も見当たらない。
僕はといえば、そもそも目的が下見だったので泳げなくても困ることはないが、さすがに風も強くなってきたので、そろそろ引き揚げようと考えていた。
顔にポツリと雫が当たるのを感じて足を速める。しかし、突然降り出した雨は、あっという間に土砂降りに変わり、僕は完全に濡れ鼠になってしまった。
内心で毒づきながら砂浜を駆けて自宅を目指す。そのとき、雨でかすむ視界の端に小さな人影が見えた気がした。
見間違えかと思いつつも、手で即席の庇を作って目を凝らす。
――居た。見間違いではないようだ。
おそらくは僕と同年代ぐらいの少女だろう。もはや傘など役に立たないだろうが、雨具の類を持たず、ずぶ濡れになっているというのに波打ち際に立ったまま避難しようともしない。
首元で左右に分けた長い黒髪が雨に濡れて力なくたれている。
それに気づいて僕はハッとなった。
「月子……!?」
こんなところに彼女が居るとは思えない。それでも僕は不思議な確信とともに走り出していた。
あきらかに余所行きと判る服を着て、おしゃれなバッグを肩にかけていたが、今はすべてがずぶ濡れで台無しになっている。
「月子!」
呼んでも彼女は返事をしない。
それどころか、ふらふらと頼りない足取りで、荒れた海の方に向かって歩き出してしまった。
「月子ぉぉぉっ!」
もう一度声を張り上げて叫ぶ。それでも彼女は止まらない。
僕は必死になって走った。無我夢中で、これ以上はないというぐらいの必死さで、とにかく手足を振って彼女に向かって走りつづけた。
叩きつけるような雨に視界が煙る中、ときおり高々と波しぶきが上がっている。ヘタをすればひと呑みで人の身体などさらってしまいそうな勢いだ。
そんな荒れた海へと月子が足を踏み入れる――その直前に追いつくと僕は後ろから、その身体を思い切り抱きしめて全力で後ろに引きずり倒していた。
降り注ぐ波しぶきがすんでの所で僕らのつま先をかすめていく。雨でずぶ濡れの身体に撥ねた塩水が追い打ちをかけて、それは痛いほどだったが気にしてはいられない。
僕は月子を抱え込んだまま思い切り地面を踏みしめると、ずりずりと後ずさりして海からさらに遠ざかった。
「月子!」
もう一度耳元で名前を呼ぶと彼女がゆっくりとふり返って僕を見た。
それは間違いなく月子だったが、微妙に焦点の合わない目をしている。まるで幽霊でも見たかのような顔だった。
「月子」
もう一度呼ぶと月子はようやく僕が誰かを思い出したようだった。
「三日森くん? なにしてるの?」
まるで何事もなかったかのように、きょとんとしている。雨音と波の音で聞こえづらかったが声のトーンもいつもどおりのようだった。
一度腕を放して立ち上がると僕は月子の腕をつかんで引き起こした。
「それは僕の台詞だよ」
それだけ言うと僕はそのまま月子の手を引いて走り出す。彼女は抵抗することもなく、素直に走って僕について来た。
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