第39話 そよ風のように

 公園はあの日とあまり変わらない佇まいを見せている。季節柄木々の様子は変わっていたが、それ以外は何もかもがあの日のままに見えた。

 きれいな植え込みを横目に歩いてベンチに座ると、目を閉じてあの日のことを思い返す。

 甦るのはあの口笛だ。そのやさしくもどこか寂しいメロディーを思い返していると心が遠いどこかに引きずられそうな気持ちになる。それでもなお、その旋律に思いを馳せていると、それに現実の音が重なるように響いてきた。

 驚いて目を開くと、その音をたどるように頭を巡らせる。既視感を覚える光景――ジャングルジムに腰をかけた月子が、あの日と同じように口笛を吹いていた。

 違いがあるとすれば今は私服ではなく制服だということくらいか。束ねた二本の髪が、ゆるやかな風に乗ってふわりと舞い踊っていた。

 目が合うと月子は口笛を吹いたままで軽くウインクをしてくれる。本当にこういう姿が絵になる少女だ。学友達は彼女をアイドルと呼んでいたらしいが、僕にとっては天使だった気がする。

 まだ月子との縁が切れていなかったことを、それこそ天に感謝する思いで、僕は彼女の口笛に耳を傾けた。

 瞼を閉じて聞き入れば、それはやはり遠い遠い記憶を揺り起こすかのように僕の心に染み入ってくる。おぼろげに浮かんでくるのは指と指を絡めて約束を交わした誰かの姿。

 ――ふと、頬に雫が落ちた気がして僕は目を開いた。


「あれ……?」


 一瞬、雨かと思ったが空は澄み渡っている。恐る恐る頬に手をやれば、どうやらその液体は僕の目尻からこぼれ落ちたもののようだった。

 訳が分からないままに、それを拭うと、ちょうど口笛を吹き終えた月子がジャングルジムの上から軽やかに飛び降りた。

 ゆっくりと僕の座るベンチに歩み寄ると、立ったままで僕の目を正面から見つめてくる。どこかイタズラめいた表情を浮かべて月子は言った。


「迂闊だね、三日森くん」

「な、なにが?」

「学校を出たところから、わたしがずっと後をけていたことに気づかないなんて」

「はあ!? 先に帰ったんじゃなかったのか!?」

「いや~、なんか面倒な人たちに絡まれそうだったから、そのふりをして学校のすぐ近くに隠れてたのよ」

「てことは、ここで会ったのは偶然でもなんでもないってことか……」


 なんとなく運命めいたものを感じていた自分がバカみたいに思えたが、こんなオチも僕ららしくはある。溜息をひとつ吐いたあと苦笑を浮かべて、とにかく言うべきことを、ちゃんと伝えようと僕はベンチから立ち上がって月子に向き直った。

 すると彼女もまた真っ直ぐに僕を見つめていた。いつになく真剣な顔をして僕よりも先に口を開く。


「ありがとう、三日森くん」

「え……?」

「あのとき、わたしを抱きしめてくれて」

「抱きしめ……」


 映画館では腕に抱きついただけなので、思い当たるのは海岸での一件ぐらいだ。でも、どうしてまた急に?

 月子はとまどう僕には構わず話を続ける。


「自分でも、わたしにあんなに脆いところがあるなんて思ってなかった」


 わずかに視線を逸らす月子。その瞳が微かに震えていた。


「魔が差したのかな。彼が呼んでる気がして……」

「呼んでるって、まさか月子……君はやっぱりあのとき……」


 彼女の言葉に茫然としつつも、頭の中ではすべてのピースが繋がっていた。

 教室で見たあの寂しげな横顔。

 僕に他に好きな人が居ると知って花屋敷さんが落胆した理由。

 わたしが好きな人はという言葉の意味。

 デートの相手がという言い回しにさえも同じ意味が隠されていた。


「一年生のときにね、幼なじみの男の子が亡くなったの。わたしはべつにその子のことは特別意識していなかったんだけど、亡くなった後でその子がわたし宛に書きためていたラブレターがたくさん見つかったとかで、その子のお母さんがわたしに届けに来たのよ。せめて一度だけでも目を通してあげてくれって」


 語る月子の表情は、いつか教室で見たときのあの顔だった。澄んだ水面のように綺麗で、見る者の胸を突き刺すように寂しげで。


「読んでみてわかったのは、その子がわたしのことを本当に好きで好きで、それを実感したら、わたしはもう涙が止まらなくなっちゃって……」


 月子はそこに誰かを想い描くように空を見上げて言った。


「気がついたら、わたしはその子に恋をしていたの」


 初めて胸の裡を明かしてくれた月子の前で、しかし僕は言葉を失くして立ち尽くした。

 なにかを言ってあげたい。なのにどんな言葉をかければいいのか、まるでわからない。

 最初から酬われることのない、あまりにも残酷な恋。

 両想いでありながら恋人としての思い出はなく、あらゆるやさしい言葉も愛しているという想いさえ相手に告げることはできない。その人のために何かをしてあげたくてもすべてが手遅れで、熱い想いはどこにも向かわず、彼女自身の心を虚しく焼き焦がすばかり。

 そんな痛みを抱えたままで月子はずっと僕なんかの恋のサポートをしていたのか。

 僕はそんな月子の前で「告白はしない」なんてバカなことを言っていたのか。

 それでも月子は僕を見捨てることなく……。


「泣かないで、三日森くん」


 気がつけば月子の両手が僕の濡れた頬にふれていた。


「君にはわからないかもしれないけど、わたしはずっと君に支えられていたのよ」

「僕に……?」

「うん。君との約束がわたしを守ってくれてるの。これまでも――たぶん、これからもずっとね」

「わからないよ、月子。僕を助けてくれたのは君だ。なのに僕は君にはなにもしてあげられていない」


 僕が言っても、月子は首を横に振って否定する。


「だから、君はもうしてくれてるのよ」


 澄んだ月子の瞳が僕の目を真っ直ぐに見つめる。


「信じて、三日森くん。どんなに遠く離れても、わたしは君の幸せを願ってるし、君が望んでくれる限り、わたしはわたし自身の幸せも追い求める。約束だから――わたしは君を裏切らない」


 そう言って目を閉じると月子は僕に顔を近づけて、そっと唇を重ねてきた。それはまるでそよ風が頬を撫でるような、ささやかな接触で、次の瞬間には月子は僕の横をすり抜けるようにして走り去ってしまう。

 呼び止めようとして、だけど僕は言葉を見つけられず、振り向くことさえできなかった。

 これが僕と月子の別れだ。この日を最後に、今のところ僕はまだ月子に会えていない。

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