第18話 夕映えのメロディー-2

 あまりの怖さに失神者続出! 心臓の弱い人は見ないで下さい! 軽く死ねます!


 そんな宣伝文句は、ホラーが苦手な僕でさえ、誇大広告だとバカにしていたけど、実際に見たあとでは、とてもそんなふうに考えることはできなかった。

 上映が終わって席を立ったときも、顔から血の気が引いていたのが自覚できたし足下も覚束なかった。

 情けない話だけど映画館を出るときも月子に支えられるようにして歩いていたくらいだ。

 今こうして、ここで公園のベンチに腰掛けたあとも、しばらくはぼーっとしつづけていた。


「映画に殺されるかと思った……」


 ようやく我に返って呟く僕に、月子は近くの自販機で買ったらしい缶コーヒーを差し出してくる。


「ごめんね。やっぱり、ホラーはダメな人だったんだね。無理をさせちゃったね」

「そういう君はムチャクチャ平気そうだね」

「三日森くんのおかげよ」

「僕の……?」


 ずっとビビりまくって震えていた僕が何かの役に立てたとも思えないのだが。


「だって、あんなふうに男の子に抱きつかれてたら、怖がる余裕なんてとてもとても。違う意味で身の危険は感じたけどね」

「あう……」


 僕は肩を落としてガックリとうなだれた。そういえばそうだった。僕は途中から恥も外聞もなく、ずっと月子に抱きついていたんだ。


「もうダメだ……。怖さのあまり女子に抱きついてしまうなんて……。もしこのことが学校で噂になったりしたら不登校になる自信がある……」

「そんなことになったら、さすがに責任を感じるわね」

「頼むから、このことは秘密にしてくれ」

「わたしはもちろん誰にも言わないけど、アレって結構話題になってる映画で、しかも今日は日曜日だからね。お客の中にクラスメイトが紛れていなかったって保証はどこにもないわ」


 月子の言葉に僕は顔を引きつらせた。


「でも、たぶん大丈夫でしょ。館内は薄暗かったし、傍から見ればどっちがどっちに抱きついてたかなんて判らないわ。誰かに聞かれたら、わたしが怖がって抱きついてきたって言えばいいのよ」

「月子……」


 当たり前のように僕を庇おうとする。

 ベンチから見上げた彼女の笑顔には、相変わらず澱みも曇りもない。そこには打算も、恩着せがましいところすら見つけられない。

 本当にこいつはいい奴だ。不倫だなんて少しでも考えた僕がどうかしている。

 月子を見ていると僕は、これまで自分がずっとバカにしたり否定したりしていたもの――正義とか友愛なんてものをだ――それをもう一度信じたくなってくる。

 もし、子供の頃に起きたあの事件の折に月子がそばに居てくれたなら、僕はきっと、こんなふうないじけた人間にはならなかっただろう。

 そう、いじけていたんだ。

 あんな小さな世界の中で起きた事件だけで、僕は一人前に世界を知った気になっていた。人間を見限って、自分だけを信じて生きていこうなんて思い込んでいた。そんなことなどできやしないっていう、当たり前のことからも目を背けて。

 僕は父が嫌いだ。あの人のことを恨んでさえいる。

 それでも僕はまだ、あの人のすねをかじって生きているし、母が亡くなったあと男手ひとつで僕を育ててくれたのもあの人だ。簡単に好きにはなれないけど、感謝することを忘れてはいけなかった。

 ああ、本当に不思議だ。

 月子と居ると僕はやさしい気持ちになってくる。

 なんだかとても奇妙な気分だ。

 物思いにふける僕の視線の先で月子は小さなジャングルジムによじ登ると、そのてっぺんに腰掛けて空を仰いだ。

 釣られるように視線を移せば、いつの間にか西の空が夕映えの色に染まり始めている。

 しばらく見とれていると、ふいにやさしい旋律が鼓膜を揺らす。

 月子だ。彼女は夕映えを見つめたまま口笛を吹いていた。

 明るいのに、どこか寂しげにも聞こえるメロディーが、郷愁を誘うように僕の心を震わせる。

 それは大切な何かを。忘れてしまった何かを呼び起こそうとするかのようで、僕は目の前に広がる世界すら忘れて、その音色に耳を傾けた。


「わたしは君を裏切らないよ」


 不意に誰かの声を思い出す。僕が熱中症で朦朧としていたとき、月子が言ってくれたかも知れない言葉。だけど、今脳裏に響いたのは、もっと幼い声に思える。

 だけど、それが誰の声で、どこで聞いたのかはどうしても思い出せない。

 ある日を境に僕は過去を反芻することやめ、それと同時に過去の思い出を速やかに忘却の彼方へと追いやってしまった。

 だけど、もしかしたらそこには絶対に忘れてはいけない思い出があったのではなかろうか。


「そろそろ帰ろうか」


 月子の声に僕は思索の海から引き戻された。見れば、いつの間にか口笛をやめて、月子が目の前までやって来ている。

 頷いて僕は立ち上がる。


「うん」


 ちょうど真っ正面から月子を見る形になり、あらためて気づかされたのは、やはり彼女が美人だということだ。身長は平均か、それよりわずかに低いぐらいか。瞳は宝石のように澄んでいて肌はきめ細かく艶やかだ。ゆるやかな風に髪がふわりと舞い上がり、陽の光を浴びてキラキラと輝くのが印象的だった。アイドルなんてあだ名されるのも頷ける。もっとも月子本人は、その呼ばれ方を歓迎していないようだが。


「口笛、上手いんだな」

「そう? ありがと」

「感動したよ」

「それはオーバーだと思うけど、ちょっと嬉しいかな」


 照れたように笑うと月子は身体の向きを変える。首の後ろで束ねられた二本の髪が帚星のように棚引いた。そのまま駅に向かって歩き始める。

 僕が足を速めて隣に並ぶと月子は前を向いたまま話しかけてきた。


「口笛好きはお父さんの影響でね。子供の頃から、ずっと練習してるのよ」

「プロになれそうだな」

「さすがに無理だから」


 月子が笑い、それにつられて僕も笑う。


「いい笑顔」


 月子に言われて僕はきょとんとした。そんなことを言われるのは記憶にある中では初めてのことだ。


「そうかな?」

「君の笑いって、いつも嘘っぽくて、正直あまり好きになれなかったのよ。だけど今はステキな笑顔をしてるわ」

「ス、ステキって……」


 僕は照れて頭をかいた。もちろん悪い気はしない。

 もう少し、このまま一緒に居たかったけど、駅は商店街のすぐ近くだ。

 あっさり辿り着いてしまい、月子はそこで足を止めた。


「それじゃあ、気をつけて帰ってね」

「ああ、月子もね」

「うん」


 それだけ言うと軽く手を振って別れる。歩きかけたところで僕は立ち止まってふり返ったが、月子は一度も振り向くことなく、その姿はすぐに雑踏に紛れて見えなくなってしまった。

 少しだけ寂しい気持ちで改札をくぐる。明日学校で会ったとき、彼女と何を話そうか。帰りの電車の中で僕はそればかりを考えていた。

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