第16話 好きになってあげて-3

 学校を出て駅までの道をひとりトボトボと歩きながら、あらためて僕は考える。

 どうして彼女に恋をしたのか?

 

 僕は彼女の名前を知らない。

 彼女の住んでる場所を知らない。

 声を知らない。

 誕生日を知らない。

 血液型を知らない。

 家族構成を知らない。

 趣味を知らない。

 特技を知らない。

 好きな色を知らない。

 好きな花を知らない。

 好きな食べ物を知らない。

 好きな言葉を知らない。

 好きな音楽を知らない。

 恋人の有無さえ知らない。

 善人か悪人かすら判らない。


 こんなにもわからないことだらけなのに、どうして僕は彼女に恋をしたんだろう?

 どうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろう?

 本当に理不尽な罠にでも落ちたかのような気分だった。


「三日森くん」


 不意に後ろから呼び止められて僕は足を止めた。

 ふり返ると見覚えのある女子が立っている。月子の友達で快活な彼女とは対照的に落ち着いた印象を受ける人だ。名前は確か――


「やあ、花山田さん」

「花屋敷よ」


 半眼で冷たく言われてしまった。惜しい線はいっていたと思うのだが。


「そ、そうだった、ごめん」

「いや、わたしの名前なんてどうでもいいんだけど……」


 そりゃまあ、わざわざ自己紹介のためにクラスメイトを帰り道で呼び止める人も居ないだろう。


「最近、ルナと仲が良いよね」


 ルナというのは月子のあだ名だ。どうも友達の間では、そんなふうに呼ばれているらしい。月だからルナという実に安直な呼び名だったが、ニックネームなどというものは得てしてそういうものだろう。


「もしかして、あの娘のことが好きなの?」

「え……?」


 たぶん、マヌケな声を出してしまったと思う。会話の流れを考えれば、そういう話をされておかしくないところだったのに、僕はまったく想定できていなかった。


「……違うの?」


 花屋敷さんの表情が曇る。友達に近づく男を煙たがるというのは聞いたことがあるけれど、そうでないのを残念がるというのは、どういう事情なのだろう?


「ねえ、三日森くん。もしつき合ってる相手が居ないなら、あの娘のことを好きになってあげて」

「え? ええっ?」


 突然のことに僕は目を丸くする。ふざけているのかと問いたいところだけど、花屋敷さんはむしろ必死に見えた。


「わたし、あの娘には幸せになって欲しいの」


 言いつのる花屋敷さんを僕は慌てて制する。


「ち、ちょっと待って、花屋敷さん。悪いけど、僕には他に好きな娘が……」


 そのひと言で花屋敷さんは完全に落胆したようだった。

 うつむき、肩を落としてつぶやくように言う。


「そう……。ごめん、無理を言って……」


 その姿は痛々しくて、さすがに僕は事情が気になった。


「ねえ、どういうことなんだい? どうして僕が月子とつき合うことで、彼女が幸せになるなんて思ったんだ?」

「月子?」


 僕が呼び捨てにしたことで彼女は少し驚いたようだった。


「あ……いや、それはそう呼べって、彼女が……」

「気に入られてるのね」


 花屋敷さんは弱々しい笑顔を浮かべる。それは泣き顔にも似ていた。僕はもう一度事情を問おうと口を開く。


「あのさ、詳しいことはわからないけど、僕で力になれることなら……」

「ううん、ごめんなさい。この話は忘れてちょうだい」


 彼女は頑なな拒絶の意思を示すと、背を向けて肩を落としたまま立ち去っていく。

 呼び止めようとして僕は躊躇う。なにを言うべきなのか、なにを聞くべきなのかもわからない。

 これまで誰も自分に踏み込ませないようにしてきた結果、僕は自分から相手に踏み込む方法まで忘れてしまったのかもしれない。

 ひとつ確かなのは花屋敷さんが月子のことを心配しているということだ。

 いつも自然体で明るい笑みを浮かべている月子。

 彼女になにか心配されなければならないようなことがあるのか?

 このとき僕は朝の電車で見た衝撃的な光景さえ忘れて、ただ月子のことばかり考えていた。

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