第41話 失望の果て

 膝を抱えて、ずっと泣いていたはずだ。もう何もかもが嫌になって本気で死んでもいいと思っていた。

 ちょうど、この公園の端は切り立った小高い崖になっていて、そこから飛び降りようかと半ば本気で考えていると、不意にあの口笛が聞こえてきたのだ。

 ふり返れば、今し方まで僕が背にしていたジャングルジムの上に女の子が腰掛けていた。リズミカルに足を前後に揺らしながら、聞いたこともない曲を口笛で奏でている。

 引き寄せられるように近づくと、女の子は口笛を終えて軽やかに地面の上に降り立った。

 そのまま目の前まで歩いてくると不思議そうに問いかけてくる。


「どうして泣いてるの?」

「…………」


 僕は目を逸らして答えようとしなかったが、そしたら女の子は突然――


「じゃんけんぽん」


 と、いきなりじゃんけんを仕掛けてきた。

 しかも、僕はつられてパーを出してしまっていて、彼女はそれにチョキで勝っている。


「わたしの勝ちだね。じゃあ、話して」


 あまりに強引な少女を相手に、僕はなんだかんだと理由をつけて、ごねてみせたものの口達者な彼女に言い負かされて、けっきょくはすべてを話すことになってしまった。

 すべてを聞き終えると、女の子は憤慨して言う。


「なによ、そのひどい話!」


 両の拳をぎゅっと握りしめて、女の子は声高に宣言した。


「任せてちょうだい! そんな奴らはわたしがみんなやっつけてあげる!」

「や、やっつけるって、僕のお父さんも?」

「もちろんよ! 自分の子供に手を上げる奴はクズだって、わたしの父さんが言ってるもの!」


 まさかそんなことはできっこないだろうが、女の子の目は完全に本気で、おまけになんだか実際にやってしまいそうな勢いを感じて僕は焦ってしまった。


「い、いや、そんなことしなくていいよ」

「どうして?」

「そんなことしたってあいつらが変わるわけじゃない……」


 下を向いて、僕はまた泣き始める。


「どうせこの世界はあんなのばっかりで……もう誰も信じられない……」


 肩を震わせて嗚咽を漏らす。そんな僕の手を女の子はやさしく取った。そして僕の小指に自分の小指を絡めてくる。


「大丈夫だよ。わたしは君を裏切らない」


 澄んだ瞳を僕に向けて、はっきりと約束してくれた。

 僕は嬉しくて嬉しくて、また泣いたけど、その涙はそれまでとは違って嫌なものじゃなかった。

 しばらくそうしていると、僕のお腹が大きな音を立てた。そう言えば今日はお昼も食べていない。

 それに気づいて女の子が言う。


「うちに来る? お爺ちゃんの家だけど」

「いや、嬉しいけど、そういうのはミセイネンユーカイザイにされるっていうし」


 頭でっかちな僕はこんな言葉ばかりよく知っている。


「難しい言葉を知ってるね」


 女の子にも感心したように言われてしまった。

 彼女は顎に指を添えるようにして少し考えた末に口を開く。


「それじゃあ、一度戻って何か食べるもの持ってきてあげるよ」

「本当?」


 たぶん、僕の声は不安そうに震えていたのだろう。女の子が背を向けたとき、なんとなく彼女がそのまま帰ってこない気がしたのだ。

 今まで親友だと思っていた連中さえ僕を裏切って殴る蹴るしてきた直後で気弱になっていたのだろう。

 女の子は駆け出そうとしていた足を止めてふり返った。そしてもう一度僕の手を取ると小指と小指を絡めてくる。


「言ったでしょ。わたしは君を裏切らないって」

「う、うん」

「だから君も、ここで待ってて」

「わ、わかった、絶対待ってるよ。約束する!」


 何度も頷く僕に女の子も一度だけ大きく頷くと、あらためて背を向けて走り去っていった。

 僕は救われた想いでその小さな背中が見えなくなるまで、ひたすら見つめていた。そして公園のベンチにひとり座ると自分の小指をじっと眺めながら彼女が帰ってくるのを待つ。

 約束したのだから、いつまでだって待つと心に決めていた。

 だけど、そんな僕に後ろからコッソリ近づいてきた人物が乱暴に僕の腕をつかんだんだ。


「面倒かけるんじゃない!」


 そう言って僕の頬を思いっきり叩いたのは、やはり親父だった。

 あまりにも大きな音が響いたので叩いた親父自身驚いたようだが、僕はそれどころではなく頭がくらくらしてしまい、引きずられるように車に乗せられてしまった。

 ようやく意識がはっきりしてくると背後であの公園が遠ざかっていく。

 そこに小さな人影が走ってくるのが確かに見えていた。

 なにか大きな声で叫んでいたけど、それはもう僕には届かず、僕も彼女になにも言うことはできない。

 この時だ。

 昏い認識が僕の心を満たしていったのは。

 僕はみんなに裏切られたけど、僕もまたあの娘を裏切ってしまった。

 それはつまり、僕もまた、このつまらない世界のつまらない人間のひとりだということだ。

 僕は嗤った。声をあげて自分自身を嗤った。ルームミラーに映った親父の顔がひどく気味悪そうにしていたのを覚えている。

 そして僕は決めたんだ。

 もう誰も信じない、頼らない、アテにしない――と。

 なぜなら、僕にはそんな資格がないからだ。

 だけど時の流れの中で記憶を捨てていくうちに、僕はその根っこの部分まで忘れてしまっていたのだろう。

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