第35話 七未貴爽子
デートの当日は実に夏らしい陽気だった。
ほとんどの民家では朝から室外機が唸りをあげ、エアコンがその存在意義をいかんなく発揮している。
家を出て坂道を見下ろせば、あざやかな青空の下に輝くような海原が広がっている。入道雲を背景にして白いヨットが行き交っている。砂浜にはすでに海水浴客が繰り出しているのが見える。
今すぐにでも彼女を連れて、そこに向かって駈け出したいところだが、まずはその彼女――七未貴爽子を連れてこなければ話にならない。
僕は逸る鼓動を抑えながら駅へと急ぐ。
通い慣れた坂道は太陽の光が降り注ぎ、焼けたアスファルトで陽炎が揺れている。
朝からこの陽気だと昼の暑さはたいへんなものになりそうだ。でも、だからこそ海水浴には最適だと思える。
電車に乗って彼女が現れる駅までおよそ30分。僕はどんな言葉をかけようかと、そればかり考えていて、彼女が来ない可能性については、ほとんど気にしなかった。
そもそもが電話番号さえ知らない相手との曖昧な口約束だったけど、他ならぬ月子の推察だ。外れているとは思えない。
不思議なことに名前を思い出して以来、爽子との思い出は次から次へと甦ってきていた。僕は電車の窓から覗く流れる風景の中に、それを映し出しながら時を過ごす。
大人しくて、どちらかといえば引っ込み思案だった彼女が、今のような強気な美人になるまでに、どんな時を重ねたのだろうか。それが有意義な時間だったことを願わずにはいられないが、その変化の中でも変わらず僕との約束を大事にしてくれていたのなら、それはこの上なく嬉しいことだ。
僕は長らく自分が不幸なつもりでいた。だけど本当は逆かもしれない。
爽子のような女の子に、ずっと想われ続けていたのだとすれば、これほど恵まれた男も希なはずだ。
まったく、ダセえ話だ。なんとなく滝沢ふうに内心で呟く。
でも自分の愚かさには本当に苦笑するしかない。今まで僕は過去のトラウマを相手に、ずっと独り相撲をとり続けていた。
でも、まだ間に合うはずだ。
目的の駅に列車が止まり、約束どおり8時前に待ち合わせのホームに降り立った僕は、足早に階段を駆け上ってくる彼女の姿を見つけて大きく手を振った。
大きな帽子を被り、オフショルダーのトップスにチェックのスカートを身につけた彼女は、僕に気がつくと、どこかホッとしたように笑った。
やはり、月子の考えは何もかも的を射ている。
軽く挨拶を交わすと、僕は彼女とともに跨線橋を渡って下りの電車に乗った。
こんな時間でも夏休みのためか座席が埋まっていたため、僕らは並んで吊革につかまる。彼女は横を向いたままでボソリと言った。
「来ないかと思った」
それを聞いて僕は苦笑した。もし今も爽子のことを忘れたままだったなら、僕は間抜けな顔で首を傾げていただろう。だけど今は彼女の気持ちがわかる気がする。
どうせなら海で劇的にと思っていた僕だが、こんな顔をされると、さすがに引っ張りにくい。それに僕としても彼女の名を早く声に出して呼びたかった。だから言う。
「友達との約束をすっぽかすわけないだろ」
「友達……」
「まあ、約束ではそうだったけど僕は……」
言いかけたところで急に周囲の目が気になり始める。
だけど彼女は頬を微かに朱に染めて、つづきの言葉を期待しているように見えた。
僕はあの日の滝沢の姿を思い出す。あいつは立派に言うべきことを言って、その恋を成就させた。花屋敷さんもそうだ。勇気を振り絞って遅ればせながら滝沢の想いに応えた。
だから、僕も――と思ったところで急に弱気の虫が顔を出す。
もしフラれたらどうしようとか、そもそも完全に勘違いをしていて、この彼女があの彼女じゃなかったら、僕は完全にピエロになってしまう。
だけど、これは僕の勝手な思い込みではなくて、あの月子が推察した答えだ。信じてもいいはずだ。それにもし彼女がここに居たらなんて言うか……。
そこで僕は思わず吹きだして彼女を困惑させてしまった。
「いや、ごめん。急に友達の言葉が頭をよぎってさ」
彼女にあやまった上で、もう一度月子の言葉を噛みしめる。
それはつまり、
――彼女を寝取られてもいいの――
ってものだ。
露骨で不謹慎な言い回しだけど確かに僕みたいな臆病者には効果的だ。それを認めて、あらためて彼女に向き直る。
「君のことが好きだ――爽子」
思い切って告げると、彼女は一瞬驚いた顔で僕を見たあと、顔を真っ赤にしてうつむいた。そしてどこか恨みがましく言ってくる。
「……忘れてるんじゃなかったの?」
「ごめん。正直に言うと忘れてた」
「いつ、思い出したの?」
たぶん、本当はこのことは黙っておいた方がいいのだろう。だけど彼女には、ちゃんとすべてを知って欲しかった。だから、あえてその名を出す。
「月子のこと、覚えてる?」
「ええ。あなたと映画館で抱き合ってた……」
「いや、だからあれは僕がホラー映画にビビって抱きついただけで……」
「その娘がどうかしたの?」
「う、うん。そいつが言ったんだ。君は僕を知っているはずだって」
「どうして……どうしてその娘にそんなことが判ったの?」
「不思議な奴なんだよ。名探偵みたいに、いろいろなことをズバリと言い当てたり」
「遙人はその人のことが好きなんじゃないの?」
彼女は――爽子はようやく僕の名前を口にした。やっぱり月子は大した奴だ。
僕は爽子に向き直ると頷いた上で告げる。
「うん、好きだよ。恩人だから。でも――それは恋とは違うんだ」
「友情なの? 男と女の間で?」
「おかしいかい?」
「おかしくはないけど、完全に割り切れるのはレアケースだと思う。とくに、あんな綺麗な娘の場合は」
「なら、僕らはそのレアケースだ。だって僕が恋をしているのは君だけなんだから」
「…………」
爽子はそこで悲しげにうつむいてしまった。不安になる僕だったが、爽子の言葉は僕が予想したものではない。
「そっちの友達に電話で聞いたの。あなたの身に何が起きたのか」
「そ、それってまさか……」
「その娘はクラスも違ってて、それには関わっていなかったけど、その事件の後、あなたは変になってしまったって……」
「変って……」
「何度話しかけても初対面みたいなことを言うって言っていたわ……」
僕は笑顔が引きつるのを自覚する。
「……それは確かに相当変だよね」
ガックリとうなだれた。こうして傍から聞くと完全に心を病んでいる人だ。もしかしてその人は結構まともな人で僕はたいへんな心労をかけてしまったとか? あり得る……。
月子はよくもまあ、こんな面倒な男の相手をしてくれたものだ。
不思議そうに、こっちを見てくる爽子に向かって僕は説明を始めた。
あの事件の後、僕が心を閉ざしたこと。
忘れていても僕が再会した爽子に恋をしたこと。
一年が過ぎたある日、月子にそれを気づかれたこと。
月子に関わり、助けられることで、もう一度、人と関わる気になったこと。
そして爽子のことを思い出すように言われたこと。
すべて語り終える頃には僕らは目的地でもある僕の地元に着いていた。
電車を降りると、いつものように夏の熱気ときらめく陽射し、そして一面に広がった青空と輝く海、それを繋ぐ水平線が僕らを出迎えた。
歩き出そうとしたところで爽子に服の裾をつかまれて立ち止まる。ふり返ると、むくれた顔で言ってきた。
「遙人って、そこまでされて本当にその娘に恋してないの?」
「う、うん。……変かな?」
「変だと思う」
ここで変だと言い切られても事実なのだから困ってしまう。僕は腕など組みながら、なんとか爽子にも納得しやすい理由付けを試みる。
「たぶん、爽子が魅力的すぎたんだよ」
「そういう台詞を実はいろんな女の子に言ってるとか言わないわよね」
「言わない言わない。言ったって、どん引きされるよ。モテないんだから」
「でも、わたしにとっては遙人がいちばんよ」
爽子の言葉に僕はあらためてハートを撃ち抜かれた。。
実は告白した後も、すぐに返事がなくて内心ハラハラしていたのだけど、これはつまり――
「そ、爽子……それじゃあ、僕の……こ、恋人に……」
嬉しさと興奮のあまり声がうわずってしまった。
「もちろんよ、遙人。その代わり、取り消しなんて絶対に効かないからね」
「ああ、取り消しなんて絶対にしないよ。してたまるもんか」
この瞬間、僕は――たぶん爽子も夏の暑さを忘れて見つめ合った。
駅のホームにベルが鳴り響く中で彼女がそっと目を閉じる。
走り出す列車の音をBGMにして僕らはそっと唇を重ねた。
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