第23話 海に行きたい
「何をにやにやしているの?」
「うわっ」
いつもどおりの電車の中、滝沢の幸せを願っていると、僕は唐突に彼女に声をかけられた。
そういえばひとつ前が彼女の乗ってくる駅だったのに完全に失念していた。こんなことは初めてだけど、それにしても昨日の今日で、よくこの車両に乗ってくるものだ。他人のことはまったく言えないけど。
もっとも、周囲の客は取り立てて僕らに注目することはなく、普段どおりに過ごしているようだ。あの程度のことでは興味なんて長続きしないのだろう。
僕はあらためて彼女に顔を向けたが、そこにはもう怒りの感情は浮かんでいない。昨日のアレはなんだったのだろうか?
虫の居所が悪かっただけとか?
考えてもわからないので、それは横に置いておいて僕は彼女に答えた。
「友達のことを考えていただけだよ」
「友達?」
「今日、好きな娘に告白するんだ」
「そう……」
彼女は少し間を開けてから囁くように言った。
「上手くいくといいわね」
正直僕は少し驚いた。昨日のこともあったから、もう少しキツイタイプかと思っていたのだけど、今の言葉には本物の思いやりを感じたからだ。
「う、うん。僕も応援してるんだ」
僕が言うと彼女は微笑んだ。彼女のこんな表情は初めて見る。それはとても魅力的で、どきっとするほど美しかった。
「あなたには恋人は居ないの?」
「ぼ、僕は……モテないからね」
正直に言って目を逸らす。考えてみれば、生まれてこの方ラブレターもバレンタインのチョコすら貰ったことがない気がする。
「おかしいわね」
「え……?」
彼女の言葉に顔を上げる。
「身長はそれなりで顔の作りも悪くないのに」
「そ、そうかな?」
褒め方としても微妙だけど悪い気はしない。
「わたしもね、恋人は居ないの」
不意の言葉に僕は彼女の顔を注視した。だけど彼女のほうは僕と視線を合わせようとはしない。
「ほ、本当に……?」
「モテないからね」
そう言って肩にかかった髪を邪魔そうにかき上げた。その仕草だけでも、男をまとめて悩殺できそうな気がする。少なくとも僕ならばイチコロだ。
「い、意外だね」
さっきのお返しのように言ってみる。
「すごい美人だし、声もきれいだし、プロポーションだって抜群なのに」
「どこを見てるのかしら?」
「あっ……いや……」
こういうときプロポーションを褒めるのはマズかったか?
でも、幸い彼女は怒ったふうもなく口元に笑みを浮かべたままだった。
「今年の夏も暑いわね」
窓の外に広がる晴れ渡った景色を眺めながら彼女は言った。
それは独り言に近いもので返事は求められていない気がしたけど、とりあえず僕は曖昧に
「そうだね」
と、つぶやくように言う。それで終わりかと思ったら意外にも彼女は会話を続けてきた。
「こう毎日暑いと海に行きたくなるわ」
「僕の家は海の近くだよ」
「なら、毎日泳ぎに行けるじゃない」
「僕は泳げないから」
なんとも、つまらない男だと今さらながらに自覚していた。
せっかく憧れの彼女が話しかけてきてくれているのに、彼女を楽しませるようなことを僕は何一つ言えない。僕の中には人を楽しませる要素がそもそもない気がする。
今の今まで彼女を前にして、ときめきを感じていたのに、今度は逆にどんどん気持ちが沈んでいくようだった。
「わたしがコーチしてあげましょうか?」
「え……?」
「なにを?」と聞きかけて、話の流れからして泳ぎのこと以外に考えられないことを悟る。
けど、なんで――?
親しくもない男子高校生に対して普通そういうことを言うだろうか?
いや、言わない。
ならばつまり、これは冗談だ。
冗談ならば、むしろ乗ってあげたほうがいいかもしれない。
「そ、それはありがたいなぁ。じゃあ、よろしく頼むよ」
少し笑顔が引きつっていたかも知れないが僕は言い切った。
そしたら彼女は言うのだ――冗談に決まってるでしょ――と。
「いつにする?」
「え……?」
「泳ぎのコーチよ。場所はあなたの地元でいいわね」
「え……?」
この冗談は、どこで途切れるんだ?
「月末の30日はどうかしら?」
「う、うん、問題はないけど」
「じゃあ、待ち合わせ場所は……わたしが乗ってくる駅は知ってるわね?」
「う、うん」
「じゃあ、そこで。時間は8時でいいかしら?」
「あ、ああ……」
話が途切れると彼女は上機嫌にも見える笑顔で、ずっと外の風景を眺めていた。
僕はひたすらポカンとしたままで、未だに彼女の名前すら聞いていないことに気づいたのは彼女と別れて駅を出た後だった。
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