第33話 記憶を探して-1

 翌朝、月子が現れたのは、まだ9時を回ってすぐの時間だ。

 いつぞやの映画館の時と同じように白いブラウスにショートパンツ、白い帽子という取り合わせで、昨日のデート着のような気合いは入っていないが、僕から見ればこちらの方が月子らしい出で立ちに思える。

 早々に出かける準備を終えていた僕は、彼女の元気な姿を見られたことで内心でホッとしつつも、顔には出さないように気をつけながら、ごく普通に出迎えた。

 そんな僕を見て月子はやや不満そうにしていたので、理由を聞いてみたら、どうやら僕のだらしない寝ぼけ眼を期待していたとのことだ。

 残念ながら僕は休みの日でも朝の6時には目を覚ましている。妙に悔しがる月子に苦笑しながら、僕は彼女を伴って朝の町中を歩き始めた。

 いろいろ考えてみた結果、まずは小学校を目指すことに決めた。

 台風一過の影響で、まだ風は強い。目映い青空から降り注ぐ日差しは間違いなく夏のそれだったが、この風のおかげで散歩には快適だ。もっとも月子は先ほどから、何度か帽子を飛ばされかけては愚痴っている。

 何度か脱ぐように勧めてみたがコーディネートに拘りでもあるのか、なかなか受け入れなかった。もっとも、三度続けて飛ばされると、僕が帽子を拾ってあげた後で渋々提案を受け入れてくれた。

 人の顔と名前を忘れがちな僕だが、不思議と小学校への道筋はしっかり覚えている。

 緑が多い以外は、これといって取り柄もない田舎道は郷愁さえ覚えなかったが、物珍しげに辺りを見回しては、いろいろ聞いてくる月子のおかげで退屈はしない。


「なに、あそこ?」

「廃校だね。僕が通う前から、ああなっていたけど、昔は小学校だったらしいよ」


 いろいろ忘れているくせに意外なことを覚えている自分に苦笑しつつ、僕は月子にいろいろと説明していく。

 さして面白い話でもないだろうに彼女は、しきりに感心したように頷いていた。

 道の左右に並ぶ住宅街には古びた木造のものもあれば、つい最近建てられたと思われる小ぎれいなものもある。

 僕が関心を向けなくなってからも時間とともに風景は変わり続けているのだ。そんな当たり前のことを今さらながらに意識すると、やはり少し切ない気持ちにはなった。

 だけど、そんな想いも後を引くことなく、すぐに霧散していく。僕が淡泊なのか、それとも薄情なのだろうか。


「何か思い出すことはない? 彼女のことで」


 月子に問われて、あらためて景色を見渡すが、やはりそう都合良くはいかないようだ。首を横に振ると月子は顎に手を当てるような仕草で言う。


「やっぱり指切りした場所を見つけるのが、いちばんの近道かも知れないわね」

「指切りか……。でもあれって本当に彼女だったのかどうか……」

「他に手がかりがないんだから、そこについて悩むのはやめましょ。どちらにせよ記憶を辿る手がかりにはなるはずだし」

「うん」


 頷いて僕らはさらに歩き続ける。

 やがて道の先に見覚えのある灰色の建物が見えてきた。そこだけは時間が止まっているかのように代わり映えのしないものだと感じていたが、さらに近づけば決してそうではないことがはっきりする。

 まずは体育館が新しい物に変わっていて、以前は広場だった場所が教員用の駐車場になっている。そこにあったはずの大きなうさぎ小屋や、色とりどりの花が咲き乱れていた花壇は、どこにも見当たらない。

 校舎を見上げてみても自分が使っていた教室や音楽室の場所さえもう判らなかった。

 ただひとつ思うのは、ここはもう僕とは無縁の場所ということだ。たとえ同窓会などが催されても、その集まりに僕が顔を出すことはないだろう。あの日のことを明確に覚えているわけじゃないけど、楽しかったこともまったく覚えていない。それはつまり、一度も立ち入ったことのない場所と大差がないということだ。

 僕の現在も未来も、こことは断絶した世界にある。そうとしか思えない。

 あるいはそれは学校だけではなくて、この町のあらゆる場所がそうなのかも知れない。

 だけど、それでもひとつ。ひとつだけ思い出したいことがある。

 電車の中で毎朝のように顔を合わせる彼女。

 もし彼女が月子の言うとおり、僕が気づくことを待っているのなら、それはすでに一年以上もの間待たせているということだ。

 考えてみれば彼女が急に話しかけてきたのも、月子に対する嫉妬だったと考えれば説明はつく。

 おまけに彼女はこうも言っていた。


 ――意外ね。ホラー映画、好きだったんだ――


 僕がお化けを苦手にしているのは昔からだ。彼女はそれを覚えていたのだろう。

 そう考えれば海に誘ってくれたのは彼女にとって最後の賭けなのかもしれない。それぐらいの気持ちでなければ他校の男子をおいそれと海になんて誘えないだろう。

 こうやって彼女のことを考えて思うのは、自分がやはり彼女に恋をしているということだ。この気持ちは昨日月子に告げた「好き」とは、まるで意味合いが違っている。

 見つけるんだ。かつての愚かな僕が封じてしまった彼女への手がかりを。


「行こう、月子。ここには何もなさそうだ」


 告げて踵を返すと、とくに拘ることなく月子もそれに倣った。

 道を下り海岸通りに近づくにつれて家族連れの姿が目につき始める。海水浴客だろう。混雑とまではいかなくとも、さすがにこの季節は人が増える。

 昔から泳げなかった僕は海に近づくことを好まなかったはずなので、そちらには向かわずに、傍らに造られた防風林の松林が建ち並ぶ公園へと足を向けた。もちろん理由の一つとして、月子を海に近づけたくないというのもあったが、やはり月子は海を怖がっている様子はない。

 僕の記憶よりも綺麗に整えられたその公園には、海に近いこともあって遠方から来た海水浴客たちが気ままに散歩している。家族連れにアベック、学生のグループはもちろんのこと、中には外国人の姿もあった。

 もしかしたら海水浴場は僕が思っている以上に繁盛しているのかもしれない。

 背が高くてハンサムな青年と、その恋人らしいグラマラスな女性とすれ違うと、月子がそちらをふり返って言ってくる。


「三日森くん、見た? あの人、すっごい巨乳だったわよ」

「君はまたそういうことを……」


 ときどき残念な娘になる隣の美少女の言葉に僕はガックリとうなだれる。

 ――でも見ました。確かに見てしまいました。こんな時でさえ煩悩に揺さぶられる僕は青春ドラマの主人公にはつくづくなれそうにない。

 そんな僕の様子になど気づくこともなく月子はしきりに首をひねっている。


「なにを食べればあんなになるのかねぇ……」

「さあね、遺伝じゃないの?」

「遺伝は大きな要因じゃないって何かの本で読んだわよ」

「へえ……」

「君の彼女も大きかったから、今度どうやって膨らませたのか聞いてみてよ」

「まだ僕のってわけじゃないし、だいたいそれって絶対に好感度が下がる質問だよね」


 そもそも月子だって平均よりは大きいはずだ。谷間だって余裕でできている。


「どこを見てるの?」


 どうして女子は、こういうとき、必要以上に男の視線に敏感なのだろうか。……などと思っていると、月子は自分の胸に両手を添えるようにして嘆くように言ってきた。


「ああ、そういえば昨日、君に鷲づかみにされちゃったのよね」

「ええーっ!?」

「しかも背後から」

「いやいや、ちょっと待って」


 記憶をリバースして思い出してみる。やはり海に入るのを止めたときか?

 あのときは無我夢中だったから、自分でもどこをつかんでいたかなんて、よく覚えていなかったけど、もしかしたらつかんだかもしれない。

 でも裁判長、あれは不可抗力です! 人命救助のためのやむを得ない措置で、行為そのものに性的な意味はありませんでした! よって刑法第176条の「強制わいせつ」には該当しません!

 僕は自分の心の良心さいばんかんに無罪を主張した。

 だが月子けんさつは容赦がない。


「このことを学校中に言いふらされたくなければ、さっさと彼女のことを思い出しなさい」

「無茶言うな!」


 どう見ても僕をからかって反応を楽しんでいた月子は、イタズラめいた目で僕を見つめると、感心でもしたかのようにしみじみと頷いた。


「うんうん、三日森くんも成長したね。以前の君にこんなことを言ったら、とことん本気にされていたはずだし」

「よしてくれ。それはもう遠い昔の話だ」

「3ヶ月しか経ってないけど」


 月子に言われて自分でも、少し驚いた。僕の価値観はたったそれだけの間に、こんなにも大きく変わったのか。

 僕は自分を変えたその相手を、あらためて見つめる。

 まず目につくのは、キラキラと輝く大きな目だ。整った顔立ちで唇は薄く、美人と表現するよりは美少女と呼んだ方がしっくりくる。肌はこんな季節でも白くてきめ細かく艶があった。首の後ろで左右に大きく垂らした黒髪は風に乗ってサラサラと揺れながら、陽光を反射して輝いている。手足はスラリとしていて腰は細く出るべきところは出ている。全体的なバランスも申し分なく見事に調和が取れていた。

 僕はあらためて感想を口にした。


「こうやって見ると月子って、すごい美少女だよな」

「あ、ありがと」


 突然言われて困惑しているようだ。僕は構わず続ける。


「これで僕に恋心を抱かせないんだから、よっぽど性格が悪――」


 言い終わるよりも前に月子はその笑顔を剣呑なものに変えて思いっきり僕の頬をつねっていた。


「イテテテテッ!」


 顔をしかめる僕の耳に口を寄せて月子は言う。


「そういうのはお互い様って言うのよ」

「つ、つまり僕も美少年に見えると?」


 つままれていた頬をさすりながら冗談で言うと月子は投げやりに言ってくる。


「ハンサムなのは認めてあげるわ」


 え? 僕ってハンサムなのか、なんておめでたいことを少しだけ思ったものの、この世には社交辞令というものがある。あまり本気にすれば馬鹿を見るだけだろう。

 こんなふうに無駄話をしながら歩き続けていると、古びた鳥居の向こうに小さな神社が見えてくる。いかにも子供が遊び場にしそうな場所だ。

 しかし、鳥居にしてもその両脇に並ぶ狛犬にしても、記憶にはあるのに不思議となつかしさを感じない。

 いや、それ以前に何か違和感すら感じるのだ。


「こんな感じだったかな……」


 僕がつぶやくと、月子は僕の頭に手をのせて言った。


「目線が違うんでしょ」


 そう言って頭を低く押し下げられる。

 すると完全ではないものの、多少なりとも違和感が払拭されるのを感じた。

 なるほど、馴染みのないものに見えたのは、僕の身体があの頃よりもずっと大きくなったからか。

 確かにあの頃は、ここを小さな神社だ――なんて思いもしなかった。

 子供の頃の僕は、この町も世界も、もっと途方もなく大きなものだと思い込んでいたんだ。

 夢もたくさん抱えていたし、未来に希望を抱いていた。決して変わらぬ友情を信じていたし、どんな願いも信じれば必ず叶えられると思っていた。

 取り戻せないものなどない。

 たとえ、今は離ればなれになっても僕らはいつか……


 ――また会おうね。


 少女の声が遠い記憶の向こう側からこだました。


「……彼女だ」


 ぼそりとつぶやくと月子が期待に満ちた眼差しを僕に向ける。

 思い浮かぶイメージはかなり曖昧だったが髪型とかは、そう変わっていない気がする。そのとき僕らは指切りではなく握手を交わしたはずだ。


「思い出したの?」

「名前はまだだ。けど、親の仕事の都合で転校することになった彼女と、確かに僕は約束をしたんだ」

「それってどんな?」

「友情だよ。どんなに遠く離れても、僕らは友達だって」

「お嫁さんにしてあげるとかじゃないの?」

「小学校低学年の話だからね。あの頃の僕らには恋愛なんてよくわからなかったのさ」

「なるほど」

「だけど、ひどい話だ。絶対に忘れないって約束したのに」

「まあ、あんなことがあったんじゃね」


 月子はそう言ってくれたが、僕は頭を振って言った。


「ひどい話だよ。彼女は僕を忘れないって約束を守ってくれたのに、僕は彼女を忘れてしまっていた。情けない。なんで僕は……」

「まだ間に合うよ」


 月子の声はやさしい。僕は救われるような気持ちになった。


「君にはいつも元気をもらってばかりだな」


 月子は僕を裏切らないと約束してくれた。ならば僕も、ここで月子の期待を裏切るわけにはいかない。


「彼女の家を探してみよう。この近くのはずなんだ」

「うん」


 微かな記憶を頼りに僕は月子を連れて駈け出した。

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