第31話 月子の推論

 自分の家が海の近くにあることを、このときほど天に感謝したことはなかっただろう。

 まずはバスタオルでお互いの身体を拭いたあと、浴槽にお湯を張って、着ている物はぜんぶ洗濯機に放り込ませた。

 月子はその間ずっと無言だったけど僕の指示には素直に従い、今はお風呂に入ってる。

 僕は自分の着替えをすませたあと、月子の着替えを探してみたが、適当な物が見つからず、とりあえずは大きめのバスタオルを用意できただけだった。

 若くして亡くなった母の衣類がどこかにあるはずなのだが、親父にでも聞かないことには、すぐに見つかりそうにない。

 職場に電話をとも考えたが、この状況を上手く説明する自信がない。

 手際の悪い僕がバタバタしているうちに、浴室のドアが開く音がして、バスタオルを身体に巻いただけの月子が、おずおずと顔を覗かせる。


「三日森くん……?」


 あの月子もさすがにこういうのは恥ずかしいらしく、バスタオルを両手でしっかりと押さえているが、それがよけいに身体のラインを際立たせてしまい、内心で僕はドギマギした。


「とにかく座って」


 ソファーを指さすと月子はもじもじしながら言う。


「この恰好で?」


 言われて僕は気づく。バスタオルは膝上まであるが、座れば当然その分脚が出るわけで……。

 慌てて僕はくるりと半回転して告げた。


「う、後ろを向いてるから!」

「うん……」


 こういうとき、男という生き物は、なぜか神経が聴覚に集中するようで、月子が立てる物音が妙に耳につく。もっとも、ただ座ろうとしているだけなので、そんなに気にする必要はないはずだ。

 それよりも台風はどうなっただろう。僕は気になってカーテンを開けて外を見た。

 雨は降り続いていたが先ほどよりは幾分マシになった気がする。風はまだうなりを上げているが、これも徐々に弱まってきそうな気配だ。そういえばニュースでも足の速い台風だと言っていた気がする。


「エッチ」


 言われて気づけばガラスに室内の様子がはっきりと映り込んでいる。そこで月子が拗ねたようにこちらを睨みつけていた。


「ご、ごめん」


 慌ててカーテンを閉じて言い訳をする。


「て、天気がどうなってるかと思って」

「もういいわよ。こっちを向いても」


 月子に言われておずおずとそちらに向き直ると、彼女は両足をやや斜めに揃えて座っていた。確かにこれでは脚の隙間など見えようはずもない。

 ただし、バスタオルからはみ出た見事な素足のラインや露出した肩口、あまり馴染みのない髪を下ろした姿など、反則的に魅力的だった。

 いやいや、落ち着けと自分に言い聞かせて僕は頭を振る。月子は僕にとってそういう対象ではないし、そもそもそれどころではない。

 頬を朱に染めたまま視線を逸らし続ける月子に向かって僕は事情を問うために口を開いた。


「月子、いったいどういうつもりだったんだ? まさか本当に死ぬつもりだったのか?」

「死ぬ? わたしが?」


 心底不思議そうに目を丸くする月子。これには僕もとまどった。


「いや、だって君はさっき荒れた海に向かって……」

「ああ」


 言われてはじめてピンと来たように頷いた。


「違うのよ、あれは――なんて言うのか、呼ばれた気がしたの」

「呼ばれた? 呼ばれたって誰に?」

「誰かはわからないけど、月子、月子って」

「それ、もしかして僕じゃないよね? 君のこと後ろから呼んでたんだけど……」

「さすがにそれは違うと思うけど、その声を聞いているとなんだか吸い込まれそうな気がして……。大丈夫? 顔が青いわよ」


 話がオカルトじみてきて、ちょっと挫けそうになっていた。

 オカルトなど存在しない、超常現象など存在しない、今は科学の世の中です――と胸の裡でお経のように唱えて弱気を振り払う。

 しかし、だからといって月子が嘘を言っているようには見えない。もっとも僕には人の嘘をズバリと見抜くような感性はないので自分でもアテに出来ないとは感じていた。

 とりあえずは、もう少し時間を巻き戻したところから質問を再開することにする。


「どうして、こんな日にあんなところに居たんだ?」

「やっぱり夏のデートと言えば海でしょ」


 月子は明るい笑顔でしみじみと言い、僕は耳を疑った。


「デート? 彼氏も居ないのに?」

「彼氏が居なくたってデートぐらいしてもおかしくはないでしょ?」

「けどひとりだったじゃないか。だいたい、こんな天気の日に……」

「デートの予定を立てたときには台風が来るなんてわかってなかったのよ。けっきょく、相手が来られなくなったからデートにはなり得なかったけどね」


 月子は本当にガッカリした様子だった。好きな人が居ないというのは嘘なんじゃないかと疑ってしまう。しかし、相手はいったい誰なんだろう?


「それで最後に海を眺めてから帰ろうと思ったら、どこか遠いところからわたしを呼ぶ声が……月子ぉ~月子ぉ~って」

「そ、それはもういいよ、うん」


 自分の笑顔が引きつるのを感じつつ、目を逸らして言うと月子が小さく吹き出した。


「本当に苦手なのね、こういう話が」

「いや、実際にそんな経験をして死にかけた君が、なんで笑ってられるんだか……」


 そっちのほうが不思議だ。


「そうよね。でも、なんだか夢だったみたいで実感がないの。だけど――」


 月子は一度言葉を切って僕を見た。真面目な顔で、その宝石のように綺麗な目を真っ直ぐに向けてくる。僕は少し息を呑んだ。やっぱり月子はとても綺麗な女の子だ。


「三日森くん、今日は助けてくれて本当にありがとうございました」


 バカ丁寧に頭を下げてきた。こんな時だというのに視線が胸の谷間に向かうのは男のサガなのか。

 軽く自己嫌悪など感じつつも、僕は頭を振って笑いかけた。


「いや、助けてもらったのは僕のほうだよ。君のおかげで少しはマシな人間になれた気がする。あのままだときっと、ろくな大人にならなかっただろう」

「ううん、それは買い被り。君が変わったのだとしたら、それは君自身の力だわ。もしかしたら、こんなわたしでも背中を押すお手伝いはできたかもだけど、その役目がわたしである必要はなかったと思う」

「そんなことはないよ。君以外に君の代わりなんて務まる奴は居ない。君は僕にとって特別な人間だ」


 僕が告げると月子の頬に朱が差した。微妙に視線を逸らしながら口を開く。


「三日森くん、わたしを口説いてる?」

「え……」


 僕は返事ができなかったが、その間にも月子は続けてくる。


「冗談よ、もちろん。君には電車の彼女が居るものね」

「ま、まあ、片想いだけどね」

「…………」


 月子は急に黙り込むと、じっと僕の目を見つめてきた。今度は僕が照れてしまう。しかし、そんなことには構わずに月子は唐突に言ってきた。


「三日森くん、もし良ければ中学と小学校の卒業アルバムを見せてくれるかしら?」

「え……? アルバム? なんでまた……」

「嫌ならいいけど」

「あまりいい思い出がないから、嫌と言えば嫌だけど見せたくないってほどでもないな。でも、押し入れに放り込んだはずだから、見つけるのに少し時間がかかるかもしれないよ」

「構わないわ。待ってるから」

「わかった」


 頷いて僕は立ち上がると、居間を出て二階にある自分の部屋へと向かった。

 普段から整理整頓の習慣がある僕は部屋自体は小ぎれいに片づけてある。しかし、押し入れの中は見事にカオスで、少しでも物を動かそうものならば何もかもが崩れてくるような状態だ。

 それでも月子にああ言った以上、探さないわけにはいかない。

 崩れてくるガラクタや書籍を撤去しつつ、散々掘り返したところで、ようやく僕は探すべき場所の間違いに気づき、今度はやはりカオスになっている廊下の押し入れの探索に取りかかった。

 けっきょく、ゆうに一時間以上かけて目当ての物を掘り出すと、月子の待つリビングへと駆け下りていく。

 待たされっぱなしの月子はと言えば、その間催促することもなく、僕が部屋に戻ったときには、とっくに洗濯と乾燥を終えていた自分の服に着替えて、髪型もいつものそれに戻っていた。


「ごめん、思ったよりも時間がかかって」

「ううん、わざわざありがとう」


 月子は気分を害したふうもなく、そこに浮かんだ笑顔も自然で、とても自分の意思で入水じゅすいしそうな感じはしない。

 でも、確かにあれはあったことだ。本当にオカルトだったのだろうか?

 ぼんやりと考え込む僕の前で月子はアルバムの集合写真と個人写真を片っ端からチェックしていた。

 そしてすべてを見終わったのか、アルバムを閉じるとポツリと言う。


「居ないわね」

「誰が?」


 僕が首を傾げると月子は意外なことを言った。


「電車の彼女よ」

「いや、そんなの居るわけ……」


 言いかけて途切れたのは自分がかつてのクラスメイトの顔さえ、満足に覚えていないという事実に思い至ったからだ。


「た、確かに僕は、あの事件以来、クラスメイトのことさえ、満足に記憶してなかったけど、さすがに彼女のような娘が居れば忘れないと……思うんだけど」


 やはりそのことには自信が持てない。今のクラスメイトは男女を問わず、いつの間にかほぼ頭に入っているが、あの頃は本当に顔と名前を覚えられなかった。覚えたいという意識がまったくなかったからだろう。

 困惑する僕に月子は自信に満ちた目を向ける。


「初めて見たときから思ってたんだけど、彼女はたぶん君を知ってるわ。もちろん、そのときはまだ自信がなかったけど、あとの話を聞いて確信した。彼女が毎日のように、あの車両に乗ってくるのだって、君に思い出して欲しいからなのよ」

「そんな、まさか……」


 まさかとは思ったが、仮に事実だとすれば、今までの彼女の不自然にも思えた振る舞いに説明がつく。

 それに付け足すように月子が言う。


「君は最初に言ってたよね。彼女に恋をする理由がないって。だけど、もしふたりが知り合いだったのなら……」

「……僕も彼女を知っている?」

「わたしはそう思ってる」

「けど、アルバムには、それらしい娘なんて……」

「もちろん学校の知り合いとは限らないけど、途中で転校したって可能性も考えられるわ」

「転校……」


 言われた途端、おぼろげに誰かの面影が脳裏をかすめた。

 だけど、それはどうやっても鮮明な像を結ばない。


「三日森くん?」

「君の言うとおり、確かに誰か居た。たぶん、女の子だ」

「何か思い出せない? 名前とか?」


 月子に言われて僕は考えた。しかし、ヒントになりそうな取っ掛かりさえ浮かんでこない。僕は毒づく。


「くそっ……記憶喪失じゃあるまいし」


 たとえば、これが子供の頃に事故に遭い、頭を大怪我したとかなら、まだしも格好がつくが、いじけた結果、記憶を閉じたら出てこなくなりましたなんて、笑い話にしかならない。


「その娘は前に君が話していた子供の頃の事件に関わっていると思う?」

「いや、その前に転校してしまった気がする」


 言いながら、僕は無意識に自分の右手に目をやる。そこに何か引っかかるものを感じた。


「そうだ、指だ。指切りをした」

「つまり、何か大切な約束を交わしたってことね」

「う、うん……でも、それが彼女とは限らないよ」

「でも、可能性は濃厚じゃないかしら?」

「濃厚かどうかまではわからないけど……」

「デートの予定はいつ?」

「今月の30日だけど……?」

「あまり日がないわね」

「いや、どのみちそれが事実なら、そのときに彼女に聞けば判ることだし」


 それがいちばん確実だと思って言うと月子は呆れるのを通り越して怒った顔になった。そのまま詰め寄るように言ってくる。


「三日森くん、あなたなんにも判ってないわね。フラれるわよ、確実に」

「え……? な、なんで……?」

「彼女はあなたが自分に気づいてくれないのを絶対にもどかしく思ってる。この上、実は約束どころか存在さえ忘れてました――なんて言われた日には彼女の恋心は一発で木っ端微塵。塵を残さないどころか汚染物質を発して、あなたのことを万劫末代まんごうまつだいまで呪いつづけることになるわ!」

「そ、そこまで……」


 顔を近づけてまくし立てる月子に、僕は冷や汗をかきつつのけぞった。正直、そんな大げさなと思わなくもないのだが、それを言ったらまた怒鳴られそうだ。


「そんな大げさなとか思ってるでしょ?」

「やっぱりエスパーなのか!?」

「たんに君がわかりやすすぎるだけよ」


 自分ではむしろ偏屈すぎると思っていたのだが、僕は意外に単純なのだろうか?


「君は子供の頃、仲間だと思っていた人たちに裏切られて傷ついたでしょ。それと同じよ。君が忘れてると知れば彼女は同じように裏切られた気持ちになる」


 その言葉に僕は息を呑んだ。

 人を信じる気持ちが強ければ強いほど、それが壊れたときの痛みは激しいものになる。

 もし月子の言うように彼女が僕を好きでいてくれているなら、僕の裏切りは確実に彼女にとって深刻なものになるだろう。


「ど、どうしよう、月子? 僕はどうすればいいんだ!?」


 言いしれぬほどの焦燥に駆られて、思わず月子に詰め寄ってしまう。

 今度は月子が顔をのけぞらせつつ、慌てたように言った。


「お、落ち着いて、まだ時間はあるから」

「け、けど、どうやって思い出せば……」

「えーと、昔のプリントとか残ってないの? クラス名簿とか」

「そんなの学年が上がる度に捨ててるよ」

「日記とかは?」

「前はつけてたけど、そういうのはあの後でみんな燃やしてしまったから……」

「うーん……」


 とうとう月子も腕を組んで唸ってしまった。

 僕は卒業アルバムを開いて、そこにある顔ぶれをざっと眺める。


「誰かに聞ければいいんだけど……」


 見事にみんな知らない奴らに見える。もちろん、微かに印象に残ってる者も居るが、そこに書かれていなければ名前さえ判らないというレベルだ。

 しかし、どのみち月子はこの案を却下した。


「誰かに教えてもらうんじゃダメよ。これはあなたが自分で思い出さなきゃならないことだわ。でなきゃ、彼女の気持ちが酬われないわよ」


 言われて僕は黙り込む。月子の言うことはもっともだ。だけど、今の僕にとって自分の過去を知るというのは雲をつかむような話に思える。

 それでも月子は頭の回転の速さを発揮して、すぐさま次のアイデアを出してくる。


「手がかりがあるとすれば、やはりこの町でしょうね。それこそ小学校や、子供の頃遊んだ場所なんかを回れば、自然と何か思い浮かぶかもしれない」

「この町……か」


 僕は逡巡した。自分が尻込みしていることを自覚する。昔のことを思い出せば、当然あのときのことも鮮明になるだろう。正直、それが少し怖い。

 そんな僕の内面を見通しているのか、月子はやさしい眼差しを僕に向けてくる。

 どうしてだろう? 彼女は僕の弱さを非難しない。僕の心の歪みを非難しない。

 今もそうしてくれているように、やさしく光の方へと手を引いてくれるだけだ。


「三日森くん、君がつらいなら、ここでやめるのもアリだと思う。でもね、もし君が鬱陶しい泥にまみれてでも、その向こうで待っててくれる女の子に手を差し伸べてあげたいなら、もう一頑張りするのも悪くないんじゃないかな?」


 僕は自分の不甲斐なさを恥じた。電車の彼女が本当に僕を知っていて、待っていてくれたのならば、彼女に恋する僕が、どうしてそこから逃げられようか。


「そうだね。探してみるよ」


 僕はテーブルからテレビのリモコンを拾い上げると、スイッチを入れて気象情報を確認する。どうやら、さして大きくもなく足の速い台風は今夜中にも日本海の方に抜けていくらしい。明日は早々に晴れそうな気配だ。


「じゃあ、明日の10時頃に、ここに来るわ」


 隣で月子が言った。


「え? 君も来るの?」

「当然でしょ? 君が逃げないように見張っておかなきゃね」


 そう言ってウインクする月子の姿は、やっぱり反則的にかわいいと思った。

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