連作短編集 「歪んだ町」

久良木 景

プロローグ ある町角に流れ着く

ある町角に流れ着く

 知らない町には、知らない景色だけが広がっている。

 それは、冷静に考えれば……いや、考えるまでもないほどに明白なことである。

 それでは、名前も知らない町を歩いている時に時折感じる、あの既視感はいったい何なのだろう。

「わたしはこの町を知っている」

「わたしはこの町に来たことがある」

「わたしはこの町に帰ってきたのだ」

 歩を進め、新たな情景が開けていくにつれて、そういう想いが積み重なっていく。

 そこの角を曲がった時に、目の前に続く道を。

 あの歩道橋の階段をのぼり終えた時、眼下に広がる光景を。

 春を迎えた公園に、どれほどの花が咲き、風に吹かれて散っていったのかを。

 わたしは何度も目撃し、自分にとって馴染み深いものに感じさえする。

 だが、やはり、ここはわたしの知らない町なのだ。

 わたしは今日、生まれて初めてこの地を訪れたのだから……。




 とある駅に電車が停まった時に、わたしは座席の上でふと目を覚ました。

 電車の扉が開き、数人の乗客が乗車してくる。それに混ざって、春の気配を含んだ町の空気が車内に漂い、鼻腔をくすぐった。

 ああ、ここだ。わたしの降りる駅は、ここだったかもしれない。

 唐突にそんな想いがわき起こり、ふらりと席を立ち、何かに引き寄せられるように、見知らぬ駅のホームへと降り立ったのだった。

 この町の名は、深間坂というそうだ。初めて耳にする場所だった。

 閑散とした駅舎を出て、町を歩いた。そこは郊外にある閑静な住宅街といった町並みで、住民以外が足を踏み入れることはおそらくほとんどないと思われた。

 おだやかな日差しと、指先から這いあがってくる冷気がせめぎあっている。

 その曖昧な季節の境界を何度も跨ぎ越すように、わたしは青空の下をただ歩き続けた。体の芯はほのかに温かく、吐く息は白かった。

 やがて寂れた商店街に出た。ぶらぶらと歩いていると、くれない堂という古書店が目についた。扉は開け放たれており、店の奥で主人が新聞に目を通しているのが見えた。

 ふらりと立ち寄ってみると、古本屋の独特な埃っぽい匂いが鼻をつく。主人はちらりとこちらへ目線を投げて、軽い会釈をした後、また新聞へと目線を戻した。

 わたしは、みっしりと本の詰め込まれた棚の間をかいくぐるように、店の中を見てまわった。

 堆く積まれた本の山の一角に目を向けた時、その中の一冊と目が合った気がした。その本はすぐに目を伏せて、自分の気配を消してしまったが、わたしは咄嗟に本棚に近づいた。

 それは、決して見つかるまいと、他の本たちとの間で窮屈そうに身を潜ませていた。その布張りの背中には、『ある町角で』という金色の文字が箔押されており、それがわたしの琴線に触れた。

 わたしはすこし苦労しながらそれを棚から抜き出すと、両隣の本がまたぴったりと身を寄せ合うように、その隙間を埋めてしまった。

 途端に、この本を手に取るという行為が、とても軽はずみなことのように思えてきた。もう、この本を元の場所に戻すことは叶わず、それはつまり、この本と出会う前の自分にはもう戻れないのではないか、という想像である。

 だが、それはやむを得ないことだと、わたしは静かに受け入れていた。わたしがあの時目を覚まし、駅に降り立った時から、わたしがこの本を手に取ることはすでに運命づけられていたように思われたのだった。

 わたしは自分の手に収まった本の布張りの感触を指で楽しんだ後、会計を済ませた。店を出ようとすると、「その本のことだが」と後ろから声がかかった。振り返ると、主人がわたしの手の中の本を指して言った。

「たしか、元は函入りだったんだ。いつの間にか裸になっていた。さっき、あんたから差し出された時におやと思ってね……」

「かまいませんよ」

 読むのに差し支えはないでしょうから。そう応えて、わたしはそのまま店を出た。


 人気のない公園が目に入ったので、そこに立ち寄った。四阿に腰を下ろし、目の前に広がる公園の景色を一望した。

 ブランコやすべり台などの遊具があり、砂場や原っぱがあり、そこに春の日差しが降り注いでいる。そこに本来あるべき人の気配だけが欠落しているようだった。

 わたしは鞄から、先ほどの古書店で手にした本を取りだした。『ある町角で』というタイトルも作者の名前も初耳だった。ぱらりとページを捲るごとに、本が長年もの間その身に蓄えていた古びた空気を、わたしの顔面に吐きかけてきた。

 その物語は、ある男が知らない町を訪れるシーンから始まった。

 無論、今の自分との符合を感じずにはいられなかったが、本の中の男の方には、町を訪れた明確な理由があるらしい。主人公の男は月之杜という町にあるという「天使の棲む家」を探しているのだという。

 天使とはいったい何か。男は何故、天使に会いに行くのか。天使の棲む家がその町にあると、何故男が知っているのか。いくら文字を辿っても、それらは説明されることはなかった。

 男は文章の中で、自分はただ「天使の棲む家」に行きたいのだと読者に対し何度も主張を繰り返していて、もしかしたらこの男も天使の片割れで、彼自身の帰巣本能に従い、帰るべき家を探しているのではないかと、わたしは想像した。

 ふと、何か桃色がかった白い切片が視界を横切り、文章を遮った。何かと思えば、それは風に舞い落ちた桜の花びらだった。

 目をあげてみると、四阿のすぐ近くに生えている早咲きの桜が風を受け、その枝を揺らしている。わたしはページの間に落ちてきたその花びらを小説の中に封じ込めるように、本をゆっくりと閉じた。

「その本、面白い?」

 突然声を掛けられて、そちらを振り返る。いつの間にか、ひとりの少年が近くに座っていて、こちらを見ているのだった。

 彼の質問に答えかねたわたしは、かわりに物語のあらましをかいつまんで少年に話してやった。しかし、もちろんすべてを通読したわけではなかったので、彼への説明を中途半端なところで中断せざるを得ない。

「……そういうわけで、彼は天使の棲む家を探しているんだ」

 わたしが自分の知りえるところまでの内容を語り終えると、少年は黙ったまま、首を傾げた。彼はその無言のうちに、その話の続きを催促し、あるいは寓意のあるようでないような変てこな話の補足をわたしに求めているのかと思いきや、彼はおもむろにあさっての方向を指差してこう言った。

「月之杜なら、あっちだよ」

 その意味を計りかね、言われるままに少年の指の先に目を走らせた。彼は、公園の植栽の先に広がる住宅地の上り坂の先を示していた。月之杜という地名はこの深間坂という町の中に実際に存在しているのだと、少年は告げているのだ。

「その本を書いたのは、この町の人なのかもしれないね……」

 まさか、と言いかけた時、公園の外から女性の声が聞こえてきた。

そちらを振り返ると、この少年の母親と思われる女性が、彼の名を呼んでこちらに手を振っていた。

「お母さんだ。僕はもういかなきゃ」

 少年は母親に手を振って、ひらりと立ち上がった。

「ねえ。あなたはこの町の人ではないんでしょう……月之杜に行ってみたら? もしかしたら本当に、天使の棲む家があるのかもしれないよ……」

 少年はそう言い残し、母親のもとへと駆けていった。


 ひとり、四阿に取り残されたわたしは、親子の後姿が小さくなり、町の中へと消えて完全に見えなくなるまで、その姿を目で追っていた。

 わたしはどこへ行くべきだろう。

 わたしはどこへ帰るべきだろう。

 その答えを、誰に問えばいいのか。誰が答えを知っているのか。

 わたしは、その手に携えた本に目を落とし、それを鞄にしまった。

 とりあえず、もうすこし歩いてみようか。

 どこに辿りつくのかは未だ知れないけれど。

 わたしはゆっくり腰を上げて、知らない町の中へと、足を踏み出した……。

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