風の塔に眠る夢 - 5

 あの本を手に入れてから五日後の土曜日の朝、麻美は新幹線の座席に腰を下ろし、目の前を流れ去る景色をぼんやりと眺めていた。膝の上には、件の本『風の通い路』が入っている。向かう先はもちろん、初めて訪れる町、深間坂だ。

 あの本を手にして以来、麻美はこの日を心待ちにしていた。あの『風の通い路』なる絵を目にしてからというもの、あの風の塔の風景が頭から片時も離れることがなく、仕事も手につかないほどだったのだ。まるで夢が現実に侵食してきたかのようで、このままではとても生活がままならない。

 あの後、麻美はくれない堂に何度か電話を入れてみたのだが、なぜか一度も通じなかった。

 麻美は、火曜日の終業後、『風の通い路』を携えて、再度古本市を訪れたが、くれない堂という店の出店はなかった。

 この本を買った時の記憶を呼び戻そうと頑張ってみたが、その時は目の前の本に夢中で、会計を担当した人物のことはすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

その時に会計をしてもらった本屋の主人に尋ねたのだが、『済まないねえ、その日の会計担当のアルバイト君が、きっと値段だけ見て判断しちゃったんだろうなあ……ったく、ひと言聞いてくれたらいいのに』と、なぜ自分のところの棚にそんなものが紛れていたのかわからないという返答だった。

 こうなったら、深間坂という町に直接足を運ぶ他にない。今、何を投げうってでも、わたしは深間坂に足を運ぶべきなのだと、何かが頭の中で叫んでいた。

 一時間ほどで新幹線を降りた麻美は、地方線の普通電車に乗り換えた。

 新幹線の小さく忙しない車窓とはうって変わって、長閑な景色が目の前をゆったりと流れていくのを、麻美はぼんやりと眺めていた。

「次は深間坂、深間坂です……」

 朴訥としたアナウンスが車内に流れ、麻美は席を立った。


 麻美が深間坂駅の駅舎を出ると、いかにも郊外の閑静な住宅地という光景が広がっていた。

 近くのベンチに腰かけて、温かい陽光を浴びながら読書をする老紳士の姿が目に入るばかりで、他に人通りはなく、静かなものだ。バスのロータリーには、客待ちのバスとタクシーが、病院の待合室で世間話でもするかのように仲良く停まっている。

 まったく知らない場所であるはずなのに、なぜだか郷愁の念がこみ上げてくるような、奇妙な感覚を覚えて、麻美はしばらくぽかんと駅の前の広場で佇んでいた。

 ロータリーの中央にある時計台は、ちょうど午前十一時を指している。はっとして、麻美は歩き出した。

 くれない堂の場所と営業時間は調べてある。歩くには遠すぎるし、バス停からも距離があるため、タクシーを利用するつもりだった。十一時に開店するとあったので、時間的にもちょうどよい。

 麻美は、停まっているタクシーに乗り込み、運転手の男性に行き先を告げると、思いがけない答えが返ってきた。

「くれない堂って、徳さんのところかい? あそこなら今、休業中だよ」

「え?」

 ぽかんとして、運転席の方を見る。

「さくら通りの古本屋だよな? 店主が徳さんつって俺の同級生なんだけど、奥さんのお母さんの体の具合が悪いってんで、しばらく店を閉めて奥さんの実家の方にいるんだと……」

「そう、なんですか……そういえば、何度か電話を入れてみたんですが、出られなくて」

「ああ、そうそう。一応、店の窓に、休業の知らせと自分の携帯番号を書いた張り紙はしてあったんだが、馴染みの客じゃなきゃ知らないよなあ」

 予想外の展開に、麻美は後部座席でフリーズしてしまう。

「えっと……どうする? とりあえず店の前まで行ってみるかい?」

「いえ、大丈夫です。降ります、すみません……」

 麻美は頭を下げて、タクシーを降りた。

 さて、どうしたものだろう。はるばる深間坂まで来た途端に、暗礁に乗り上げてしまった。行くあてもなく町をうろついているわけにもいかないし、どこかで腰を下ろして考えたい。

 それに小腹も空いている。昼ご飯がてら、情報収集できればありがたいのだが……。

 麻美は、駅前の看板に掲げられた町内の地図を眺めた。それによれば、このすぐ近くに「まほろば」という喫茶店があるらしい。麻美はそこを目指して歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る