風の塔に眠る夢 - 6

 その喫茶店の屋根の上では、風見鶏が音を立ててゆるゆると回っていた。

 入り口のドアを押し開けると、カランカランとドアベルが鳴り響き、赤い蝶ネクタイをつけた、マスターと思しき男性が麻美を出迎えた。

「いらっしゃい、おひとり様? 空いているのでお好きな席へ……」

 麻美は店内に目を走らせる。

 何やら深刻そうに話し込んでいる男女のペアと、ぺちゃくちゃと談笑しているやんちゃそうな四人組の男子学生たちが、すこし距離を開けてボックス席に掛けており、それ以外は空席だった。他のテーブル席も空いていたが、麻美はあえてカウンターの席を選んで座った。

 麻美は日替わりのランチを注文した。出されたオムライスとサラダのセットで小腹を充たした後、アイスコーヒーを飲みながらひと息ついていると、マスターが「美味しかったかい」と、にこやかに話しかけてきた。

「ええ、とても」と、麻美も笑みを浮かべて返す。

「それはよかった……ところでお客さん、この店は初めてだね? いや、詮索するつもりはないんだ。僕は記憶力には自信があってね。一度来たお客さんの顔は忘れないはずなんだが……」

 そういって、マスターは自分の頭を指差した。

「やっぱり、お客さんの顔は僕のデータにない」

「そういうのを、詮索っていうんじゃないですか」と、女性店員が、通りざまにぼそっと呟く。

 麻美はくすっと笑って応えた。

「構いませんよ……ええ、おっしゃる通り。わたし、この町は初めてなもので。ちょっとした事情があって、○○市からさっき来たばかりです」

「○○? なんだってそんな遠方から……しかも、こんな郊外の何もない町に? 仕事の都合かい」

 麻美は首を振った。

「実は、色々と込み入った話でして……お食事のついでといってはなんですが、この町のことをお尋ねできればと思ってお邪魔したんです」

 そういって、麻美は鞄から例の本を取りだした。

「先日、この町にあるくれない堂という古本屋を通じて、この本を手に入れたのです。この本の作者である、古賀雅治という人物を調べているんですが……」

 マスターは、ゆっくりと麻美から本を受け取った。麻美は、その時にマスターが浮かべた表情を見て、「ビンゴだ」と思った。

 彼の渋面が、古賀雅治のことをよく知っていると物語っていたのだ。

 マスターは、しばらくの間、無言でぱらぱらとページを捲っていた。やがて本を閉じ、ため息をつくと、おもむろに口を開いた。

「これを……あの古本屋で手に入れたと?」

「ご存知なんですね? この古賀雅治という人のことを」

「ああ、まあ、知っているというか……ある意味、有名人だよ。この町の古株の間ではね。やれやれ、今になってあの男の名前を耳にするとは」

 その口ぶりからは、あまりいい印象を持っていないようだ。

 話の内容が気になったのか、通りかかった店員がまた足を止めた。

「わたしは初耳ですけど……いったいどんな人なんです?」

 うむう、とマスターは腕を組んで難しそうな表情を浮かべて言う。

「ひとことでいえば、そうだなあ……お騒がせ者というか厄介者というか、鼻つまみ者というか爪弾き者というか……」

「散々な言い草ですね」

「それに、全然ひとことじゃない」

「いや、これでもだいぶ言葉を選んでいるんだよ。いなくなった人間の陰口を叩くのは気が引けるからね……まあ、大体の人間には嫌われていたよ。芸術家を自称して、この町の一角にアトリエを構え、周囲の迷惑も顧みずに自分の創作活動に血道をあげていた男だ」

 マスターは首をすくめた。

「実のところ、僕だって彼の人となりを詳しく知っているわけじゃないんだよ。僕がここで店を開いたのがちょうど十年前で、それと入れ替わるように、彼はこの町から忽然と姿を消したんだ」

「失踪……ですか?」

 麻美の問いに「うん」と遠くを見るような目で頷いた。

「ここから姿を消した後も、お客さんの間で彼はよく話題になっていたなあ。家の壁に子どもの絵みたいな落書きをされたんだとか、子どもを公園で遊ばせていたら、創作の邪魔だといって怒鳴られたとか……彼に対する愚痴や文句は枚挙にいとまがなかった。僕自身は彼に会ったことはないけれど、開店当初からそういう噂は散々耳にしていたからね。まあ、ロクな奴ではないんだろうな、と……」

 なるほど、その話が事実なのだとしたら、町の嫌われ者に違いない。

「いや、しかし、こんな立派な作品集を出していたなんて知らなかったよ。これは油絵かな? 芸術家気取りの夢想家だと思っていたけど、まともな絵も描いていたんだなあ。すこし見直したよ」

 マスターは『風の通い路』に目を通しながら、心底感心したように言った。

「古賀は、この町を出てどこへ行ったんだと思います?」

 麻美が問うと、マスターは首を振った。

「僕には皆目見当もつかないね。町の誰も知らないんじゃないかなあ。資金が尽きたんで親元に帰ったんだろうとか、別の町に移って同じようなことを繰り返しているんだろうとか、あれこれ言われていたけど、どれも憶測に過ぎない。僕としては、後者の可能性が高いと思うけどね。噂を聞くかぎり、放浪癖もあったそうだから。仮にそうだとしても、どこに拠点を移したのかは知る由もないけどね……おっと、新しいお客さんかな」

 麻美の背後で、カランカランとドアベルが鳴った。女性店員が客の方へと歩み寄っていく。

「それじゃあ、ごゆっくり。またなにか訊きたいことがあれば、遠慮なく」

 マスターは本を麻美の手に戻すと、厨房の方へ引っ込んだ。

 その背中に礼を言って、麻美は頭を下げた。

 ……さて、収穫はあった。

 古賀雅治の人物像はだいたい掴めた。彼はこの深間坂に住んでいて、ここで創作活動に励んでいたのだ。おそらく、『風の通い路』の絵も、ここで描かれたものに違いない。

 だとすると、この絵が描かれた背景……すなわち、彼にインスピレーションを与えたものが、この町のどこかに存在している可能性が高い。そう考えるのは、あまりに短絡的だろうか?

 しかし、彼がどこに住処を移したかもわからないとなると、この町を探るより他にない。となると、彼が創作活動の拠点にしていたというアトリエが、深間坂のどこにあったのかが問題だが……。

 アトリエの近くで撮影された写真が載ったページを開いていると、突然、後ろから男の子の声が上がった。

「これって、間多良山公園のボロ小屋じゃねえの?」

 麻美が驚いて振り返ると、中学生くらいのひとりの男の子が、麻美の本を覗きこんでいた。先ほど、窓際のボックス席で談笑していた男の子四人組のうちのひとりだ。

「てっつん、やめろって。迷惑だろ……すみません、急に」

 仲間のひとりが、ボックス席からこちらに頭を下げている。

「すんません。トイレから戻ろうとしたら、なんか面白そうな話が聞こえたんで、つい」

 てっつんと呼ばれたその男の子は、へらへらと笑いながらも、素直に頭を下げた。

「ねえ、待って」

 席に戻ろうとする彼の背中に、麻美は呼びかけた。

「この場所を知ってるの? もしよかったら、教えてほしいんだけど」

 麻美の問いかけに、四人の少年は、無言で顔を見あわせた。

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