風の塔に眠る夢 - 4

 マンションの自室に戻った麻美は、空腹にも構わず、ソファに腰かけて先ほど手に入れた本のページを捲っていた。

 あらためて目を通してみると、そこに載っているのは絵画だけではなく、同じ作者の手掛けた彫刻などの立体物の写真、あるいは作者にゆかりのある風景を撮影した写真なども載っていた。画集というより、作品集、あるいは活動歴をまとめた資料と言 った方が適切かもしれない。

 そして不思議なことに、出版社や発行年月日などの情報が一切載っていなかった。ISBNコードすらついていない。自費出版というやつかと思ったが、仮にそうだとしても、市場に出回る出版物にそれらの記載がないのはおかしい。

 とにかく、この古賀雅治という作者に関する情報を集めようとネットで検索を試みたが、ヒットする情報はなかった。『風の通い路』という作品についても同様である。類似した名前の曲や詩集が見つかるものの、どれもこの絵とは関係がなさそうだ。

 県立図書館の蔵書検索、果ては国立国会図書館のデータベースに頼ってみたが、それでも麻美の求める結果は得られなかった。

 では、この本はいったい何なのだ。

 パソコンの前で頭を抱えていた麻美の脳裏に、あるひとりの人物の顔がよぎった。

 ちらりと壁の時計を見ると、午後八時をまわったところだ。きっと忙しくしているだろう……。

 逡巡の後、麻美は自分のスマートフォンに手を伸ばした。最近あまり連絡をとっていなかったとある友人に、メッセージを送る。

 すると、一分と経たないうちに、向こうから着信が入った。まさか向こうから電話が来るとは思っておらず、麻美は慌てて電話を取る。

『やっほー。麻美、久しぶり』

「ああ、ごめんね、ひとみ。こんな忙しい時間帯に……」

『大丈夫、子どもたちは博人とお風呂に入ってるから。それより、どしたの?』

「ええと、そんな大した用じゃないんだけど、実は……」

 麻美は、電話相手の永瀬ひとみに、今の状況を説明した。

 ひとみは、麻美の大学時代の学友である。すでに結婚し、家庭を持っている彼女に電話するのは若干の心苦しさがあったが、彼女は気安く話を聞いてくれた。

 麻美が本を読む習慣を持つようになったのは、大学時代の彼女の影響が大きい。麻美が訊くと、彼女は麻美の希望にあわせていろいろな本を紹介してくれた。そのため、本のことで困ったら彼女に尋ねてみようという考えが働いたのだった。

 麻美は自分の夢のことは伏せて、出版社も発行年月日も何もない本の詳細が知りたいということを伝えた。

 麻美の話を聞き終えたひとみは、「ふうん、なるほど」と相槌を打った後、こう言った。

「それ、たぶん私家版ってやつじゃない?」

「しかばん?」

「そうそう。平たく言えば、市場に出回っていない本のこと。個人で作って、近しい人に配ったりするために作ったもののこと。ISBNコードがついてないってことは、そういうことだと思うけど」

「それじゃあ、この作者のことをこれ以上調べるのは不可能ってこと?

「残念だけど、ネットで探しても見つからないほどの知名度なら、ちょっと難しいと思うなあ」

 麻美は呆然とした。しっかりとこの手に掴んだと思った希望の糸は、迷路の出口までは続いておらず、途中でぷつんと切れてしまっていたのだ。

 麻美はひとみに礼を言って、通話を切った。

「私家版か……」

 麻美は諦めがつかず、『風の通い路』に何度も目を通した。そこには、古賀雅治の作品の他、彼が自身のアトリエで創作活動に励む様子を撮影した写真が何枚も載っている。せめてそのアトリエの場所くらいは書いていないかと目を皿にして探すのだが、なぜか一行もそういった記載がない。アトリエの外観も写真に残っているが、ここから地名を割り出すのは不可能だろう。そもそも、撮影された日からゆうに二十年は経っているように見える。おそらく、この建物も残っているか怪しいところだ。

ふと、本の見返しのところに貼られた値札が目に入った。

「古書店くれない堂」。

 果たして、この古書店に問い合わせて、何かわかることがあるだろうか。一縷の望みをここに託そうかと値札にある文字を見た時、麻美は思わず首を傾げた。

 そこに記載された住所によれば、くれない堂は、こことは遠く離れた県外にある古書店だった。××県の深間坂。聞いたことのない町の名前だが、こことはだいぶ距離がある。

 先ほどの「秋の古本市」は、この辺一帯にある古書店が集まって開いているローカルな催しで、わざわざそんな遠方から出張してくるような大規模なイベントではないはずである。

 麻美はネットで当の古本市について改めて調べてみるが、やはりというべきか、参加店舗一覧にくれない堂は入っていない……。

 麻美は、ソファの上で考え込む。だが、いくら考えてもおかしい。というより、まったくもって怪しい。

 しかし、ここには何かがある。突然、麻美の目の前に現れたこの本、『風の通い路』と何か関係があるような気がしてならないのだ。

 麻美は、先ほど途切れてしまったと思った糸が、実は思わぬところへ導いてくれているのだという気がした。

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