風の塔に眠る夢 - 3
たまには飲みに行きましょうという麗奈の誘いを断り、麻美は定時に会社を出て、流れるように地下鉄の駅へ向かった。
勤め人としての最低限の付き合いは心がけているが、今日はその気分ではなかったし、帰りに寄りたい場所があったのだ。
麻美は改札口の前を通りすぎ、普段通ることのないコンコースを歩いた。仕事を終えた勤め人の群れに紛れ、目的の場所を探す。
「お、あった」
そこは、様々な催事に利用される一角だった。たまにミニライブが開かれたり、陶器類の販売が行われていたりする、多目的スペースだ。今、そこにはたくさんの本が詰められたワゴンや本棚が並べられていた。
仕事終わりの人々が足を止め、本の背表紙を眺めたり、気になった本を手に取って、ためつすがめつ物色したりしている。
その横には、「秋の古本市」という太く荒々しい揮毫がのぼりとして掲げられている。
この古本市は、付近の古書店が共同で数か月に一度、開催しているものだった。麻美は数週間前に駅構内で告知の張り紙を目にしており、密かな楽しみにしていたのだ。
本の海を渡るように、背表紙を目で追っていく。
とはいえ、特定の本を探してまわっているわけではない。琴線に触れるような本との出会いがないか、あてもなく本の山をかき分けている今こそが、麻美にとっては至福の時間なのだ。
以前は、好きな作家や好きなジャンル、名作とうたわれる文学作品などに狙いを定めていたが、最近は、聞いたことのない海外の作家や、画集に写真集、果ては児童向けの絵本などにも、ためらわず手を伸ばすようになった。
装丁、タイトル、帯の惹句。きっかけは何だってよい。結局は手に取って読んでみないとわからないのだから、「自分の好みはこれだ」と決めつけることがもったいないのだと、最近になって気がついた。
本の奥にある、広大無辺な世界に気がついた今となっては、読書家を名乗ることさえ気が引けるのだが、やはり本はよい。ページを捲ってみて、「これは」というものに巡り合えた時の喜びは、何にも代えがたいものだ。
そんなことを考えながら、木箱に詰まった本たちの背表紙に目を走らせていく。すると、一冊の本がぴたりと麻美の目に留まった。
『風の通い路』 古賀雅治
その背表紙が目に留まった途端、麻美はほとんど無意識に手を伸ばしていた。
それは見たところ、古い画集の様だった。A4サイズほどの大きさで、透明のビニールカバーがかかっている。白い布地の装丁に、作品タイトルと作者名が箔押されているばかりで、それ以上の情報は読み取れない。
いったい何が自分の心を捉えたのかわからないまま、麻美はぱらぱらとページを捲ってみた。目に入るのは、特筆すべきこともない、よく見かけるような風景画や人物画ばかりである。実のところ、麻美は、絵画には明るくないのだ。
まあこんなものかと、本を閉じようとした時だった。
「……え?」
麻美は、目に飛び込んできた一枚の絵に、思わず間の抜けた声を出してしまった。
それは、見開きで掲載されていた、壮大な自然を描いた一枚の風景画だった。そこに描かれていたのは、永遠とも思える青い空と、同じくどこまでも続く大草原、そして聳え立つ数基の石の塔。それは麻美が何度も見た、あの夢の景色そのものだったのだ。
麻美は愕然とし、その本を開いたまま、しばらく書棚の前で凍りついた。
どれくらいの間そうしていたのだろうか。近くを通りかかる客が、こちらに向かって怪訝な視線を向けているのに気がつき、麻美はようやく我に返った。
それは油彩の絵で、この本のタイトルにもなっている『風の通い路』という作品らしい。
麻美は、『古書店くれない堂 二五〇〇』と書かれた値札を確認した後、一も二もなくその画集をレジへと持っていった。
会計を済ませて画集を鞄にしまうと、麻美は急ぎ足で家路についた。他の棚を見てまわる気分にはならず、さっさと家に帰ってこの本に目を通したかった。
地下鉄に乗っている間、麻美の心臓は早鐘のように打っていた。長年悩まされていた影も形もわからないあの夢の謎を探る糸口が、唐突に目の前に現れたのだ。
これは偶然の一致などではない。絶対に離してなるものか……。
麻美はマンションの扉に手をかけるまで、鞄の紐を固く握りしめていた。
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