第4話 人魚問答

人魚問答 - 1

 深間坂中央公園の前を通る時、その声はしばしば聞こえてきた。


 ほるるるるるる……。


 夜の住宅街の静寂を揺らすような、何かの鳴き声。

 フクロウかな。こんなところに野生のフクロウが棲みついているとは考えにくいが、どこかから迷い込んできたのだろうか。あるいは、誰かが飼っていたのが逃げ出して、この公園に棲みついてしまったのか。

 ああ、そうだ。きっとそうに違いない。

 この辺りは閑静な住宅街だから、案外居心地がいいのかもしれない。しかし、餌はどうしているのだろうか。この辺りにネズミのような手頃な小動物などいそうにもないが、もしかして、誰かがこっそり世話をしているのか……。

 疋田修一は、勤め先から自宅のアパートに戻る途中、公園の前を通りかかり、それを耳にする度に、そんなことを考えていた。

 いったい、この鳴き声はいつから聴こえていただろう。

 一年前……いや、それよりずっと前からだろうか。思えば、晴れていても雨が降っても、季節が変わっても、同じように聴こえていたように思う。それでも、今の今まで一度も声の正体を確かめようとはしなかったが……。

 この日は、何かが修一の足を止めた。

 その時、霧のような細かい雨が降っていた。歩道から眺めた公園の景色は、雨に霞んでいる。その奥からいつもの鳴き声が響き、修一の耳朶を打った。


 ほるるるるるる……。

 ほるるるるるる……。


 その時、修一の胸に奇妙な感慨が押し寄せた。

 まるで、その声がこちらに向けて発せられているような……霧深い向こうの世界から、自分を呼んでいるような気がしたのだ。

 そして、その声の主がフクロウでもその他の鳥獣でもなく、もっと別のもの……修一がこれまで出会ったとのないものであると、その時に直感した。理由はまるでわからないが、自分を呼ぶ者に会いに行かなければならないと、修一は思った。

 雨に煙る石畳の道を、修一は歩いた。公園の中央を走る石畳に沿って点々と並ぶ街灯が、橙色の灯りを放っている。夕暮れ刻の公園に人の気配はなく、静まりかえっている。降り注ぐ雨滴が修一の傘の表面を叩くかすかな音も、静かな雨の中にまぎれて消えていく。

 そのまま小道を進んでいくと、やがてこの公園の中央に位置する円形の広場に出た。その中央には噴水があり、それを眺めるように、広場の四隅にはベンチが配されている。小さいが瀟洒な雰囲気の広場で、日中は噴水から流れ落ちる水の音を聴きながら、ベンチに腰かけて日向ぼっこや読書などを楽しむ人々の姿も見られる、穏やかな雰囲気の場所である。

 だが、日の暮れかかった今の時間、噴水の水は出ておらず、雨に濡れそぼったベンチに当然人の姿は見られない。そこにはなんとも哀愁漂う空気が漂っている。


 ほるるるるるる……。


 また、誰のものともしれぬ声が公園の中に響き渡った。

 それは、公園の外側から聞いていたよりもはっきりと聞こえる。声の主はかなり近い場所にいると思われた。おそらくは、この広場のどこかに……。

 修一の視界の中で、何かが動いた。

 それは、噴水に溜まった水の揺らぎだった。雨滴が降り落ちる池の水面が、こちらに秋波を送るようにゆったりとうねっている。それはどう見ても風の仕業ではなく、水の中に、何か人間と同じくらいの大きさのものが蠢いていると感ぜられた。

 修一は、恐る恐るその噴水に近づいた。それはさざ波を立てながら、噴水の中を円を描くように泳いでいる。その正体を見きわめようと、薄暗い水中に目を凝らした。

 修一の目に飛び込んできたのは、想像だにしていなかった異様な光景だった。

 噴水の中にいたそれは、人間のような体を持っていた。

 水の中に揺らめく黒い髪の奥には、冴え渡るような真っ白い肌。肩から伸びる二本の腕はだらんと力なく投げ出されている。それはこちらに背を向けながら、水面のすぐ近くを回遊している。

 しかし、それは自分とは明らかに異なる生物だと、修一は一目で理解した。

 その生物の腰から下は人間のものではなく、大型の魚類のような立派な尾ひれがついていたのだ。

 ほるるるるるる……。

 それは、修一の目の前で、大きく物悲しい鳴き声を発した。

 修一は、これまで何度も耳にしていた声の主の正体を知った。

 それは人魚だった。雨の降りしきる公園の噴水で、人魚が鳴いているのだった。

 信じがたい光景を前に、修一はただ呆然とその場に立ち尽くした。

 人魚の声は引いては寄せる波の如く、修一の胸の内で幾度も繰り返している。

 これは幻覚なのだろうか。だとすると、この公園から何度も聞こえていたこの声すらも、他の人間の耳には届かない幻聴だったというのだろうか。

 修一はその手に持っていた傘を閉じた。

 人魚がこちら側へ泳いできた時、噴水の方へ一歩近づき、傘の先で人魚の首筋辺りを突っついてみた。

 それはぴたりと動きを止めて、身をくねらせたと思うと、水面から半分顔を出した状態でこちらに目を向けた。それは、男とも女ともつかない中性的な顔立ちをしていたが、美しいとも醜いとも思わなかった。人間と同じ顔を持っているにもかかわらず、鳥や魚に対するように、美醜の基準を持ち出す余地がないよう思われた。

 修一がその相貌に見入っていると、突然、人魚の腕が伸び、傘を掴んだ。このまま傘を振り回せば折れてしまいそうなほど細く、華奢と思われた腕だったが、そこには驚くべき膂力が込められていた。修一が驚いて引き戻そうとした傘は、まるで微動だにしなかったのだ。

 修一は驚いて、水面からわずかのところに浮いているその眼を見た。ぴたりと目が合った瞬間、そのふたつの目がにんまりと嗤った気がした。

 次の瞬間、体が強く引っ張られた。傘を手放すという咄嗟の判断を下す間もなく、修一は水の中に身を浸した。同時に、人魚の腕が修一の二の腕にしっかと絡みついた。抵抗する間もなく、修一の体は水の中へと引きずり込まれる。

 どぶん、と大きな音がした。あまりの突然の出来事に、大量の水を飲み込んでしまう。

 体勢を立て直し、慌てて立ち上がろうとするが、その足は底に届かず、空しく水を掻いただけだった。

 そんな馬鹿な……この噴水がそんなに深いわけがない……。

 修一は自分の身に起きている異常な現象に、理性と常識を持って抵抗しようとしたが、それらはことごとく打ち破られ、為すすべなく暗い深いところへと引っ張られていった。

 修一の体のすぐ近くで、人魚の尾ひれが力強くうねり、水を蹴っているのがわかった。

 いったいどれほどまで潜るのだろうか……。

 修一はうっすらと目を開き、思いも寄らぬ眼前の光景に愕然とした。

 そこに広がっていたのは、どこまで続いているともしれない、巨大な水中都市だった。自分が住んでいる深間坂のような小さな町など、すっぽりと入ってしまうのではないかと思うほどの……。

 ここは、海の中なのか。

 修一は、いまだ深く潜り続ける人魚に手を引かれながら、頭上の水面を振り返った。はるか彼方に、小さな円形の淡い光が浮かんでいた。おそらくは、あれが先ほどまでいた公園の噴水に繋がる出口なのだと理解した。だが、その出口はぐんぐんと遠ざかり、もはや目の届かない場所へと消え去ってしまいそうだった。

「おい」

 思わず修一は叫んだ。そして、同時に驚いた。

 水の中であるにもかかわらず、発声ができるのだ。そして、この時になってようやく自分が呼吸をしていることに気がつく。

「おい、人魚」

 状況がまるで掴めないまま、修一は叫んだ。

「ここはいったい何だ。俺をどこへ連れて行く気だ」

 その途端、人魚は動きを止めて、こちらを振り返った。

「面白いことをおっしゃるのですね」

 人魚は、ごく普通に喋った。ほるるるる……といういつもの鳴き声ではなく、人間の世界でもなかなかお目にかかれないような、丁寧な口調だった。

「望み通り、あなたを人魚にして差し上げるのです」

 望み通り……。

 修一はその言葉の意味がわからず、困惑した。

 人魚の言っていることだけではなく、今、自分の身に起きているすべてのことが、遠く理解の及ばないことだった。あらゆる疑問が心の中で巨大な渦を巻いて、自分の小さな口からはとても取り出せないと修一は思った。

「なぜ、俺を人魚にする?」

 結局、修一の口から漏れたのは、その一言だけだった。

 人魚は表情をぴくりとも変えず、修一の顔を真正面から見つめて言った。

「我々は個々の意思を何よりも尊重します。望む者を迎え入れるのは我々の使命ですから……」

 人魚は、子どもに対して諭すような口ぶりでそう言った。

 俺は人魚になることなど、望んでいない……。

 胸の裡に湧いて出たはずのその言葉は、修一の口から放たれることはなかった。

 足元からじわじわと這い上がってくる、この感覚はいったい何だというのか。単純な好奇心なのか、あるいは死ぬまで自分を囲い続け、逃れることなどできないと思っていた「人間」という外殻からの脱却に、心を躍らせているのだろうか、俺は……。

 修一は、広大無辺な水の世界の真ん中で、一匹の人魚と向かい合っているという途方もない現実に押しつぶされて、自分が自分でなくなってしまいそうな感覚に陥った。

「強制はしません」

 人魚は、静かに言い放った。

「元の世界に戻せとおっしゃるのなら、今すぐにでも引き返しましょう。あなたが住んでいた、あの深間坂という町に……」

 修一は、深間坂への出口を見上げた。それは修一たちの頭上、はるか遠くにあるように見えた。だが、今目の前にしている実際の距離以上に、元の世界から遠く離れた場所に来てしまったのだと思った。

 修一は、再び「人魚」と呼びかけようとして、止めた。仮に自分も人魚となったなら、その呼び名は通用しないのだと気がついたからだった。

「あなたの名前を教えてくれないか」

 修一が尋ねると、目の前の人魚はすこし口元を緩めて、自分の名を名乗った。

「燐音と申します。以後、お見知りおきを」

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