人魚問答 - 2
燐音という人魚に連れられて辿りついたのは、巨大な岩盤をくり抜いて造られた巨大な海底都市だった。
その頃には、修一の身体は大きく変質し、人魚化が進んでいた。
耳の下から首筋にかけて、鰓のような器官ができていた。同時に、肺が自らの役目がなくなったことを察知したのか、蓋をしめて休眠に入ってしまったような感覚があった。
また、これが見た目にも一番大きな変化であろうが、足の付け根の辺りからだんだんと右足と左足がくっつきはじめると同時に、足の指先が徐々にその長さを増し、その間に強靱な皮膜を張ることで、尾ひれを形成し始めていくのだった。
なぜこのような変化が自然に起こるのかと問うと、燐音はこともなげに応えた。
「水中での生活に必要だからです。赤ん坊が言葉を習得するのと同じことです」
燐音の説明は、その簡潔さ故に修一には受け入れがたかったが、実際に自分の身に起こっていることであるし、それ以前に、公園の噴水が広大な人魚の都市に繋がっているという現実離れした現実を目の当たりにしたばかりであったため、自分の常識は一度手放し、目の前の現実を諾々と受け入れることに決めた。
とはいえ、人魚としての充分な泳力は未だ得られておらず、修一は燐音に手を引かれながら、海底都市を案内された。燐音は手始めに、修一を「浄鱗堂」という場所に連れて行くと言った。
「いったい何をしにいくんです?」
口調を敬語に改めつつ、修一は尋ねた。
「まずは、伊織様へご挨拶に行かなければ……」
燐音は水の中を泳ぎながら応えた。
「浄鱗堂は、我々人魚にとって心の拠り所でもある非常に大切な場所です。そこに、伊織様が御座します。 伊織様は、そこからこの世界を見守っておられるのです……」
どうやら、伊織様というのがこの都市の中心的な存在であるらしかった。燐音の口ぶりからは、いわゆる王様か教祖か、この社会に階級というものがあるとするなら、その頂点に君臨する存在であると察せられた。
「実は、あなたを……修一をこちらの世界に呼んだのは、伊織様の御意志でもあるのですよ」
修一の隣で、燐音が言った。
やがて、浄鱗堂に辿りついた。
その前方にある広場から、その建物を見上げた。それは岩石をくり抜いて造られた御堂だった。石造りの建物というより、海に沈んだ石窟という方が正確な気がした。
「では、行きましょう」
燐音に先導され、岸壁にぽっかりと空いた穴をくぐった。そこが御堂の入り口であるらしい。
そこは深い洞の中だったが、中は十分な明るさがあった。どういう理由かと思い周囲をみやると、岸壁が白々とした淡い光を放っている。修一の推測に過ぎないが、おそらくはその岩の表面に、発光する性質を持つ微生物を棲まわせ、灯りとして利用しているものと思われた。
仄明るい水中洞窟を進んだ先に、開けた場所に出た。
「伊織様……」
燐音がその名を呟き、見上げた先の光景を見て、修一は言葉を失った。
目の前には、二十メートル……いや、三十メートルはあろうかという高さの岩の壁がそそり立っていた。ここが御堂の中であると言うことを忘れてしまいそうになるほど、天井が遙か遠くにある。
なぜ、これほどまでの高さが必要なのか……それを燐音に尋ねる必要はなかった。
修一たちの眼前に姿を現した、伊織様なる存在の大きさたるや……。
戦艦を想起させるほどのその巨躯は、その背を岸壁に押しつけるようにして、直立したまま沈黙している。
これは……単純な睡眠状態にあるのではない。閉じられたその目が開かれることは決してないであろうと、ひと目で理解できた。
「伊織様……只今戻りました」
燐音は沈黙したままの伊織様の姿を見上げ、語りかける。
しかし、修一が予想した通り、伊織様からの返答はなかった。修一の目には、それは人魚の形をした巨大な石の像としか映らなかったのだ。それにもかかわらず、この威容。見上げるような大きさから受ける威圧感だけではない。
これはいったい何だろう……。
ふと、幼い頃に訪れた、とある仏教寺院で見た光景が、修一の脳裏を過ぎり、修一は自然と頭を垂れていた。
燐音が伊織様に向けて報告するのを、修一は横で黙って聞いていた。
ひと通りの報告を終えると、燐音と修一は浄鱗堂を後にした。
その頃にはすでに、修一の身体は人魚への変態を終えていたので、ふたりは肩を並べて洞の中を泳いだ。とはいえ、燐音の方は、人魚の身体を手に入れたばかりの修一にあわせて速度を抑えていたのだが……。
その後、燐音の案内で、修一に住処として与えられた場所へと移動した。
その道中、多くの人魚の姿を目にした。近くを通りかかった人魚のうちの何匹かは、こちらの姿を見るとおやという顔を見せたものの、それほど気にする様子もなく泳ぎ去っていった。
彼らというべきか彼女らというべきか、とにかくその人魚たちと時折目が合った。そういう時に、自分はどのように振る舞うべきかとすこしだけ悩んだ。しかし、新顔の人魚にふさわしい振る舞いというものがどういったものかもわからなかったので、会釈のように目を軽く伏せるのみだった。しかしそれも、相手にとっては目線をそらしただけのように見えただろう。
「さっきの、伊織様のことなんですが……」
道すがら、先を泳ぐ燐音の尾ひれに向かって修一が問い掛けた。
「不躾な質問であれば申し訳ありません。伊織様は、生きておられるのですか?」
燐音はこちらを振り返り、首を振った。
「生きている、というのをどのように定義するかにもよりますが……あなたの疑問に率直にお答えするなら、『いいえ』です。あなたが目にした通り、伊織様の御身体はすでに生命活動を終え、石化しています。今は守り神として、あの浄鱗堂から我々の住む世界を見守っておられるのです」
「しかし、燐音さんはさっき、伊織様の御意志でわたしをこちらの世界へ連れてきたとおっしゃった。それはどういうことです?」
「伊織様から直接、あなたを連れてくるような指示を頂いたわけではありません。人魚の世界で生きることを密かに渇望している人間をできるだけこちらに呼び寄せるようにと、伊織様が遺言を残されたのです」
「遺言……」
「ええ。伊織様が遷化されたのは、わたしがこちらに来るよりもずっと前のことです。わたしも直接お話を聞いたことはありません。ただ、伊織様が残された教えを守り、実践しているに過ぎません」
その言葉を聞いて、修一はあの時のやり取りを思い出していた。
公園の噴水に引きずり込まれた後、燐音が言った言葉……。
『望み通り、あなたを人魚にして差し上げるのです』
『我々は個々の意思を何よりも尊重します。望む者を迎え入れるのは我々の使命ですから……』
「わたしが人魚になりたがっていると、なぜそう思ったのです?」
修一は、あの時に尋ね損ねたことを燐音にぶつけた。すると燐音は、くすりと笑って応えた。
「実は、わたしがあなたを選んだわけではないのです。あなたがあの公園の噴水に近寄ったのは、わたしの声が聞こえたからでしょう?」
修一は、あの公園を通りかかる度に耳にしたあの鳴き声を思い出す。
ほるるるるるる……。
「ええ……そうです。その通りですよ」
修一は頷いた。
「最初は、フクロウか何かが鳴いているのだと思っていたんです。だから、特に気にも留めていなかったんだ。でも、あの日は何かが違った。あの声が……あなたの声が、わたしを呼んでいるような気がしたんです。だから……」
「わたしは、あなただけに呼びかけていたのではありません。あなたの町だけではなく、ありとあらゆる世界に向けてあの声を発していたのです。あの時わたしが発していたのは、我知らぬうちにこちらの世界に惹かれ、焦がれている者……あるいは、目の前の世界からの逃避を望んでいる者にだけ聞こえる、特殊な鳴き声なのです。ほら、こんな風に……」
そう言って、燐音はぱくっと口を開けて、遠くに向かって例の声を出してみせた。
ほるるるるる……ほるるるるる……。
その音量はそれほど大きなものではなかったが、水の中を突き抜け、はるか彼方まで伝播していくように思われた。
「……無論、わたしがこの呼びかけを始めてから数年の間で、修一と同じように人魚の世界へとその身を移した人間はたくさんいます。しかし、呼びかけに応じる前からわたしの声が聞こえていたということは、やはり修一も、心のどこかでこちらの世界を望んでいたのでしょう」
呼びかけに応じてもらえてよかった、と燐音はにこやかに言ったが、修一は返答に困り、ただつられるように苦笑いをしただけだった。
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