人魚問答 - 3

 その日から、修一の人魚としての生活が始まった。

 これまでの社会とはまったく異なる世界へ帰属し、当然、修一の生活環は一変した。

 とはいえ、この社会に属するための手続きや、何か新たな職を探したりといったことは必要なく、ただ生きるというその一点のみを目的とした生活であった。

 こうして、以前まで自分が身を置いていた社会から離れてみると、人間がいかに煩雑で窮屈な、せせこましい取り決めの中で生きていたのかを理解できた。

 この世に生まれて落ちて二十数年、まったく気がつかなかったことだ。この人魚の体を得ることで、ようやく知ることができたのだ……生きるということは、かくも自由であったのかと。

 多種多様な人間が生きる社会を、十把一絡げに悪だと断じるつもりはない。だが、やはりあそこは規則、規範、常識といったものにがんじがらめであった。互いが互いを監視し合い、本来は存在するはずのない基準線から外れた者は間引かれる。それが社会のため、ひいては人間全体のためなのだと、皆が本気でそう信じ込んでいたのだ。

 俺は人魚の生活など望んでいない……すこし前までの自分は、本心からそう思っていた。思い返せば、その事実にぞっとする。

 自分でも気がつかぬ間に……いや、おそらくは人間として生まれ落ちたときから、それは始まっていたのだ。

 社会帰属のための教育、人間という生物への矯正が……。


 人魚になってからの修一の生活は、ひどく平坦なものであったが、そこに不満などなかった。

 起きている間は餌を求めて動き回り、ついでに広大な海底都市を探索する。疲れて眠くなったら寝床へ帰る。ただ、それだけである。

 それに、眠くなったらその辺で眠ればよいのである。別に、わざわざ自分の寝床に帰る必要はない。近くにある他の人魚の寝床を無断で借りたところで、空き巣だ他所者だと文句を言う者はいない。

 本来、この世界は誰のものでも無いのだ。人間の好きな価値や権利といったものは、経済や法律の下で効力を持つものであり、この人魚の世界では通用しない。自分の財産と呼べるものは、自分の身体と、それに宿る魂だけなのだから。

 その日、修一は餌を求めてすこし離れた海域までひとりで泳いでいった。

 すっかり泳ぎにも慣れ、尾ひれで水を捕らえ、それを蹴りつけて速度に勢いを乗せるイメージを身体が覚えている。

 修一は時折、ロケットのように水の中を驀進しながら、身体をぐるぐると回転させることがあった。平衡感覚が乱れ、天も地もわからなくなる、あの感覚が癖になっていたのだ。それは修一が人魚になって獲得した悪癖であった。

 この日も同じように、広大無辺な海の中を泳いでいると、ある一匹の人魚の姿が目に入った。

 自分もそうであるように、何も無い海の中を一匹で泳いでいる人魚など、珍しくもない。むしろ、単独行動をとる人魚の方が多数派なのである。

 しかし、修一はその人魚のことが気に掛かった。その人魚は、重そうな岩石を両腕に抱え、ふらふらとどこかへ運んでいたのである。

 おかしな奴だ……あんな重い岩なんて、何に使うつもりなのだろうか。

 そんなことを思いながら、修一はそのままそばを泳いでいく。すると、相手もこちらをちらりと振り返り、一瞬、目線が交錯する。しかし、修一は構わずそのまま通り過ぎ、目的の餌場を目指そうとした。

 しばらくそのまま進んだが、その後も、どうしてもその人魚のことが気に掛かった。

 あの岩を、いったい何に使うつもりなのだろう。たったひとりで、どこへ運ぶつもりなんだろう……。

 修一は、ついに泳ぎをとめた。振り返ると、まだ遠方にその姿が見えている。修一は引き返して、その人魚のもとへ向かった。

「あの……つかぬ事をお伺いしますが……」

 修一が人魚の背中に向かって話しかけると、彼はゆっくりと振り返った。

「いったいなぜ、そんなものを運んでいるんです? よければお手伝いしますが」

 修一がそう言うと、人魚は修一の顔を見つめ、自分の抱えた岩に目を落とした。どうやら、修一の申し出を受けるべきかどうか、迷っているようだった。

「失礼、詮索をするつもりはなかったのです。ただ、ずいぶんと大変そうだと思ったものですから……お邪魔でしたら去ります」

 そう言って、修一は両手を挙げた。実際、相手が言いたくないことなのであれば、無理に聞き出すようなつもりはなかった。放っておいてほしいというならば、修一は望み通りここから立ち去るつもりだったのだ。

 ただ、その人魚は思わぬことを口にした。

「……誰にも言わないと約束していただけるのなら……この岩のことをお教えしますよ」

 人魚は、口の端に不敵な笑みを浮かべて、そう言った。

「気になるのでしょう? わたしが持っている、この岩のことが……」

 修一は困惑した。その口ぶりから察するに、この人魚はどうやら重大な秘め事を抱えていたらしい。そして、誰にも言うなと念を押しておきながらも、修一に対してはその秘密を話したくて仕方がないように見えた。

 修一自身はどちらでもよかったのだが、運ぶのも苦労するほどの重い岩を抱えながらの立ち話……ならぬ立ち泳ぎ話は大変であろうと修一は思った。実際、目の前の人魚は、岩を手放すまいと細い腕で頑張っている。

 もし、その手を放してしまえば、岩は海底まで真っ逆さまに落ちていってしまうだろう。

 その様子を見るに見かねて、修一は「とにかく、手伝いますよ」と言った。

「どこまで運ぶつもりなのかは知りませんが、交代に運べばよいでしょう」


 その人魚は、自らの名を香澄と名乗った。

「わたしは、××という町から来たのです……」

 代わりに岩を抱えて運ぶ修一に向かって、香澄は話した。

「おそらく、ここに来た経緯はあなたも同じだと思いますが……突然、妙な鳴き声が聞こえたんです」

「ほるるるる、というアレですね」

 修一は思った以上の岩の重さに顔をしかめながら、相槌を打つ。

「ええ、ええ。そうです……わたしは、学校のプールでそれを聞いたんです。ここに来る前は中学校の用務員をしておりましてね。声を辿っている内に、誰もいないプールに辿りつきました。そこに、人魚の姿が……」

 やはりというべきか、香澄の語る内容は修一の体験したものとおおむね一緒だった。とにかく、ここから発せられた人魚の鳴き声は、あらゆる町の水の溜まった場所に通じるらしい。

 せっかく人魚の世界に馴染み始めたと思ったのに、人間時代の身の上話を聞かされて、修一は正直うんざりしていた。別に、香澄が大事に運んでいたこの岩が何なのかもさほど興味があるわけではないし、放っておけばよかったかと思い始めていた。

「……ああ、すみません。わたしばっかり話してしまって。重いでしょう、それ。そろそろ交代しましょう」

 その言葉に甘えて、修一は香澄に岩を手渡した。

「それで、結局この岩は何なんです? さっきはずいぶんと持って回った言い方をしていましたが……」

 修一が水を向けると、香澄はまたもにやりと笑って言った。

「口で説明するよりも、見てもらった方が早いでしょう。そこへ着けばわかりますよ」

 香澄の誘導で、二匹はとある大きな岩の中に入っていった。それはまるで、浄鱗堂を思わせるような構造物だった。

「ここへ来たとき、浄鱗堂という場所に案内されたでしょう」

 修一の心の内を見透かしたように、香澄が言った。

「それと似たような御堂は、様々な所に点在しています。いわゆる聖域と呼ばれている場所ですな。浄鱗堂がこの世界の中心的な場所だと教わりましたが、実際は、他にも同じような所はいたるところに存在していると、わたしは睨んでいます……ふう、疲れた」

 香澄は、その手に持っていた岩を、洞の床に下ろした。

「……ということは、伊織様のような存在が、複数存在するということでしょうか」

「ええ、何も不思議なことではないでしょう。信仰の対象がそれぞれ異なることなんて……結局、人間と変わらんのですよ」

 香澄のその言葉には、人魚や人間に対する若干の諧謔めいた感情が垣間見えた気がした。

「それで、あなたが運んでいたこの岩は、その話に関係してくるのでしょうか」

「ええ、おそらくは大いにね……ほら、見てください」

 香澄が指さした先に目をやった。そこには高い壁があり、そこに巨大な石の像がもたれかかるようにたっている。それは、まさに浄鱗堂を思い起こさせる光景だった。

 しかし、浄鱗堂と異なるのはその石像の形だ。元は巨大な人魚の身体の形をしていたのだろうと推察できるが、そのあちこちが崩壊し、欠損している。左腕の肘から先がないことに加え、頭部の右半分も削り取られたようになくなっているのが痛々しい。

「浄鱗堂の伊織様と同じく、この方も守り神なのでしょうか」

「おそらくそうでしょう。でも見てくださいよ、このお姿を。酷いものでしょう」

香澄は目を細めて、傷ついた守り神を眺めていた。

「これはきっと、人魚の手によるものです。それぞれの守り神の信者同士の諍いにより、敵対する人魚によって傷つけられたのですよ」

 香澄のその言葉に、修一は心底驚いた。諍い、敵対。それは人間社会に跋扈し、嫌というほど目にしてきものだ。だが、この人魚の世界にはまったく無縁の言葉のはずである。

「そんな馬鹿な……単なる時間経過による劣化でしょう。そもそもこんな巨大な石の塊を、どうやって壊したと……」

「人魚たちがいかにしてこんな大規模な破壊を行ったか、その術はわかりません。ですが、これが意図的なものであることは明らかです。単純な時間経過による劣化だとしたら、こんなに局地的な破損は起こりえないですし、それに……」

 香澄はそこで、自分が運んできた岩を指さした。

「今、運んできたこの岩は、この守り神の頭部の一部です。お分かりですか? 自然に崩れ落ちた岩が、あんなに遠くまで運ばれることなんて考えられないのです。この守り神の身体は、何者かによって意図的に破壊され、その身体の一部は持ち去られた。これは冒涜以外の何物でもありませんよ……」

 憤る香澄の声が、だんだんと遠くなる。

 信者同士の諍い。守り神への冒涜。まさか、そんな人間の業を煮詰めたような行為を働くなんて……。おかしい。そんなことは間違っている。人魚は、あらゆるものから解き放たれた存在のはずである。人魚は、そんなものに囚われてはならないのだ……。

 その時、頭の中で、泡がぱちんと弾けるような感覚があった。

 修一は気がついてしまったのだ。

「人魚は自由でなければならない」という、自らの頭が編み出した二律背反に。

 人魚とはあらゆる物事から解放されている。規則や規範と言った、人間が後生大事に抱えているようなものとも無縁である。人魚は持たざる者なのだ。故に自由……そしてそれ故に、人間らしい感情をもってはいけない。人魚は、怒りと無縁のはずである。破壊衝動も、ひがみや妬みや敵愾心も。あらゆる感情を排さねばならない。なぜなら、人魚は自由の象徴であるべきなのだから……。


「修一さん……聞こえていますか、修一さん……」

 どこかで、香澄の音が聞こえる。必死に、こちらに呼びかけている。

 大丈夫ですか、気を確かに持ってください。あなたは人魚なのです。人間の世界から脱却し、人魚としての祝福を受けた存在なのです……。

 修一の頭の中で、誰の者ともしれない声が反響している。

 それは、もしかすると燐音の声なのかもしれなかった。

 あるいは、伊織様か……それとも、この御堂に眠る欠損した身体を持った名も知らぬ守り神だろうか。

 修一は、目の前がどんどんと闇に染まっていくのを感じた。身体を回転させて泳ぎ回った時のような、目眩く混沌が、あらゆるところから修一の身に押し寄せてきていた。

 やがて、自分の身体が人間に戻っていくのを感じた。

 尾ひれに力が入らなくなり、鱗がみるみるうちに剥落したかと思うと、ふたつに分かれてひ弱な二本の脚が現れる。首筋に走っていた鰓はゆっくりと閉じていき、胸の奥で死んでいた肺が膨れ上がる。

 俺は、人間に戻るのか。

 俺は、人魚にはふさわしくなかったということか。

 もう、俺の耳にはあの鳴き声は届かないのか。

 試しにもう一度鳴いてみてくれ、燐音さん。そうすればはっきりするだろうから。

 頼む、俺の目の前で、もう一度だけ……。


 修一のその願いは叶うことなく、水の中であらゆるものが崩れ去る音だけが耳の奥で反響し、ついには沈黙した。

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