人魚問答 - 4

 ぱちんと何かが弾けるような聞こえた気がして、修一は目を覚ました。

 最初に目に入ったのは、ぼこぼこと分裂するようにその数を増やしながら、天を目指して昇っていく水の中の泡沫だった。

 ……いや、違う。そうではない。

 意識がゆっくりと覚醒し、目の前に広がる光景をはっきりと捉えた。

 水の中にたゆたう泡だと見えたものは、ふわふわと空中を浮遊するシャボン玉の群れだった。

 そのうちのひとつが、何にぶつかったわけでもなく、その儚い命を散らすかのようにぱちんと割れて消えた。

 ぱちん、ぱちん、ぱちん……。

 見れば、ひとりの少年が噴水の縁に腰かけ、シャボン玉を吹いて飛ばしている。少年の口元からまた無数のシャボン玉が生まれ、春の陽気の中に舞い上がっていく。


 修一は、深間坂中央公園の広場のベンチに、ひとり腰かけていた。

 状況が掴めず、周囲を見渡した。静かな公園の緑の中で、人々が長閑な憩いの時を過ごしている。

 うたた寝をしていたのか。

 そして、どうやら……長い夢を見ていたらしい。それも、ずいぶんと突飛で、それでいて生々しい夢……。

 修一は思わず、自分の足元を見下ろした。そこにはたしかに、自分の身体を支えて歩くための立派な両脚がついている。

 ズボンの尻のポケットからハンカチをまさぐり出して、額にじっとりと浮かんだ脂汗を拭いた。

 俺は、いったいいつからここで眠っていたのか。この公園に来るまでの記憶がない。覚えているのは、雨の降る夕刻……人魚の声に誘い出されて、ここの噴水にふらりと足を向けた時のことだけである。

 その時、目の前で、噴水の水がぱっと吹き上がった。シャボン玉に夢中だった少年が、驚いたようにその場から飛び退いた。

 修一は、自分の両脚がきちんと機能するか確かめるように、おそるおそるベンチから立ち上がった。そして、水を空中へと吹き散らしている目の前の噴水に近づき、中を覗いてみる。しかしそこは、せいぜい修一の膝くらいの水深しかない水溜まりで、深く暗い海の底に繋がっているはずもなかった。

 少年が、怪訝な顔でこちらを見ているのを背中で感じ取り、修一は身を引いた。


 この春の陽気のせいだろうか……。

 自分のアパートへと戻る途中、ベンチの上で見ていた長い夢を反芻していた。

 今になって思えば、夢に違いないのだ。しかし夢とは恐ろしいものだ。あれほど現実離れした事態をほとんど疑いを持たず受け入れ、あまつさえその状況に悦びさえ感じていたのだから。

 人魚としての生活をどれくらい続けていただろうか。あの時は昼も夜も溶け合って時間という概念すら消え失せていたので、ぼんやりとではあるが、一、二週間程度の期間、人魚としての生活を続けていたのではないか。その間、貨幣などというものに頼ることなく、自分が必要な時に必要な分だけの貝や魚を採り、それを生のまま食していたのだ。おそらく、消化器官や顎なども人魚らしく変化していたのだと思われる。それも、すっかり人間の形に戻ってしまったが……。

 いや、そうではない。あれはすべて夢の中の出来事だったのだ。

 修一は慌てて自分に言い聞かせるが、すぐに頭の中に靄がかかったような、すっきりとしない気分に苛まれる。困ったことに、あの人魚の世界で過ごした時間は、修一の頭の中に一生消えることのない爪痕を残してしまったようだ。

 夢と現実の境が曖昧になっているせいか、あの人魚たちの楽園が、この町と地続きの場所に存在している気がしてならないのだ。実のところ……やはり修一は、あれが本当に夢の中だけの世界だと断じることができなかった。

 伊織様という守り神を信じる燐音という人魚。人魚たちの争いが水面下で行われていることを指摘した香澄。

 あの二匹は、いまもあの世界で、人魚としての営みを続けているのではないか……。修一にはそう思えてならなかった。


 とにもかくにも、修一は人間の社会への復帰を果たした。

 とはいえ、修一以外の人間にとっては、彼が人間を辞めて人魚として生活していたことなど知る由もない。修一が噴水の中に引きずり込まれた時から、うららかな春の日差しの中で目を覚ますまで、こちらの世界では半日ほどしか経過していなかったのだ。

 修一は自らの身に起きたことを周囲の誰にも他言することなく、これまで通りの人間として生活するように努めた。

 修一の勤める文房具メーカーは、ちょうど繁忙期も終わりが見えてきて、慌ただしかった雰囲気も落ち着いてきた頃合いであった。

 だが、毎年のことながら、いつもギリギリのタイミングで記念品向けの商品の注文が入ったりするのである。名入りの手帳やボールペンなどは納品に多少の時間が必要であり、その旨を顧客に伝えると、大抵は「もっと早くならないの? こっちは急ぎなんだけど」といった小言が返ってくる。おまけに小ロットで、一営業社員としては正直面倒に感じてしまう。

「もうすこし余裕を持って発注して欲しいよねェ。毎年のことなんだからさあ……」

 上司がぶつくさ言う隣で、修一も毎年しているような追従笑いをした。

 営業先とのやり取りを終え、書類を整理して帰ろうとしていた時だった。

「疋田君、この後すこし時間あるかい」

 珍しく、岸辺というその上司が修一を飲みに誘ってきたのだ。

 特段嬉しい誘いでもないが、断る理由もなかった。事務所を出たふたりは、肩を並べて近くの「喰らい屋」という居酒屋の暖簾をくぐった。

 仕事や岸辺の家庭の話にひと通り付きあったが、自分から誘った割には、岸辺はなんだか疲れたような表情を常に浮かべていた。会話に乗り気ではないというより、他にもっと話したいことがあるのに、なかなかそれを言い出せないでいるらしかった。

 ふと会話が途切れた時、岸辺はなんだか口をもごもごとさせながら宙を眺めた。おそらくは、今日自分を飲みに誘った理由に関係あるのだろうと修一は思い、「どうかしましたか」と水を向けてみた。

「いや、なに……」

 岸辺はそれでもやはり言いにくそうに、枝豆を手で弄びながら言った。

「最近、わたしの周りで変なことがあってね。いや、たぶん気のせいというか、幻聴のようなものだと思うんだが……時々、どこからか奇妙な音が聞こえるんだ」

 その言葉を聞いて、修一は料理に伸ばしかけた箸が止まった。

「それはどんな音なんです」

 修一は目を伏せたまま尋ねた。しかし、岸辺がどう答えるか、うすうす修一はわかっていた。

「それがね、鳥の鳴き声みたいなんだ。フクロウか鳩かわからないんだけど、ほるるるるるって、変な声で鳴くんだよ。耳にするようになったのはここ一ヶ月くらいかなあ。さほど気にも留めていなかったんだが、昨日の晩、家族でご飯を食べている時に聞こえてきたもんだから、何の気なしに言ったんだ。『いったい、何の鳥が鳴いてるんだろうね』って……」

 岸辺はテーブルの隅を見つめながら、訥々と語り続けた。

「そしたら、妻も娘も変な顔でわたしの顔を見るんだ。そして、妻がわたしに言った。『何言ってるの? 鳥の鳴き声なんて聞こえないわよ』ってね。わたしは、からかわれているのだと思った。まさかこの鳴き声も、家族が仕込んだいたずらの音声なのではないかとも疑ったが、そんなはずはない。わたしは、今までいろんな場所であの鳴き声を耳にしてきたんだ。通勤途中、家のベッドの中、勤務中にも……そんなに手の込んだ仕込みをする理由がないからな。しかし、それならふたりの言動がますます理解できない。だからわたしは窓を開けて、思わず言ってやったんだ。『なぜ聞こえないふりをするんだ? こんなに近くで鳴いているじゃないか』と……」

 ふと修一は目をあげて、対面の席に座る上司の顔を盗み見た。岸辺は、当時の状況をまざまざと思い出したのか、うつろな表情を浮かべていた。

「家族がこちらに向ける目を見て、わたしは『失敗した』と思った。妻も子も、わたしを恐れるような目で見ていたんだ。ふたりの反応はいたずらや冗談などではなく、わたしの言っていることが理解できず、心底驚き、恐れ、哀れんでいたんだ……」

 岸辺は、目の前でがっくりと肩を落とした。

 テーブルの間に沈黙が下りた。

 無論、岸辺が耳にしたその鳴き声の正体を、修一は知っていた。

 修一の中で、葛藤が生まれた。悩める上司に対し、自分の体験談を詳らかに話し、正直に教えて差し上げるべきか? その鳴き声は人魚のものです。伊織様という人魚の世界の守り神から遣わされた人魚が、迷える人間をそちらの世界へと誘っているのです……と。

 馬鹿げている。あれは夢の話だったはずだ。またも、夢と現実の境が曖昧になり始めている。境界の向こう側から、人魚の鳴き声が漏れ聞こえてくる……。

 修一は、沈黙しうなだれている岸辺に向かって尋ねた。

「……そのことをなぜ、わたしに話すのですか」

 すると岸辺は、ゆっくりと首をもたげてこちらの目を見ていった。

「覚えていないかね……君は以前、わたしに対して同じようなことを話していたんだよ。昼休憩の間の、ほんのささいな会話だったからすっかり忘れていたが、昨晩ベッドの中で思い出したんだ。そういえば、同じような話を疋田君から聞いたことがある……と」

 それを聞いて、修一にも記憶が蘇った。

 確かにそうだ。修一自身、そのそれを鳥の鳴き声だと思い込んでいた頃に、岸辺に対してぽろりとその事を漏らしていたのだ。

『……僕のアパートの公園に、フクロウか何かが棲みついているみたいなんです……いえ、姿を見たわけではないんですが、何やら聞いたことのないような変な鳴き方なんですよ……ほるるるるる、という感じの……誰かが飼っていたペットが逃げ出して、棲みついてしまったんだと思っているんですがね……まあ、家まで聞こえてくるわけではないので構わないのですが、なにせあの公園の前を通りかかると、しょっちゅう聞こえてくるもんですからね……』

 自分は、たしかにそんなことを話した気がする。何気ない世間話のつもりだったし、岸辺の方も『ふうん、そうなの』と気のない相槌を返すばかりだったように思う。それがこれほど重要な関心事になるとは、露とも思っていなかった。

「なあ、疋田君。あの鳴き声はいったい何なのだろう。昨晩から、あの声はひょっとしてわたしを手招きしているんじゃないかと思えてきたんだ。思いきって、鳴き声の正体を探るべきか、それとも知らぬ存ぜぬを突き通すべきか……わたしには自分がどうするべきかわからない……なあ、君は何か知っているんじゃないのか? あの鳴き声の正体について……」

 岸辺は、消え入るような声で言って、やがて沈黙した。

 仕事の疲れと心労に加え、酒が入ったこともあり、岸辺は眠ってしまったようだ。

 岸辺が眠りに落ちる直前に言い残したその言葉に対してどのように応えるべきか、修一にはわからなかった。

 ただ、頭の中には、春雨に煙る公園で見た燐音の姿が浮かび、彼の発するあの鳴き声がいつまでも響いていた。

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