人魚問答 - 5

 岸辺は、しばらくして目を覚ました。自分があの鳴き声のことについて話したかどうか、記憶はあやふやになっていたらしく、修一はそのことを曖昧に誤魔化して岸辺をタクシーに乗せた。

「それじゃあ、失礼します。僕のアパートはすぐ近くなので、酔い覚ましに歩いて帰りますよ……」

 そう言って走り去るタクシーを見送った後、居酒屋から歩いてアパートを目指した。歩いて酔いを覚ましつつ、ひとりで考え事をしたかった。そして、あの公園の前を通って、もう一度確かめるつもりだったのだ。

 自分以外の人間にも、あの鳴き声は届いていた……。だとすると、あれはやはり自分の空想の産物などではなかったのか。

 もしかすると、自分や岸辺以外にも、多くの人間の耳にあの鳴き声は届いているのではないか。燐音の言葉を信じるとするなら、人魚としての生活を望む者にのみ聞こえる声だということだったが……この世の中に、人魚になり得る人間は、思いのほか多いのではないだろうか。

 修一は想像してみた。皆が自らの立場、役割、責任、職務といったものを放棄し、人魚の世界へと足を踏み入れていく光景を……。

 己を縛る重力からの解放を望み、母なる海へと還る。それは、人間のみならず、あらゆる陸上生物が密かに抱く欲望なのではないだろうか。

 もし、そうだとしたら、人間はいずれこの世から消えてなくなってしまうのかもしれない。この町も当然、例外ではない。深間坂から人の姿がなくなってしまう、そんなことが起こりうるのかもしれない……。


 すっかり夜の闇に沈んだ住宅地の中を歩いていると、やがて件の深間坂中央公園が見えてきた。

 しかし、あの鳴き声は聞こえてこない。無人の公園はすっかり静まりかえっている。

 もう、自分には燐音の声は届くことはないのだろうか。他の人々が人魚に身をやつし、この世界を去っていくなかで、自分は数少ない人間としてこの町に取り残されてしまうのだろうか。

 そんなことを思いながら、修一は公園内に足を踏み入れた。街灯がぽつりぽつりと照らし出す石畳の小道を歩いていく。その先にあの噴水が見える。

ふと、修一の足が止まった。人気の全くないと思われたその広場に、小さな影がぽつんと佇んでいる。

 それはひとりの少年だった。噴水の周囲に設置されたベンチに腰かけて、手の中にある何かを忙しなく動かしている。よくよく目を凝らしてみると、それはルービックキューブのようだった。

 子どもがなぜ、こんな時間に、こんな場所で……?

 修一の目線に気がついたのか、少年は顔をあげた。街灯の光を浴びて、それぞれの姿が暗闇のなかに浮かんでいる。そのふたりの視線が空中でぶつかりあい、ぱちんと泡の弾けるような音が聞こえた気がした。

 ふと、修一の頭の中の記憶が蘇る。人魚の世界からこちらへ引きずり戻され、ベンチの上で目を覚ました時。目の前で弾けたシャボン玉を吹いていた、あの時の少年ではないか?

 修一は恐る恐る彼に近づいた。

「こんばんは」

 口火を切ったのは、少年の方だった。彼は膝の上にルービックキューブを置くと、すこし右にずれて、ベンチのスペースを空けた。

「立ち話もなんですし、こちらへどうぞ」

 少年に促されるまま、修一はおずおずと彼の隣に座った。

「あなたがこちらの世界に戻ってから、もう一ヶ月ほどが経ちますかね……どうです、そろそろ人魚としての生活が恋しくなってきたんじゃないですか」

 少年はこともなげにそんなことを言ってのけたので、修一は思わず彼の横顔を見た。

「君は……俺がここに戻ってきた時、公園にいた子だよな。君は何を知っている? 俺が見たあの世界は何だ、あれは現実だったのか?」

少年は手元のルービックキューブをくるくると弄びながら、淡々と応えた。

「現実というものをどのように定義するかによりますが、率直にお答えするなら『いいえ』です」

「ということは、俺はやはり夢を見ていたのか」

 少年は手をとめることなく、くすりと笑った。

「それは、先と同じ質問ですよ。それらふたつは表裏一体です。あなたが疑問に思っているのはつまりこういうことです。この世界は存在しているのか、と」

「揶揄わないでくれ」

修一は体裁などに構わず、隣の子どもに向かって叫んだ。

「あんなに生々しい夢があってたまるものか。俺はたしかに、人魚としての生を得ていた。俺は水中で呼吸をして、水の中を弾丸のように泳ぎまわっていたんだ……自由に……そう、こんな町なんかよりも、もっと広い世界を……」

「やはり戻りたいと思っているのですね、人魚の世界に」

「それが、わからないんだ」

 修一は肩を落とした。

「たとえあの世界が現実で……いや、この際、夢の世界であったとしても、もう一度あの場所に誘われたならば、きっと俺は喜んでいくだろう。だが……それは本当に俺にとっての幸せなのか? 俺は、人魚になりさえすれば、幸せを獲得できると思い込んでいるんじゃないか? 人魚という存在を人魚と言う型にはめて考えていたんじゃないか……それは結局、人間として生きることと何が違うというのだろう……」

 その時、公園の中を冷たい風が吹き渡った。その風は木々の葉を散らし、噴水の水面をなめるようにしてどこか遠くへと向かっていった。

 修一の嘆きは、その夜風にのって、町の果てを越えた夜の向こうへと、どこまでも運ばれていくようであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る