風の塔に眠る夢 - 9

 麻美は、四人に連れられて間多良山の東口までやってきた。

 そこにはだいぶ年季の入った寂れた看板が立っており、「間多良山ハイキングマップ」と書かれている。

 その看板によれば、この東口と西口を繋ぐ遊歩道が、この山の中をうねるようにして通っているらしい。そして、その遊歩道のちょうど中心付近に、先ほど写真で見た拝み岩のイラストが描かれている。

 てっつんがそれを指して、麻美に言った。

「拝み岩はこの辺りだ。ここから歩いて二十分ってところかな」

「本当に行くんですか」

 リョータが念を押すように言った。

「さっきも言いましたが、深入りはしない方が……」

「しつけえよ、リョータ。別に鬼退治にいくわけじゃねえんだから」

 てっつんが心配性なリョータに突っ込んだ。

「あの時みたいに夜遅くじゃないし、仙人もいねえしな……前みたいなことは起こらねえだろ」

 こそこそとリョータの耳元で呟いたのが聞こえたが、仙人と言うのが何を意味するのか、麻美にはわからなかった。


 麻美はあらためて四人に礼を言い、町へと戻っていく彼らの後ろ姿に向かって手を振った。

「さて、と……」

 腕時計に目を落とすと、午後三時を回ったところだった。そこまで急ぐ必要はないだろうが、のんびりと散策していて陽が落ちてしまうと厄介だ。懐中電灯を持ってきているとはいえ、真っ暗な山の中を歩き回る羽目になるのはごめんだった。

 山道と覚悟していたが、遊歩道というだけあって、思いのほか歩きやすい道だった。しっかりと舗装されているし、坂もそれほど急ではない。先ほどの看板にもあった通り、ハイキングコースとしてはいい場所である。

 麻美はひと時、自分の目的も忘れかけて森林浴を楽しんでいた。

 ふと、麻美の中に奇妙な感情がわき起こった。

 もし、わたしがあの夢を見ていなければ。

 もし、あの日会社の後輩の飲みの誘いに乗って、あの古本市に寄っていなければ。

 そして、あの本が目の留まっていなければ。

 きっと、わたしは一生、この町を訪れることはなかっただろう。こんな山の穏やかな静寂の中を、ひとりで歩くことなどなかったのだろう……。

 多くの偶然が重なりあい、わたしはこの町に呼び寄せられたのだ。こういう巡り合わせを、俗に運命と呼ぶのだろうか。

 麻美は、そんなことを考えながら歩を進めていった。


 やがて、傾斜は緩やかになり平坦な道のりになった。道幅も開けてだいぶ歩きやすくなる。

 さらに先に進むと、右手に細い脇道が現れた。この先に、例の拝み岩があるはずだった。てっつんが言った通り、看板のあった場所から歩き始めておよそ二十分ほどの道のりだった。

 遊歩道を外れて脇道に入る。膝辺りまで伸びる雑草を踏み分けるように進んでいくと、目の前に巨大なふたつの岩が姿を現した。

「これが、拝み岩……」

 麻美は、自分の身長をゆうに超えるふたつの巨岩を見あげた。なるほど、たしかに人間の掌によく似ている。古賀雅治の写真にしろ、あの少年たちの反応にしろ、いわくつきであることはわかっていたが、今こうして目の前にしてみると、さもありなんといった感じである。

 この地面の下に巨大な像が埋まっていて、その両手だけがこうして土の上に露出しているのではないかという想像が、自然と頭の中に湧いてくるのだ。

 麻美は、その巨大な石の掌に近づいて、そっと手を触れてみた。石の持つ湿った冷気が、麻美の皮膚を通じて、身体の中に染み入ってくるようだった。

 古賀雅治の手帳にあった写真と、眼前の石を見比べてみる。

 この写真は十年以上前に撮られたもので、だいぶ古びてはいるが、そこに写っているもの自体は目の前の景色と寸分たりとも変わりはないように見える。

 だが、それも当然といえば当然である。長い年月が経っているとはいえ、大地震や地滑りでもなければ、こんな巨岩が動くということはまずありえない……。

 しかし……。

 ふと、麻美の中で何かが引っかかった。

 この違和感はいったい何なのだろう。

 写真の中と目の前の岩とで、何か微妙な違いがある気がするのだ。

 何度も写真と見比べていると、その違和感の正体に気がついた。

 写真をよく見てみると、拝み岩の周辺に輪を描くように、白いキノコのような丸い物体が土の上に点在している。しかし、目の前にはそれがない。岩の周囲には落ち葉が散らばっているだけである。

 この小さな丸い物体はいったい何なのだろう。じっと目を凝らしてみてみると、それはキノコではなく、野球ボールほどの大きさをした石の塊のようにも見えた。

 拝み岩が人の掌を模しているとするなら、それらの周辺に規則的に並んでいるそれらは、腕に巻かれた念珠のように見えなくもない。

 麻美は、近くの落ち葉を足でよけてみたが、やはりそれらの影も形もない。

 誰かが持ち去ったというのだろうか。いったい誰が? 何のために?

 真っ先に思い浮かんだのは、あの少年たちの顔だった。

 いや、と麻美は首を振る。

 あの子たちは、この拝み岩に畏れのような感情を抱いているようだった。そんな彼らに、勝手にこの場のものを持ち出すような真似はできないだろう。しかし、だとすると……。

 やはり、古賀雅治か。

 確固たる根拠はないが、町での評判といい、手帳に残された彼の言動といい、彼が浮足立ちながら、この場所でこそこそと何かを企てている様子は、容易に想像できた。その目的ともなると、皆目見当もつかないのだが……。

 麻美は写真と手帳をポケットにしまって、静かに鎮座する拝み岩にあらためて向き直ってみた。

 ふと、そのふたつの岩の隙間の深奥が気になり、身を屈めてそっと覗きこんでみる。中は当然真っ暗で何も見えないが、身体を入れるくらいのちょっとしたスペースはありそうだ。

 結界のための注連縄が張られているわけでもないし、中を確認するくらいなら罰は当たらないだろう。せっかくここまで来たのだから、調べられるものは徹底的に調べないと気が済まない。

 麻美は頭を下げて岩の隙間に入っていった。懐中電灯を口に咥え、地面を這うように先へ進んでいく。湿り気を帯びたやわらかい土が掌に押しつけられる。奥に行くほど、空気が冷えていくような気がした。すぐに岩に阻まれると思ったのだが、意外にも奥深く続いているらしい。

 奧へ奥へと進んでいくにつれて、もしかしたら、奥に何か隠されているのではないかという期待と、暗澹たる不安のような感情が綯い交ぜになり、麻美の心臓を締めつけた。

 なんだか嫌な感じだ。まるで、知らず知らずのうちにまんまとおびき出されたような感覚。もしかすると、自分は今、巨大な獣の臓腑の底へとまっしぐらに進んでいるのではないか……。

 麻美は、ふと後ろを振り返り、ドキリとした。

 なぜか、自分の金網が張ってあるのだ。まるで、自分が石の牢に閉じこめられているような恰好だった。

 いつのまに、というより、どうやってこの金網を通り抜けたのか?

 途端に、あの少年たちの不安そうな顔が脳裏を過ぎる。麻美の頭の中で警鐘が鳴り響いた。

 金網に手を触れようとした瞬間、麻美の顔に突風が吹きつけた。

「きゃあっ……!」

 麻美の口から零れ落ちた懐中電灯が、風に吹かれて暗闇の奥へと吸い込まれる。麻美は爪を立てるように地面に踏ん張るが、身体はすでに浮かされそうになっている。もはや、出口の場所はおろか、天地すらも曖昧になっていた。

これは、さっきの廃屋の時と同じだ。この風が、わたしをどこかに連れ去ろうとしているのか……。

 もはや現実の世界から完全に切り離されてしまった気がした。

 ふと、気がつく。

 この感覚は知っている。何度も夢に見たあのものと同じだ。

 あの石の塔の扉が壊され……わたしはわけのわからないままにその中に吸いこまれてしまう。あの時も、何も見えない闇の中で、わたしは凄まじい風に翻弄されていたのだった。

 ふわりと麻美の身体が浮き上がった。もはや抵抗する術を失った麻美の身体は、風に舞う枯葉の如く、闇の深淵のさらに奥へと吸い込まれていった。

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