不視鳥の鳥籠 - 4

 ふと気がつくと、カーテン越しに陽の明かりが部屋に入ってきていた。

 時計を見れば、朝の七時である。

 スマホの画面を見ると、茜にメッセージ時のままだった。

 茜は寝ているのだろう。まだその文言を見ていないようだった。一瞬、送信した文章を取り消すことを考えたが、やめた。

 昨晩、シャワーを浴びていなかったことを思い出し、のそりと腰をあげて風呂場へと向かった。とにかく、熱いお湯でさっぱりしたい気分だった。 

 風呂場に向かう途中、玄関に置いてあるゴルフバッグが視界に入った。バッグが開きっぱなしになっており、クラブが顔を覗かせている。

 そういえばこの前、大智が家に来た時にクラブを触っていたっけ。あれから、バッグを開きっぱなしにしていたのか。

 そのときに、何かが忠弘の頭に引っかかった。

 なんだろう。何か食い違っているような、忘れているような……。

 違和感を振り払い、忠弘は大智にもメッセージを送ることにした。

 あいつにもいろいろと話を聞いてもらっていたのだから、一応、その後のことも報告しておいたほうがいいかもしれない。

『いろいろと話したいことがあるんだ。今度また一緒に飲もうや』

 とてもすべてを文面で説明することはできない。とりあえず、その簡潔な一文だけを送信し、スマホをベッドに放り投げた。 

 

 シャワーを浴びながら、これからどうしようかと考える。

 先ほどまでは、すべて投げ出してこの町からも逃げたい衝動に駆られていたが、なんとか気分を持ち直してきたような気がする。

 チロルの亡霊も、鳥籠という居場所を得たおかげか、今は落ち着いているようだ。今後は頭の中で囀り続けたり、執拗につきまとわれたりすることもないだろう。

 深間坂では、こういう奇妙な現象が日常茶飯事なのかもしれない。

 やはり、先輩が言っていた噂は本当だったのだ。

 深間坂の住人たちは、この町の歪みや綻びに深入りしないよう、注意を払っているのだろう。郷に入っては郷に従えという先人の言葉に倣い、自分もこの町とうまく折り合いをつけて生きていくしかない。


 そうだ。次、大智と会うときにあの鳥籠を見せてみよう。

 あいつはどんな反応をするだろうか。

 果たして、自分以外の人間も、チロルの存在を感じるのだろうか。

 茜には見せるのは憚られるが、試しに大智の反応を見てみたいものだ。

 そんなことを考える余裕まで生まれ、自然と頬がほころんだ。

 鏡の中の自分の顔を覗いてみる。

 湯気で鏡が曇っているせいか、その表情も、顔の輪郭すらもよく見えなかった。


 風呂場から出た時に、先ほど感じた違和感の正体に気がついた。

 ゴルフクラブが一本足りないのだ。アイアンのうちの一本が忽然と消えている。

 チロルの件に比べればこの程度のことは不思議でもなんでもないが、こんな大きなものが自然となくなるわけはない。

 まさか、酒に酔った大智が、いたずらのつもりで持って帰ったのだろうか。

 玄関で見送った時は気がつかなかったが……。

 その時、背後から、唸るような音が聞こえてきた。

 振り返ると、ベッドの上でスマホが震えている。

 もしかすると茜からの電話だろうか。突然の別れの言葉に驚いたのかもしれない。

 しかし、画面には「中島大智」の名前が表示されている。

 噂をすればだな、と思いつつ、忠弘は画面をスワイプして電話に出た。

「もしもし?」

 その瞬間、電話の奥で、はっと息をのむような声が聞こえた。

『本当に……忠弘、なのか?』

 大智の声は震えていた。

「ああ、そうだけど……どうした? さっきの飲みの誘いの件か?」

 忠弘は応えたが、大智の様子がおかしい。

『なんで、お前……どうして?』

 電話の奥で、大智の声が切れ切れに聞こえた。それは、驚愕と恐怖が綯い交ぜになったような声だった。

『おい、どうしてだよ……どういうことなんだ、これって……』

 大智は明らかに錯乱していた。まるで、昨晩の自分の姿を見ているようだった。

 忠弘もわけがわからないまま、大智に向かって声を掛ける。

「大智、どうした? いったい何があったんだよ、おい」

 大智は忠弘の言葉に耳を貸す様子はない。嗟嘆の声はしばらく止まらなかった。

 こちらからも懸命に声を掛けていると、大智の声のトーンは徐々に落ち着き、やがて静かになった。

 ぜいぜいと大智の荒い息が落ち着くと、『忠弘、お前……まだ生きているんだな。その部屋に、まだいるんだな? そこで待ってろ』と言った。

「おい、どういう意味だ」と訊きかえす間もなく、通話は切られた。

 忠弘は、スマホの画面を呆然と見つめる。

 尋常ではない様子だった。いったいどうしてしまったというのか。

 電話を切る直前、『まだ生きているんだな』と、大智は言った。

 なぜ、そんなおかしなことを言うのか。

 それではまるで。

 まるで、俺がこの世にいないみたいではないか。

 

「チロルチャン、カーワイイ」

 突然、背後で声が聞こえた。

 その声につられて振り返った瞬間、忠弘はその場に凍りついた。

 鳥籠の中に、正真正銘、本物のチロルがいた。幻影でも妄想でもない、生きているチロルだった。

 鳴き声や気配だけではない。しっかりとその姿を見ることができる。

「オカエリ、オカエリ」

「チロルチャン、オウチ、ゴハン、オイシイ」

「カワイイチロルチャン、オカエリ……」

 チロルは、鳥籠の中が窮屈と言わんばかりに、羽ばたき、囀り、しゃべっている。

 どういうことだ……。

 忠弘は言葉を失っていた。

 いったい、この部屋で何が起こっている?

「チロル、お前……なんで生きている?」

 忠弘はゆっくりと近づき、震える指で鳥籠に触れようとした。

 しかしその指は、鳥籠に触れることはできなかった。

 忠弘の指が……手が、腕が、身体全体が、どんどんと色を失い、透明になっていく。

 宮前忠弘という人間の存在が、この世から消失しつつあった。

 同時に、忠弘の頭の中でなにかが弾け、閃光のように真っ白になった。

 頭の中に生じた空白に、「忠弘の知らない記憶」が濁流のように流れ込んでくる。

 忠弘は、未知の情報の波に飲み込まれながら、自分の身に何が起きたのかを理解した。




 時間は、あの日に巻き戻る。

 すべてが狂いだした、あの忌まわしい日。忠弘はベランダの窓を開け放したままで、外へ出かけた。

 用事を終えて帰ってくると、部屋が荒らされ、チロルは殺されていた。

 忠弘は後悔し、苦悶する。旅行から戻った茜に何度も頭を下げる。

 そして、犯人はわからずじまい……。

 今までは、これがただひとつの揺るぎない事実だったのだ。

 

 しかし、事実はねじ曲げられ、運命は書き換えられた。

 

 新しく用意されたシナリオはこうだ。

 あの日、ベランダの窓を開け放したまま、忠弘は外出した。

 しかし、マンションを出てすぐに、あることに気がつく。

 あのマンションは、ペットの飼育は原則禁止である。もし、開け放した窓からチロルのしゃべり声が漏れたりしたら、住人から苦情が寄せられるかもしれない。

 忠弘はすこし悩んだ末に、窓を閉めるために、自分の部屋に引き返した。

 ドアを開くと、部屋の真ん中にひとりの男が立っているのが目に入った。男はこちらに背を向け、チロルの鳥籠に手を掛けている。

 忠弘は驚いて、その見覚えのある後ろ姿に声を掛ける。

「お前、俺の部屋で何やってるんだ」

 男は、ゆっくりとこちらを振り返る。

 男の手には、ゴルフクラブが握られている。俺が、会社の先輩から譲り受けたものだ。ちらと横に目をやると、ゴルフバッグが開けられていた。そこから抜き取ったのかと気づいた時には、男はすでに俺の近くに歩み寄り、クラブを振りかぶっていた。 

 

 ……ああ、そうか。だったんだな……。


 必死の形相を浮かべた大智の顔を見て、忠弘はすべてを悟っていた。


 そうだ。

 俺は心のどこかで気がついていたはずだ。大智の、茜に対する恋慕の情に。

 しかし、俺は気がつかなかいふりをした。俺も茜を好きだったから。

 俺が茜にアプローチし、付きあうようになって、お前に対する優越感が無かったといえば嘘になる。

 あるいは、お前の恋心を知っていながら抜け駆けをしたという後ろめたさもあったかもしれない。

 そういう自分自身の感情に、俺は蓋をしていたんだ。

 それでいながら、俺は、お前の反応を気に掛けていた。

 お前は、隙あらば俺から茜を奪おうとしているんじゃないか、と。

 俺は、お前の心の内が知りたくて、二人で飲むときも、憚らず茜の話を持ち出したんだ。


 ああ。今、すべて理解した。

 チロルを殺したのは、空き巣なんかじゃない。お前だったんだな。

 俺の部屋で預かっている茜の大切なペットを殺せば、俺たちの関係にヒビが入るんじゃないかと、お前は考えたわけだ。

 そして、空き巣の犯行と思わせるために、ご丁寧に部屋まで荒らしてくれた。とても計画的とは思えない、突飛で杜撰な計画。

 うまくいけばラッキー程度に思っていたのか知らないが、リスクが高すぎるだろう。お前がそこまで太い神経をしていたとはな。

 しかし、そんなお前の思いつきは、意外にも功を奏した。

 チロルの死をきっかけに、俺と茜の関係はこじれ、修復不可能な状態に陥った。

 お前が望んだとおりの結末だった。

 

 だが……残念なことに、その「結末」は修正され、俺たちはもうひとつの「結末」を迎えようとしている。

 チロルの生への執着か、俺の罪の意識がそうさせたのか。

 ……あるいは、俺たち全員が、深間坂の歪みにはまってしまったのか、それはわからない。

 いずれにせよ、これが俺たちに用意されたラストシーンだ。

 ここで終わりなんだ。俺も、お前もな。

 勢いよくクラブが振り下ろされ、鈍い音とともに目の前で火花が散った。

 忠弘の意識は、暗闇の中へと落ちていった。




『……続いてのニュースです』

 ニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げる。

『先日、○○市深間坂のマンションで宮前忠弘さんが殺害された事件で、同市に住む会社員、中島大智容疑者が逮捕されました』

『警察によりますと、中島容疑者は犯行に使われたと思われるゴルフクラブを持ち、犯行現場であるマンションに侵入したとのことです。不審に思った住人が通報し、駆けつけた警官複数人により取り押さえられ……』

『なお、通報した住人の証言では、中島容疑者は、宮前さんの住んでいた部屋のドアをゴルフクラブで叩き、大声で叫んでいたということで……連行される際も、「あいつから連絡がきた」「あいつはまだ死んでない」などと錯乱した様子で話しており……警察では、犯行の動機についても詳しく捜査を進めると……』


 茜はテレビを消した。

 茜はスマホの画面に目を落とす。

 数日前に死んだはずの恋人から届いた、別れを告げる短いメッセージを、何度も何度も読み返した。

「ねえ、チロル……教えてよ」

 茜の頬に、一筋の涙が流れる。

「あなたは知ってるんでしょう? あの日、あの部屋で何があったのか……なんでこんなことになったのか……知ってるなら教えてよ、ねえ、チロル……」

 チロルはこたえなかった。

 覚えた言葉をすべて忘れてしまったかのように、チロルはいつまでも、鳥籠の中で沈黙していた。


- 了 -

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