不視鳥の鳥籠 - 3

 翌朝、目を覚ますと、茜からのメッセージがスマホに届いていた。

 昨日の夜遅くに送られたものだった。

『あんなこと言うつもりはなかった。いろいろ付き合ってもらったのに……本当にごめんなさい』

 忠弘はすこし時間をおいて考えた後、返信をした。

『いや、茜の言う通りだった。反省してるよ』

 嘘偽りのない、正直な気持ちだった。

 結果論かもしれないが、もやもやとした感情が吐き出せてよかったのかもしれないと、忠弘は思った。

 茜が思っていたことをはっきりと言ってくれたから、ただの謝罪一辺倒だった忠弘も、自分自身の思いを整理することができたのは事実だ。雨降って地固まるというべきか、この件はこれで片がついたのだと、この時はそう思っていた。


 しかし、この一連の出来事は、熾火がぐずぐずとくすぶるように忠弘の心に残り続けた。

 不完全燃焼ともいうべき、気持ちの悪い終わり方。喧嘩とも口論とも言い難い、中途半端な衝突。

 あれから数日経ち、忠弘は茜との間に少しずつ、しかし確実に深い溝が生じつつあるのを感じていた。

 決して、忠弘の方から距離をとっているわけではない。茜の方にしてもそうだ。

 いつも通りに接しているつもりなのだが、どこか冷めた目で、ふたりの関係を客観視している自分に気がつく。

 それを感じ始めた時は、忠弘も焦燥感を覚え、茜との関係修復を計ろうと考えたが、次第にその気持ちもしぼんでいった。

 いつしか、破局も時間の問題なのかもしれないと、忠弘は思い始めていた。

 チロルがいなければ、こうはならなかったかもしれない。あるいは、たまたまチロルが原因となっただけで、遅かれ早かれ、こうなっていたのかもしれない……。

 そんなことを考えるようになっていた頃、忠弘は自分の部屋に起こっている異変に気がついた。

 

 ある晩、ベッドに寝転がってスマホを触っていると、何かの気配を感じた。

 画面から顔をあげ、シーリングライトが煌々と照らす部屋を眺めるが、特に異変はない。

 なんだったのだろうと不思議に思っていると、目の前を何か大きな物が横切ったような気がした。

 反射的に手で払いのけるが、その手は空を切る。

 あらためて部屋を見渡すが、やはりなにもいない。

 虫が入り込んだのだろうか……いや、目の前を通ったのはもっと大きなものだった。

 耳障りな羽虫のようなものではなく、もっと大きな、鳥の羽ばたきのような……。

 その予感に応えるように、バタバタと羽を震わせるような音が、忠弘の耳朶を打った。

「チロル……?」

 そんな、まさか。あいつが化けて出てくるなんて。

 忠弘は頭を振った。

 幻聴などではない。たしかに今、何もいないところから羽音が……。

 ……いや、それを幻聴というのか。

 忠弘は立ち上がり、懸命に目を凝らした。

 俺の部屋なんかじゃなく、飼い主の元へいってやればいいじゃないか。

 それとも、恨みを晴らそうとしているのか? だとしても、お門違いだ。お前を殺した憎き犯人の枕元に出てやればいい。お前はそいつの顔を見ているんだろう。なんで俺の部屋に出てくるんだ。どうして……。

 そのうちに、羽音だけでなく、おしゃべりまでもが聞こえてきた。

『チロルチャン、カワイイ』

『オウチ、オウチニカエル、チロルノオウチ』

『エライコ、チロルハエライコ』

 耳を塞いでも逃れられない。幻聴は絶えず頭の中に響いた。まるで、頭の中にスピーカーをねじ込まれたような気分だ。

「お家に帰りたいんなら、さっさと出て行ってくれ、さあ」

 やけになり、ベランダに通じる窓を全開にした。

「今すぐ、茜の所に飛んでいってやれ」

 姿のない来訪者に向かって、忠弘は叫ぶ。当然、返事はない。

 自分はおかしくなりかかっているのかもしれない。忠弘はそう思った。

 思っていた以上に、自分は思い詰めていたのかもしれない。きっと、自分の中の罪悪感がこのような幻聴を聞かせるのだ。

 部屋の中を飛び回るような羽音と、おしゃべりが絶えず耳朶を打つ。

 『オウチ、チロルノオウチ……』

 声はいよいよはっきり聞こえるようになってきた。

 さっきからオウチ、オウチと言う割には、この部屋から出て行く気配はまったくない。

 忠弘は窓を閉め、逃げるようにして部屋の外に出た。

 エレベーターを降りて、マンションの外に出ても、チロルの声はしつこく忠弘につきまとってくる。

 いい加減、頭がおかしくなりそうだ。

 夜の町へと逃げ出しても、チロルは俺のことを解放してくれそうにない。

「なあ、俺が悪かったよ……。認めればいいんだろ。俺が窓を開け放したまま出かけたのが悪かったんだ……。閉め切っているとお前も暑いだろうと思って、すこし風を入れておくつもりだったんだよ……」

 忠弘は、ぶつぶつと独り言をたれながら、深夜の深間坂をさまよった。

『カワイイチロルチャン、チロルチャン……』

『オウチカエル、チロルチャンノオウチ』

 壊れたテープのように、短い言葉を継ぎ接ぎしながら、同じようなことを何度も繰り返す。

 それに応じるように、忠弘は懺悔の言葉を口から吐き出し続ける。

 傍から見れば、夢遊病患者のように見えただろう。いや、自分はもう、それに近い状態に陥っているのかもしれない……。


 深間坂は静まりかえっていた。

 ほとんどの家々は明かりを落とし、眠りに落ちている。

 ただ、そのなかにも窓明かりがみえる家があった。こんな夜遅くに何をしているのだろうと、顔も知らぬ住人に思いを馳せる。

 そんな時に、ふと、かつて先輩から聞いた言葉が、頭に蘇ってきた。


『一見、静かで平穏な町らしい。でも、ごく稀に違和感を覚えるそうだ……』

『あったはずのものが無くなっていたり、見えるはずのものが見えなくなったり……』

 そういえば、茜とこの辺りを歩いていた時に、そんな話をしたのだったか。

 ふと、見慣れたはずの町の景色が、急にぼんやりと霞んだ気がした。

 時間帯のせいだろうか。周りの景色の印象が、なんだか違って見えてくる。


 しばらくさまよっていると、行く道の向こうに店の灯りが見えた。煌々とした光が道を照らしている。

 その光に寄せられるように、忠弘はふらふらとその店の方へ歩いて行った。

 店の前に来ても、それがいったい何の店なのか見当がつかなかった。

 円形の窓が左右に二つあり、巨大な丸眼鏡を思わせる。そこから店の中を覗いても、人の姿はない。代わりに、ガラクタとも骨董品ともつかないものが店内のあちこちに積まれているのが見えた。

 二つの窓の間に、入り口はあった。すりガラスの引き戸になっており、そのうえに『飛燕』という木彫り看板が掲げられている。

 こんな店がこんなところにあっただろうかと疑問を抱きつつ、忠弘は引き戸に手を掛けていた。

 戸を開く前の一瞬、引き留めるような声が聞こえたような気がしたが、その誰ともつかない声はチロルの絶え間ないおしゃべりの渦に呑み込まれてかき消えた。

 店に入ってすぐの真正面にカウンターがあり、お婆さんが縮こまったように座っていた。お婆さんは目を瞑り、うつらうつらと船を漕いでいた。

 戸を開けた音で目を覚ましたのか、お婆さんは重そうな瞼をゆっくりと開いた。忠弘と目が合うと、すこし驚いたような顔をした後、「いらっさい」とぶっきらぼうに言って、居住まいを正した。

 会釈をして、店に足を踏み入れた。ぐるりと店内を見回してみると、食器類、人形、柱時計、絨毯、絵画、古びた調度品……雑多なものが、統一感なく並べられている。どうやら、ここはアンティークショップだったらしい。あるいは、古道具屋と言った方がしっくりくるかもしれない。忠弘は、目に見えない何かに手を引かれるように、店主と思しきお婆さん以外に誰もいない店内をゆっくりと見て回った。

 こんな品々をどこから集めたのか、どれもこれも年季の入った物ばかりである。困ったことにどれも値札がついておらず、単なるガラクタの寄せ集めなのか、貴重な品なのかどうかも判断がつかず、気安く手を触れることもできない。

 ためしに何かひとつ、お婆さんに値段を聞いてみようかと思い、お婆さんの方を振り返った。

 そのとき、カウンターの近くに吊られているアンティーク調の鳥籠が目に入った。

「鳥籠……」

 忠弘が思わず口に出すと、すこし落ち着きを見せていたチロルの声が、再びわめき始めた。

『チロルノオウチ、オウチカエル』

 忠弘はようやく、声がしつこくつきまとってきた理由を理解した気がした。

 チロルの幻影が求めていた「オウチ」というのは、忠弘や茜の部屋のことではなく、鳥籠のことだったのだ。

 なぜ、死んだあとにわざわざ籠の中に帰りたがるのかはわからないが、ペットにも帰巣本能に似た欲求が芽生えてくるのかもしれない。

 声に促されるまま、忠弘は鳥籠に手を触れた。鉄製のそれは、なかなかの重量がある。

「それ、引き取ってくれるのかい」

 お婆さんがこちらに目を向けて言った。

「ずっと前から、そこに吊り下げたままになってるんだよ。邪魔だし、埃を掃除するのも難儀でね。かといってわたしひとりではそんな重い物下ろせないし。欲しいのなら、ただでいいから持ってってくれ」

「いいんですか?」

 忠弘が訊くと、お婆さんは頷いた。

「物を処分するのにも手間や金がかかるからねえ。こっちも助かるよ」

 忠弘は店の脚立を借りて、天井から鳥籠を下ろした。ずっしりと腕に負担はかかるが、なんとかひとりで持って帰れそうである。

「助かったよ」と、お婆さんはニコニコとして言った。

「小鳥を飼う予定なのかい? わたしも昔、文鳥を飼っとってねェ……」

「ええ、まあ……」

 忠弘は苦笑いを浮かべ、曖昧に頷いた。

 まさに今、インコの亡霊に唆されているんです、とはとても言えなかった。





 鳥籠を部屋に持ち帰り、窓際の棚の上に置いた。

 すこし錆びついた扉を開くと、耳元でバタバタと羽ばたく音が聞こえた。

『オカエリ、チロルチャン』

 幻聴を発していた見えない鳥は、鳥籠の中に入り、大人しくなった。

 忠弘はほっとため息をつき、目の前の鳥籠を見つめた。

 一目見ただけでは、空っぽの鳥籠に過ぎない。だが、忠弘は、そこにチロルの気配をはっきりと感じるようになっていた。姿が見えないだけで、この手に触れることすらできるのではないかと思うほどだった。

 鳥籠という居場所を与えることで、余計に「チロルがこの中にいる」という実感が生まれてしまっていた。

 そのうち、チロルは蘇ってきてしまうのではないか。

 ふと、そんな考えが頭を過ぎる。

 もし、そうなったらどうしよう。

 そうだ、この鳥籠を、茜に見せてみよう。

 茜はどんな顔をするだろうか……。

 茜は、茜は……。


 いつの間にか、眠りに落ちていた。

 目を覚ますと、時計は朝の五時を指していた。外から新聞配達員と思しきバイクの音が聞こえてくる。

 コチコチという秒針の音が部屋に反響している。チロルの亡霊も今は寝静まっているらしい。止まり木に掴まって目を閉じるチロルの姿が目に見えるようだった。

 ベッドから身を起こし、洗面所で顔を洗った。鏡の中の自分はずいぶんとひどい顔をしていた。涙を流すだけ流し、目は真っ赤になっている。

 限界が来ていた。幻影につきまとわれるのも、自分の精神も、茜との関係も、すべてを終わりにしたい気分だった。

 忠弘は床に落ちているスマホを拾いあげ、茜にメッセージを送った。

『突然でごめん。もう終わりにしよう。今までありがとう』

 それだけを送信した。あまりに身勝手で自分本位な行動だと理解していたが、それ以上のことを説明する気力はなかった。

 忠弘は鳥籠をそっと床に下ろした。鳥籠の中で、チロルが目を覚ました気配を感じた。

 床に腰を下ろし、鳥籠と向き合う。

 感じる。確かに、ここにチロルはいるのだ。

 その時、ふと、忠弘のなかにある考えが芽生えた。

 チロルは本当に死んだのだろうか?

 そもそも、死ぬ、とはなんだ? 

 死とは、無の世界に還ることだ。すべてがまったくのゼロになるということだ。

 しかし、死んだらあの世にいくとか、天国か地獄にいくとかいうじゃないか。死んで無くなったものが、どうして別の世界に移動する? それに、死霊だとか怨念だとか、死んでなおこの世に残り続けるものもあるというではないか。

 ふと、忠弘の脳内に、とあるイメージが天啓のように降りてきた。

 そうか、そういうことか。

 頭の中に立ちこめていた霧が晴れていく。

 死は、ゼロなんかじゃない。死後は、いうなればマイナスの世界なのだ。どちらがプラスでマイナスかは、この際どっちでもいい。

 この世とあの世、鏡写しのようなふたつの世界が、隣りあって存在しているに過ぎないのだ。

 人間を含めた、ありとあらゆる生物が、こちらの世界で生存している間に膨大な情報……記憶を生み出している。脳の有無や体の大きさ、高等、下等に拘わらず、どの個体も例外ではない。

 その生みだされた情報量が、身体が死を迎えると同時にゼロになるなど、馬鹿げた話ではないか?遺産が相続されるように、あるいは借金が連帯保証人に背負わされるように、魂に刻まれた情報も、別の形に変化して残るはずである。

 死とは、すなわち魂の転移なのだ。個体そのものが持つ情報量を保持したまま、もうひとつの世界へとはじき飛ばす、その現象に他ならない。

 チロルの魂は、あちら側の世界に飛ばされたのだろう。

 空気中にあったチロルの魂は水中に沈んでしまったが、水面によく目を凝らせば、その存在は確かに感じることができる。今、ふたつの世界の境界線に限りなく近い場所で、忠弘とチロルの魂は微かに触れ合っているのだ。

 それが正しい解釈なのかどうか、そんなことは忠弘にはどうでもよかった。

 忠弘は、そこにチロルの魂の所在を知覚し、その事実を静かに受け入れていた。

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