不視鳥の鳥籠 - 2

 それから数日後の日曜日。忠弘は、近所の喫茶店まほろばで茜を待っていた。

 茜は大学生の間は実家暮らしだったが、就職を期に一人暮らしを始めることになっていた。茜の新生活に向けて必要なものを揃えようと、二人で買い物に行く約束をしていたのだった。

 忠弘は車は持っていないが、運転免許は大学生の時に取っている。近くの店でレンタカーを借り、いくつかの店を見てまわる予定だ。

 アイスコーヒーを飲みながら待っていると、カランカランと店のドアベルが鳴った。顔を上げると、茜がきょろきょろと店内を見渡しているのが見えた。

「茜、こっちこっち」と手を上げて呼びかけると、茜は笑みを浮かべ、こちらへやってきた。

「ごめん、遅くなって」そう言って、茜は対面に座る。

「いや、全然……」

 努めて明るく振る舞おうとしていたのだが、例の件が頭を掠め、どうしても言葉が弱々しいものになる。

 やはり、まだあのことを引きずってしまっている。

 茜も、その様子に気がついたらしく、苦笑いを浮かべた。

 茜が店員にカフェラテを注文した後、あらためてこちらに向き直っていった。

「あのこと、気にしなくていいからね、本当に」

 その言葉に、忠弘は力なく頷いた。

 散々口にした謝罪の言葉が、また口をついて出そうになるのを、ぐっと堪えなければならなかった。

 チロルの件は水に流すから、もう謝る必要はないと、茜から釘を刺されていたのだ。

「忠弘も方も大変だったんでしょ。本当に盗まれたものはなかったの?」

 茜は少し声を細めて言った。

「うん。部屋はだいぶ荒らされてたけど……ほら、こんな感じ」

 忠弘は、スマホのカメラで撮影しておいた当時の部屋の様子を見せた。

「うわあ、ひどい」と茜は目を丸くして驚いている。

「犯人は? まだわからないの?」

 忠弘は首を振った。

「近くの家や店舗に設置されていた防犯カメラを確認したそうなんだけど、怪しい人物は映っていなかったらしい。あと……」

 忠弘は少し口ごもっていった。

「チロルの件もあったから、怨恨の線でも調べたいって言われた。こういう嫌がらせを受ける心当たりがないか聞かれたよ。そんなのあるわけないよな」

 忠弘はため息をついた。

「たぶん、刑事さんが最初に言っていた通り、空き巣に目をつけられていたんだと思う。俺が普段から戸締まりに気をつけていれば、あんなことにならなかったんだ……本当にごめん」

「ああ、もう。わかったから、この話はおしまい」

 茜は手を振って遮った。

 あれほど気落ちしていた茜だったが、数日経ってだいぶ回復しているようにみえた。あるいは、忠弘に気を遣わせないために気丈に振る舞っているのか。忠弘には判断がつかなかった。

 

 その後、喫茶店を出たふたりは、レンタカーの店までぶらぶらと歩いた。ドライブにはもってこいのよく晴れた日だ。近くの公園を通りかかった時、子どもたちが楽しそうに遊んでいる声が聞こえた。 

 茜は大きく伸びをしていった。

「本当にいい場所だよね、この町」

「深間坂が? 普通だろ……こんなところ」

 茜はこれまでにも何度か深間坂に来たことがあったが、いつも同じ事を言う。

「まあ、少し足を伸ばせば市街地に出られるし、不便ってほどでも無いけど、退屈なところだよ。俺からすれば、茜が今住んでるところの方が羨ましいよ。引っ越すなんてもったいないって思うけどな」

 茜は、このあたりでは一番大きな駅の前にある、分譲マンションで育ったという。徒歩圏内に、大型の商業施設、映画館やカラオケなどがひと通り揃っており、遊ぶ場所には困らなかったらしい。

「前も話したけど、さすがにもう家を出たくてさ。本当は大学の時も一人暮らしがしたかったんだけど、親が許してくれなかったんだよね……」

 茜は苦笑いして言った。

「まあ、あそこは便利には違いないけど、ちょっと心が安まらないっていうかさ。やっぱり住むならこういう静かな町の方が私は好きだな」

 茜はしみじみといった。

「この閑静な住宅街っていう感じ。色んな家がずらっと並んでいて、ほどよい感じにい緑があって、学校があって、公園があって……ふとしたときに、どこに繋がっているかわからない小道を見つけたり、謎の石碑みたいなのがぽつんと立ってるのに気がついたり。そういう、よくわからないものがある中で、人が集まって暮らしてる空間が好きなんだよね。そういう感じ、わからない?」

 忠弘は、笑って首を振った。

「悪いけどピンとこないな。俺の実家もここと似たような所だったし。今の会社に就職が決まって、大学の下宿先からこっちのマンションに越した時、正直がっかりしたよ。まるで実家に戻ったみたいな気分だった。これなら、家賃に目を瞑ってでも、もう少し市街地寄りの物件にすればよかったと思ったくらいだ」

 忠弘は後悔の念をこぼすと、いいところだと思うけどなあ、と茜は呟いた。

 その時、忠弘はあることを思い出した。

「そういえば……深間坂はいわくつきだって、会社の先輩が言ってたな」

「この町が? どういうこと?」

 茜は興味を持ったように、忠弘の顔を覗きんできた。

「いや、俺も具体的な話を聞いたわけじゃないんだけど……。去年の新人歓迎会で、居酒屋からタクシーでまとめて帰ろうとしていた時のことだよ。お前、家はどこだって先輩に聞かれたから、深間坂のマンションですって答えたんだ。そしたら、あからさまに嫌な顔をして、『お前、あそこに住んでるのか』って言うんだよ」

 茜は眉をひそめた。

「もしかして、事故物件ってやつ?」

「いや、俺の住所やマンション名は言ってない。深間坂に住んでいるってだけでそんな反応をするもんだから、どういうことですかって聞いたら、『あの深間坂って町はいわくつきらしいぞ』だって」

「何それ、ここは呪われた町ってこと? 都市伝説だとしても、ずいぶんと規模が大きい話だけど……」

 忠弘は、一年近く前の記憶を掘り起こした。

「ええっと……たしか、その先輩の友達が、深間坂の出身らしくて、その人から色々聞いたんだって。子どもの頃から深間坂で育ったその人が言うには、ここは歪んだ町なんだって」

「歪んだ町?」

 そうだ。先輩はたしか、そんなことを言っていた。

 忠弘の頭の中に、居酒屋で聞いた言葉がゆっくりと蘇ってくる。

『一見、静かで平穏な町らしい。でも、ごく稀に違和感を覚えるそうだ。あったはずのものが無くなっていたり、見えるはずのものが見えなくなったり……でも、普通の人間にとっては、別に生活で困るような変化じゃない。気づいても放っておいた方が吉なんだと』

 忠弘は、記憶の中の言葉をそのまま口に出していた。

 横で耳を傾けていた茜は、首を傾げて言う。

「なんだか、掴みどころのない話だね。具体的になにがどう奇妙なんだろう」

 さあ、と忠弘も首をすくめた。

「まあ、伝聞の伝聞だからね。結局、その先輩の友達とやらも、なにか驚くような体験をしたわけではないらしいし、俺も全然気に留めてなかったけど」

 きっと、どこにでもある都市伝説や七不思議のような話を真に受ける人だったのだろう。先輩も、そういうことを割と面白がることのできる人なので、深間坂という地名を久しぶりに耳にして、思わず語りたくなったのかもしれない。

 「そういえば……」と茜は呟くように言った。

「今回のことも、奇妙と言えば奇妙だよね。何も盗まず、部屋だけ荒らして逃げる空き巣なんて」

「それは単純に、俺の部屋に盗むほどのものがなかったからだろう。高級時計や札束を置いてるわけでもないし。それに……実害はあったよ」

 そうだね、と茜は呟いた。

 茜も、チロルの姿を思い浮かべているのだろう。どうしたってこの話に戻ってきてしまう。

 忠弘は心の中でため息をついた。


 レンタカーの店に着いたふたりは、多少の荷物を積むことを想定して軽のワゴン車を借りた。

 快適な道のりだった。お互いに最近よく聴いている音楽を流し、空き巣のこともチロルのことも忘れ、ドライブを楽しんだ。

 家具専門店と大型のショッピングモールを巡り、新生活を始めるのに必要と思われるものや、本当に必要かと疑わしいものまで、茜はほとんど手当たり次第に買っていった。車に乗らないものは、彼女の新しい住所へ日付を指定して配送してもらうよう手配をした。

 大学の頃から一人暮らしをしている忠弘があらかじめ助言をしていたこともあり、茜はてきぱきと買い物を済ませていった。


 夕方、必要なものはあらかた揃ったかという頃には、ふたりとも疲労困憊だった。休憩を挟んでいたとはいえ、休日の混雑した店を見て回るのに、だいぶ体力が削られていた。

「晩ご飯、どうする?」

 茜はため息とともに忠弘に問いかける。その両手に買い物袋が四つ握られている。荷物を持とうかと言いたいところだったが、忠弘も似たり寄ったりの状態だった。

 忠弘の提案で、いちど車に荷物を置いてから、施設内の和食レストランで食事を済ませることにした。

 食事中は、二人とも言葉数が少なかった。お互いに疲れていたし、気も緩んでいたのだ。そうでもなければ、忠弘もあんな失言はしなかっただろう。

 忠弘は、ショッピングモールにあったペットショップの前を通りかかった時のことを思い出し、茜に話しかけていた。

「そういや、ここ、ペットショップがあったな」

 茜はちらりとこっちを見て「うん、あったね」と頷いた。

「生活が落ち着いたら、また新しいインコを探しにこようか。あの鳥籠も空のままだと寂しいだろうし」

 忠弘は頬杖をつき、窓の外に目をやりながら、チロルの入っていたケージのことを考えていた。

「なんだったら、お金は俺が出すよ。別にこの店じゃなくてもいいし、他のペットショップも見て回って、茜の気に入るやつをさ……」

「ねえ、ちょっと待ってよ」

 茜が言葉を遮るように言った。

 忠弘は茜の方を振り向いた。その表情を見た時、忠弘は自分の失言に気がついた。

「いや、ごめん。今のは……」

「もういいよ」

 茜は手を上げて忠弘の言葉を遮った。

 茜は何か言いたげに口を開いたが、咄嗟に言うべき言葉が見つからなかったらしい。諦めたようにため息をついた後、「なんで、そうなるのかな……」と独り言のように呟いた。

 しばらく沈黙した後、箸を置いて忠弘の方を向いた。

「結局、忠弘にとってチロルはどうでもよかったんだよね」

「いや、そんなことは……」

「そんなことないって? 本当にそう? チロルが死んで忠弘がショックだったのは、わたしからの預かり物だったからでしょう。違う?」

「いや……」

 そんなことはない、とは言えなかった。喉に詰まったように言葉が出てこない。

 茜の言っていることは正しかった。

「忠弘は嘘がつけないよね。それは美点だと思うよ」

 茜は水に口をつける。コップの中の氷が、カランと音を立てた。

「誤解しないでね。そのことを咎めているわけじゃないの。チロルの飼い主はわたしだし、旅行中の世話を忠弘に押しつけたのもわたし。チロルは死んだのだって、忠弘が悪いわけじゃない。それはわかってる。でもね……」

 茜は遠い目をして言った。

「忠弘が謝ってくる度に、『そうじゃないのに』って思ってた。そんなに謝られても、わたしはどうしようもできないのに。これ以上、わたしは忠弘に何て言えばいいの? 結局、忠弘はわたしに赦してほしかっただけ。わたしの気持ちばっかり気にして、死んだチロルの方には目もくれない。わたしには、それが……」

 茜はそこで言葉を切り、赤くなった目をハンカチでおさえた。

 忠弘は、何も言えなかった。

 謝罪の言葉さえ封じられ、忠弘は呆けたように座っていた。

「ちがうよ……茜」

 ふり絞るようにそう言うと、ちがわないよ、と茜は声を震わせて言った。

「だって……そうじゃなきゃ、さっきみたいな言葉は出てこないよ」




 帰ってから、忠弘はベッドに勢いよく倒れこんだ。

 茜を家まで送り、車を返して自分の部屋に戻るまで、茜に言われたことがずっと頭から離れなかった。

「やってしまったかな……」

 ベッドに寝転がり、天井に向かってひとりごちた。

 悪気が一切なかったとはいえ、明らかに失言だった。

 買い物の疲れで気が抜けていたのだ。しかし、そんなことは言い訳にならない。

 むしろ、気が抜けていたからこそ、自分の本音の部分が漏れてしまったのだ。

『結局、忠弘はわたしに赦してほしかっただけ。わたしの気持ちばっかり気にして、死んだチロルの方には目もくれない……』

 茜のその一言がすべてだった。

 その通りだ。俺はチロルを可愛がってもいなかったし、死んでも可哀想だとも思わなかった。ケージの中で冷たくなっているチロルをみて、真っ先に頭に浮かんだのは、茜の悲しむ顔だった。茜にどう謝るべきか、その事ばかり考えていたのだ。

 開き直りのようだが、歯に衣着せぬ言い方をすればそういうことだ。

 まったく無自覚だったが、茜に指摘されてはっきりと気づいた、自分自身の正直な気持ちであった。

 不思議なことに、その気持ちに気がついた途端、チロルへの憐憫の情が湧いてくるのだった。

 こんな見知らぬ部屋でなく、飼い主の元で天寿を全うできればよかっただろうに。

 忠弘は、棚の上に目をやった。かつて、チロルの鳥籠が置かれていた場所だ。

 鳥籠の中でおしゃべりをするチロルの姿がまぶたに浮かんだ。

 羽の色や模様すら、うすぼんやりとしか覚えていないが、おしゃべりだけは耳に残っている。

『チロルチャン、ゴハンダヨ』

『チロルチャン、カワイイ、チロルチャン……』

『オカエリ、オカエリ……』

 その声は頭の中でこだまし続け、忠弘が眠りに落ちるまで離れることはなかった。

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