第2話 不視鳥の鳥籠

不視鳥の鳥籠 - 1

 その日は、宮前忠弘にとって厄日であった。

 忠弘が買い物を終えてマンションに帰宅すると、部屋の様相は一変していた。

「なんだよ、これ……」

 玄関で呆然と立ち尽くす。

 忠弘の住居であるワンルームは、見るも無惨なほどに荒らされていた。

 デスクの引き出し、クローゼット、衣装ケースなどが開け放されており、あらゆるものが乱雑に放り出されて床に散らばっている。まるで台風一過のような有様だった。

 外出していたわずか数十分の間に、いったい何が起こったというのか。数分の思考停止状態の後、空き巣にやられたのだという結論に至り、すぐに警察に通報した。

 しどろもどろになりながらも、警察に事情を伝え、電話を切った。

 スマホを握りしめたまま、もう一度部屋を見渡す。あらためて、目を覆いたくなるような惨状だ。

 ふと、カーテンが風に揺れているのが忠弘の視界に入り、あっと声をあげそうになった。先ほど家を出る際、ベランダ側の窓を開け放したままだったことを思い出したのだ。

 忠弘の部屋はマンションの二階である。向かいはビルの壁と接しており、その間のスペースは人目につきにくい。周囲に気をつけてさえいれば、脚立などを使って侵入できるだろう。

 忠弘もそのことに気がついていたから、入居後しばらくは、しっかり鍵を掛けるよう心掛けていた。しかし、最近はないがしろになっており、少し買い物に出る時などはそのままにしていたのだ。

不注意につけこまれた……。忠弘は、あまりの悔しさに歯噛みした。

 腹の底からふつふつと怒りが湧いてくる。自分の部屋を好き勝手に荒らした犯人を、この手で殴り倒してやりたい衝動にかられた。

 ふと、泥棒がまだ家の中に潜んでいる可能性が頭を過ぎる。

 念のために、玄関に立てかけてあったゴルフバッグからクラブを一本抜き出し、竹刀のように構えながら、変わり果てた自室へと足を踏み入れた。

 幸いにも、キャッシュカードやクレジットカードは財布に入れて持ち歩いていた。盗まれて困るほどの大事なものは、この部屋にはおいていないはずだが……。

 その時、あることを思い出し、忠弘は「あっ」と声を上げた。

 部屋を荒らされていたことの衝撃で、大事なことをすっかり忘れていたのだ。

 忠弘は、ベランダへと通じる掃き出し窓に近づいた。窓の近くの棚の上に、四角い形をした鳥籠が置かれている。そのケージの中を覗いてみて、忠弘は、さあっと血の気が引くのを感じた。

 鳥籠の中で、一羽のインコが倒れている。

 それは、恋人の茜から預かっていた「チロル」という名のセキセイインコだった。

 チロルは力尽きる前に大暴れしたのか、抜け落ちた細かな羽がケージの中に飛び散り、水や餌も零れている。

 まさに、忠弘の部屋と同じような状況だ。唯一異なるのは、部屋の真ん中で、部屋の主が静かに目を閉じて倒れているということだった。

 ゴルフクラブが床に落ち、ゴトンと音を立てた。

 慌てて、ケージの扉から腕を差し込んだ。指先が体に触れても、チロルはぴくりとも動かない。呼吸もしていない。

 すべてが手遅れだった。チロルは間違いなく死んでいた。

 金網を取り外し、その体を手のひらにのせてみたが、生きていた時の体温はすでに失われていた。

 茜が可愛がっていた、ものまねが上手なセキセイインコ。

 恋人が大事にしていたペットを、自分はみすみす死なせてしまったのだ。

『オハヨ、オハヨ』

『チロルチャン、カーワイイ』

『ゴハンダヨ、ゴハン』

 茜から学んだのであろう、おしゃべりの数々が頭をよぎった。

 しかし、もうチロルが言葉を発することはない。その機会は永久に失われてしまったのだ。

 忠弘は、目の前が真っ暗になった。

 

「大学の卒業旅行で、友達と四日間海外に行くの。悪いんだけど、その間チロルを預かってくれないかな」

 茜がそう言ってきた時、正直なところ、面倒だと思った。「うちのマンションはペット禁止だから」と正当な理由で断ることだってできた。

 しかし、預かるのはたった数日。おしゃべりなインコだといっても、犬と違って吠えるわけではないので、さほど問題はないだろう。それに、やることといえば、水や餌の取り替え、糞の処理のために新聞紙を取り換えるくらいとのことだから、生活にも支障はないはずだ。

 それに、「愛するペットの世話を任せられるほどに信頼をおいているのだ」という、茜からの気持ちを暗に感じていた。

 それゆえに、安請け合いしてしまった。それが間違いだったのだ。結果として、彼女の信頼を自分は裏切ることになってしまった。

 こんなことになるのなら、あの時に断っておけばよかった。

 いくら悔やんでも悔やみきれない。もう、チロルの命は返ってこないのだ。

 忠弘は、額を床にこすりつけて茜に謝り倒す自分の姿を想像した。

 茜はなんと言うだろう。ショックを受けるのは間違いないだろうが、不慮の事故だから仕方ないと言って許してくれるだろうか。あるいは、手がつけられないほど泣き喚いて、忠弘の非を責め続けるか。忠弘にはまったく想像がつかなかった。

 警察の到着を待ちながら、忠弘は呆然として、動かなくなったチロルの体を見つめていた……。




「そりゃあ、災難だったな」

 忠弘の話に耳を傾けていた大智は、そう言って缶チューハイに口をつけた。

「そんなあっさり言うなよ。その後も、警察にも話を聞かれたり、茜に謝ったり、いろいろ大変だったんだぞ」

「……でもまあ、別に盗られたものはなかったんだろ? 少なくとも、お前にとっては物的被害はゼロだったんだ。そう考えたらまだマシだったんじゃねえの?」

 大智はそういって、アルコールの残量を確かめるように、缶を揺らした。

 この男、中島大智は忠弘の大学の同期生である。

 今はお互いに別々の会社で勤め人をやっているが、たまたま家が近いこともあり、たまにこうして互いの家で仕事の愚痴などを肴に、酒を飲んでいる。

 大智は酔った目つきで、ぼそりと呟いた。

「最近、どこも物騒だからな。下手に鉢合わせなんかしたら、お前だって殺されてたかもしれないぜ」

 その言葉に、ぞっと肌が粟立った。

 いわれれてみれば、その通りである。チロルが殺されたショックや、部屋を荒らされた怒り、茜に対する申し訳なさなどで頭がいっぱいになり、その可能性を微塵も考えていなかった。

 もし、相手が凶器を持っていて、ばったり出くわしてしまったら……。

 忠弘は寒気を感じ、思わず腕をさすった。大智はその様子を見て、吹き出しそうな顔を浮かべる。

「……なんてな。犯人もそこまでイカれてないだろ。殺人鬼なんかじゃなく、ただの空き巣なんだから」

 本気なのか冗談なのか、大智は意地の悪い顔を浮かべながら缶チューハイに口をつけた。

「お前なあ、実際、チロルは殺されたんだぞ。洒落にならねえよ」

 忠弘はそう言って、ため息をついた。

「じゃあ、チロルが命をかけて守ってくれたんだよ。そう考えることにしよう」

 大智は、元気を出せと言わんばかりに明るい調子で言うと、忠弘の背中をばしんと強く叩いた。

 忠弘はむせながら、「それが一番の災難なんだよ……」と呟き、部屋の一角に目をやった。

 数日前、チロルの鳥籠を置いていた棚の上。今はそこに何も置いていない。部屋を元に戻し、いろいろと落ち着いた後、鳥籠は茜に返却したのだった。

 忠弘は、事件から今までのことを遡って思い返した。 チロルの遺体と鳥籠を引き取りに来た茜の顔。部屋の片付け。警察の事情聴取……。


 警察の見方はこのようなものだった。

 忠弘の部屋の窓がたびたび開きっぱなしになっていることに気がついた犯人は、以前から忠弘の部屋に目をつけていた。そして、侵入のための折り畳み式の脚立を、あらかじめ近くに用意していた。

 実際、ベランダ下の側溝に隠すように、折り畳み式の脚立が捨てられていた。犯人が、決行の時よりも前に、人目が無い時を見計らってここに放置しておいたのだろう。元々人通りのある場所ではないため、誰も気にとめていなかったのだ。

 犯人はどこかから部屋を見張っていて、忠弘が外出したタイミングを見計らい、その脚立を使ってベランダから侵入した。

 その時、突然の侵入者に驚いたチロルが、暴れて声を上げたのだろう。

 おそらく、犯人にとっては想定外の事態だった。慌てた犯人は、ケージの扉を開けて、チロルをわし掴みにして絞め殺してしまった。

 その後、静かになった部屋で金品を探して部屋を荒らしたが、めぼしいものは見つからず、諦めて窓から退散した……。

 つくづく自分の不用心さが悔やまれ、警察と話しているときは絶えず冷や汗をかいていた。

 また、ペットが殺されたことに着目し、怨恨の線が無いかと疑った刑事もいたそうだが、忠弘自身はその線は無いと考えていた。

 それほどの恨みを買うような覚えはないし、そもそも、チロルは忠弘のペットではない。死なせてしまったことに対する罪悪感はあれど、深い愛情を注いでいたわけではない。チロルの死に傷ついているのは忠弘ではなく、飼い主の茜なのだ。

 

「それで、茜ちゃんはなんて? ちゃんと謝ったんだろ?」

 大智の無遠慮な問いかけに、忠弘は思わず苦笑した。営業畑で日々奮闘しているという友人の神経の太さが、今はすこし羨ましく思える。たまにはこいつを見習わないといけないのかもな、と思いながら、忠弘はレモンサワーを口に含む。

「誠心誠意、謝り倒したよ。許してもらえた……んだと思う」

「歯切れが悪いな」

「まあな。俺が言うのも変だが、そんな簡単に割り切れる問題じゃないだろ」

 忠弘の脳裏に、再び茜の顔が浮かぶ。

 この部屋で冷たくなったチロルと対面し、涙を流していた茜。こちらに恨み言をぶつけるでもなく、ただ、目の前のペットの死を悼み、悲しんでいた彼女の瞳に、忠弘の姿は映っていなかった。

 忠弘はため息をついた。

「認識が甘かったかもしれない。正直、あそこまでショックを受けるとは思っていなかったんだ」

 

 忠弘が、大学の後輩であった茜と付きあいはじめて三年ほどになる。

 忠弘が一足先に就職し、ここ深間坂に引っ越してからも、二人の関係は続いていた。

 茜の方も卒業を間近に控え、学友たちとの卒業旅行で人生初の海外を楽しんでいた。そんな時に、今回の悲劇が起こったのだった。

 忠弘は迷った末、茜が帰国するまで、チロルの件は黙っておくことに決めた。友人たちと楽しんでいる間に、悲しい知らせで水を差すような真似はしたくなかったのだ。

 茜から無事に帰ってきたとの連絡が入った時、忠弘は電話で事の経緯を説明し、ただひたすら謝った。

 取り返しのつかないことをしてしまった、自分の不注意が招いたことだ、申し開きのしようもない……。

 言い訳はしないと決めていた。自己を弁護する言葉はひとつも使わず、説明と謝罪に徹した。

 茜は最初、突然のことで言葉を失っていたが、途中から言葉少なに相づちを打っていた。そして、「すこし考える時間がほしい」といって電話を切ったのだった。

 それからしばらくして、茜から再び電話が掛かってきた。「明日、チロルの遺体を引き取りにいく」という連絡だった。

 

 その翌日、茜はこの部屋で、遺体と対面した。

 三日近くが経過していたが、ガーゼで優しくくるんで冷蔵庫で保管していたため、損傷や腐敗は見られなかった。

 遺体を納めていた箱からチロルの体をそっと持ちあげ、茜は静かに涙を流していた。

 頭を下げて謝る忠弘に対して、茜は『大丈夫、気にしないで』『忠弘は悪くないから』『事故みたいなものだし』と慰めの言葉を掛けた。

『悪いのは泥棒で、忠弘もチロルと同じ被害者だから。もう謝らなくていいよ』

と。

『チロルちゃん、オウチに帰ろうね』

 帰り際に茜が発したその言葉が、いつまでも耳の奥でこだましていた。


 その時のことを思い出し、忠弘は呟くように言った。

「まだ、赦すとか赦さないとか、そういう段階ではなかったんだよ。あの時は、まだ」

 ふうん、と大智は鼻を鳴らした。

「でも、まあお前は悪くないよ。運が悪かっただけだ。あんまり考えすぎない方がいいと思うぞ」

 大智はチューハイを飲み干すと、おもむろに立ち上がった。

「ちょっと、トイレ借りるわ」

 足が痺れたのか、よたよたと歩く大智の後ろ姿を見送った。

 話し相手が席を離れ、すこしぼんやりとしていると、突然頭の中に割り込むように、チロルの声が蘇ってきた。

『チロルチャン、カーワイイ』

『ゴハンダヨ、オイシーイ、ゴハン』

『タダイマ、タダイマ、オハヨ!』

 幻聴にしては生々しく、窓の外からチロルが飛んで戻ってきたような気配まで感じ、思わず振り返った。もちろん、そこには何もいない。

 だらだらと話しているうちに、忠弘の方も酔いが回っていたらしい。

 ふと、茜の部屋で、チロルが話しているところを初めて聞いた時のことを思い出す。

 セキセイインコは小型のインコの中では特におしゃべりが上手なのだと、茜が得意げに話していた。

 しかし、自分の部屋に連れてきてから、こんなにもいろいろ話せるものかとあらためて驚いたものだ。忠弘もなにか新しい言葉を覚えさせてやろうと、同じ台詞を繰り返して覚えさせようとしたりもしたが、けんもほろろだった。茜から学んだ五、六個の台詞のパターンを、ひたすら繰り返すばかりだった。

 チロルは、自然と言葉を真似るようになったのだろうか、それとも、茜が一生懸命覚えさせたのだろうか。茜が、ケージの中のチロルに向かって、楽しげに話しかけている様子を思い浮かべた……。


「そういえば、忠弘。お前、ゴルフ始めたのか?」

 大智の言葉に、はっと意識を取り戻した。

 トイレから出てきた大智が、玄関に立てかけられたゴルフバッグを物珍しそうに眺めていた。

「あ、ああ。先輩でゴルフ好きな人がいてさ、仲間を増やしたいみたいなんだよ。新しいクラブセット買ったから、古いのをお前にやるって言われて……」

「押しつけられたんだな。ベタな手にのせられやがって。もう誘いは断れないな」

「やっぱりそうだよな……今度打ちっぱなしに連れていってやるって張り切ってたよ。なんとかうやむやにできないかと思ってるんだけどさ」

「まあ、いいんじゃないの? やってみたら案外楽しいかもな。俺のところも、いつ部長からお声が掛かるかって感じだし。なんなら今度、一緒に練習にいくか?」

 そう言って、大智はゴルフバッグからアイアンを一本抜き出し、ゆっくりと素振りのような動きをした。

「初めて触ったけど、なんかしっくりくるな。俺センスあるのかも」

「おい、危ないって」

 悪い悪いと、大智は笑いながら、今度はアイアンを野球のバットのように構える。

「もし泥棒と鉢合わせてたら、こいつでガツーンとやれたのになあ」

 平然とした顔で物騒なことを言ってのける大智から、クラブを奪い取った。

「お前、さては酔ってるな。お互い明日も仕事なんだから、もう帰れ」

 

 ごねる大智を帰らせた後、忠弘は、ベッドに腰掛けて残ったツマミを口に放りこみながら、茜との今後の接し方をぼんやりと考えた。

 茜は、もう気にしなくていいと言ってくれてはいたが、それを鵜呑みにはできない。

 謝罪の言葉を並べ立てるだけではなく、気持ちを行動で示さなければない。忠弘はそう思っていた。

 では、どうするべきか……。

 その晩、忠弘は眠りに落ちるまで、茜のことを考え続けていた。

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