雨に語る話 - 5
店のドアベルがけたたましく鳴るのが聞こえ、美紀ははっとした。
「いやあ、まいった、まいった。いきなり降ってくるんだから……」
雨でしとどに濡れたスーツ姿の男が、ぶつくさ言いながら店に転がり込んできた。 マスターは慌てた様子で男にタオルを渡している。
「これは災難でしたな……さあ、どうぞ……」
そのふたりの男のやり取りが、なんだかとても、芝居じみて見えた。
いや、そのふたりだけではない。
こうして諒子と顔を突き合わせて話しているわたしたちの状況も、まるで誰かに用意された舞台の一幕のように思えてくる。
いや、きっとそうなのだろう。そうでなければ、いろいろなことに説明がつかない。 樋口諒子の言っていることには飛躍がある。破綻がある。きっとそうであるはず。だから、わたしは次の台詞で彼女に反論しなければならない。それなのに、わたしの頭には何も言葉が浮かんでこなかった。
「ねえ、折原美紀さん」
諒子が、まっすぐこちらを見つめていた。
美紀は、彼女の目を見ることができなかった。彼女の目を見てしまえば、この世ではないどこかへと吸い込まれてしまう、そんな気がしたからだ。
眩暈がする。息が苦しい。
嫌だ。こんなところにいたくない。でも……ここから動きたくない。
『そこ』には戻りたくない。
美紀は何も言わず、テーブルの端を掴んでいた。
「わたしは、久保田君から話を聞いた後……例の踊り場で起こる異常現象のことを、彼に伝えたわ。『マイナス1のくぼみ』のことを……」
「絶対とは言い切れないけれど……きっと、そういうことなのだろうと、彼にそれとなく伝えたわ。彼は信じようとはしなかったけれど……でも、これは彼が目撃した『折原美紀の不可解な消失』と矛盾しない。むしろ、彼が白昼夢かと思い悩んでいた怪現象を説明できるのよ」
「つまり……あなたは、十二年前に不慮の事故で生まれた、折原美紀の『コピー』なの。本物の彼女はおそらく、中学生の制服を着て、頭から血を流したまま、ずっと踊り場の『くぼみ』の中にいる……」
諒子の言葉が、頭の中で反響する。
この女は何を言っているのだろう。やっぱり与太話だ。作り話だ。わたしをからかうための、手の込んだドッキリに違いない。
「ちがう……ちがうでしょう。そんな馬鹿げた話を聞きに来たんじゃないわ。そうだ、ねえ、久保田君はどこ? わたしは久保田君に用があるのよ」
「言ったでしょう。彼が今いるのは、電話の通じない場所なんだって」
諒子はやれやれと言うように首を振った。
「彼には、『くぼみ』に隠されている真実を確かめてもらっているところなの。高坂さんにも協力してもらってね。そろそろ、彼女から連絡が来る頃合いだと思うけど」
ちょうど諒子がそう言った時、スマホの着信音が鳴り響いた。
「もしもし……高坂さん?」
諒子が通話に出ると、相手の慌てたような声が、美紀の耳にも届いた。
『もしもし……諒子ちゃんの思った通りだった。さっき、久保田君に『くぼみ』の中に入ってもらったわ。そしたら、三階の廊下から血塗れの生徒が出てきたの。階段で足を滑らせて、血を流した本物の折原美紀さんが……彼女、あの時からずっと時が止まっていたみたいね。でも、そのおかげでまだ息はあるわ』
電話口から聞こえてくる高坂の言葉に、諒子は静かに頷いた。
『さっき救急車を呼んだわ。命は助かると思う……それと、そっちの手筈はどうなの?』
「ああ、えーっと、そうね……」
諒子は、スマホを耳に近づけたまま、美紀の顔にちらりと目をやった。
『ねえ、ちょっと。久保田君を元に戻さないといけないんだから、コピーには事情を話して帰ってもらうって、ちゃんと決めたじゃない……』
「……ええ、もちろんわかってるわよ。ちゃんと彼女に伝えるから」
諒子はちらりと美紀の顔を見て、大きくため息をついた。
「こっちの身にもなってほしいわね。残酷な事実を言い渡す役目を押しつけられた、わたしの身にも……」
諒子はそう言って、電話を切ると、こちらに手を差し伸べる。
事情はわかったでしょう?
それじゃあ、そろそろいきましょうか。
久保田君が待っている場所に……。
あなたが戻るべき場所に……。
あの、踊り場のくぼみの中に。
さあ、早く立って。
ねえ。聞こえているでしょう?
諒子が何かを喋っている。こちらに向かって、何かを訴えるように。
でも、わたしには聞こえない。
彼女が言っていることが、わたしには理解できない。
雨が降っているから。
雨が強く降っているから。
雨の音がうるさいから、わたしには何も聞こえない。
この雨がいつまでも降り続けて、わたしをここに閉じこめてくれればいい。
永遠に、この居心地の悪い陰鬱とした町の中に。
いつまでも、いつまでも……。
- 了 -
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