雨に語る話 - 4

――再び、樋口諒子の話――


 一週間前のことよ。

 わたし、この喫茶店で偶然、久保田君に出会ったの。

 わたしはひとりで本を読んでいたんだけど、彼が突然声をかけてきたのよ。

「樋口さんだよね? 深間坂中学校で一緒だった久保田……久保田正康だけど、覚えてる?」

 正直、向こうが名乗らなかったら、まったく気がつかなかったでしょうね。逆に、向こうがわたしの顔を覚えていたことに驚いたわ。

 学生時代はいっさい話したことはなかったのに、「あまりに懐かしくて声をかけちゃった」だって。人見知りのわたしにとっては理解できない感覚だけど、まあ、別に悪い気はしなかったわ。

 すこしお店も混雑し始めていたこともあって、その場の流れで相席することになったの。まあ、こうして偶然出会ったのも何かの縁だろうってことで、旧交を温めていたわけよ。同じクラスのあいつはいま何の仕事をやってるだの、あの時の先生がこうだっただの、お茶をしながら思い出話に花を咲かせていたのね。

 その最中だったわ。

「そういえば……」と、彼は何かを思い出したように、あなたの名前を出したの。

「折原美紀さんって子、覚えてる?」

 正直、あまりピンとこなかったけど、名前は何となく聞き覚えがあった。わたしが曖昧に頷くと、彼は訥々と話し始めたの。

 今さら隠し立てすることでもないから喋っちゃうけど、彼、あなたに気があったそうよ。それで、卒業の間際に告白するつもりだったんだって。

 ええ、本当の話。彼、照れながらわたしにそんな話をしたのよ。まあ、他人の中学生の頃の恋バナなんて興味はないし、何を聞かされてるんだろうって正直思ったけど、話したいことがあるみたいだったし、とりあえず聞き役に徹することにしたわ。

「それで、告白は成功したの?」

 わたしがそう訊くと、彼は首を振った。

「結局、告白はできなかったんだ。いや、気後れしたわけじゃない。想いを伝えるために彼女を呼び出したんだよ。でも、その時に変なことが起こったんだ」

 彼は意を決して、ある日の放課後に、人目がつかないところにあなたを呼び出したそうなの。でも、その場所がまずかったのね。そう、例の南棟の踊り場よ。

「ほら、あそこ、一時期変な噂がたって、誰も近づこうとしなかっただろう? 人気がないのなら告白の場にうってつけだと思ったんだ。他の場所はだいたい、部活動や委員会で人が溢れていたからさ……」

 彼はそう言っていたわ。

 それを聞いた時点で、嫌な予感はしていた。

 あなたは覚えていないでしょうけど……彼からの呼び出しを受けたあなたは、約束の時間よりすこしはやく、踊り場に向かったのよね。

 そして、彼が来るのを待っていた。告白されるのを予感して、そわそわしながら、階段を上ったり下りたりしていたんでしょう……まあ、これはわたしの憶測だけど。

 久保田君は話を続けた。

「約束の時間、踊り場に向かうと、階段の上から彼女の気配を感じたんだ。ああ、折原さんがもう待っていてくれている。そう思って、俺は彼女に向かって声をかけた。そうしたら……」

 彼は、そこで言葉を詰まらせた。

「声をかけたら……どうなったの?」

 わたしが続きを促すと、彼は声を震わせて言った。

「彼女、俺の方をぱっと振りかえって……一瞬、目が合った。その瞬間、階段の上で足を滑らせてしまったんだよ。俺は思わず、あっと叫んだ。彼女は階段を滑り落ちて、踊り場のところで思い切り頭を打った。いや、その瞬間は思わず目を逸らしてしまったんだけど……ごきん、と鈍い音が階段に響いた。金属バットで床を思い切り叩いた時のような音だった。恐る恐る目を開けたら……折原さんが、踊り場の上で血を流して倒れていた」

 わたしはもう、相槌も打てなかった。それでも久保田君は、ぼそぼそと独り言の様に話し続けたわ。

「俺は、倒れた彼女に駆け寄った。頭から、血が海のように広がっていた。眩暈がしたけど、俺は咄嗟に、彼女の身体を持ち上げようとした。それでも、彼女はぴくりとも動かない。でも、口からかすかに呻くような声が漏れたのが聞こえた。『たす……けて……』と、彼女は確かに言ったんだ。まだ息がある。早く助けを呼ばないと……俺はそう思って、彼女の身体を静かに床に下ろして、階段を駆け下りようとしたんだ……そしたら、そしたらさ……」

 ねえ、その先はわかるでしょう。

 彼がそこでみたものは。

 彼の目の前に立っていたのは。

「……そこに、折原さんが立っていたんだよ。何事もなかったかのように、廊下に立っているんだよ。目は虚ろだったけど、血は一滴も流れていないんだ。俺は驚いて振り返った。さっき、たしかに血を流して倒れていた折原さんの体は、どこにも見当たらなかったんだ。踊り場には、血の一滴も落ちていなかった……俺は混乱していたけど、とにかく、目の前の折原さんを保健室に連れていった。なんだか朦朧としているし、前後の記憶も抜け落ちているようだったから……やっぱり、頭を打ったせいなのかと思った。でも、それじゃあ、あの踊り場で血を流して倒れていた彼女はどこにいったんだ? なぜ、無傷で三階の廊下から現れた? 考えれば考えるほど、わけがわからなかった……」

 わたしは、何も言わずに彼の話を聞いていた。その結末はわかっていたけれど、口を挟むことはできなかった。

「俺は、折原さんが廊下でこけて、頭を打ったのだと保健室の先生に説明した。念のため、彼女は病院で詳しい検査を受けることになったけど、特別、異常は見当たらなかったらしい。時間が経つにつれ、彼女は元通りになっていった。それっきり、俺は、もう彼女に告白しようという気は萎えてしまっていた。彼女を不気味に思ったり、嫌いになったわけじゃない。ただ、どうしても……あの時の記憶が、俺の頭から消えないんだ。踊り場で倒れ伏す、血まみれの彼女の姿がさ……なあ、これってどういうことだと思う……いわゆる、白昼夢ってやつだったのかな……」

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