第5話 風の塔に眠る夢

風の塔に眠る夢 - 1

 須藤麻美は、自室のソファの上でふと目を覚ました。

 いつもは耳に入らない時計の秒針の音が、コチ、コチと部屋にうるさく響いている。ぼんやりとした視界の中で、窓から入るゆるやかな風に、レースのカーテンが押し広げられ、テーブルの端をやさしく掠めていくのが見えた。

 麻美は目を覚ましたまま、化石のようにじっと動くことができずにいた。

 まるで、ここからずっと遠く離れた場所にいたような……長い旅を終えて、この窮屈な部屋へと引き戻されたようなもの寂しさが、胸の奥に沈んでいる。

 しばらくして、ゆっくりと重い頭を持ちあげた。身を起こし、ベッド代わりにしていたファブリックソファに静かに座りなおすと、思わずうめき声が漏れた。体の節々が軋むように痛む。身体はまだ完全に眠りから覚めていないらしい。痺れる腕を撫でさすりながら、背もたれに身を預け、長く息を吐いた。

「また、あの夢を見ていたのか……」

 麻美は誰もいない部屋で、そう呟いて、再び目を閉じた。

 頭の中の時計の針を巻き戻すように、夢で見た光景を思い返してみる。


 それは、幼い頃から何度も見た夢だった。

 最初に感じるのは、その身を優しく洗うように通り抜ける風。

 麻美がゆっくりと目を開けると、そこには、見渡す限りどこまでも続く緑が広がっている。

 その大草原を、風が静かに吹き渡る。まるで、透明な巨人が、その大きな腕でゆっくりと撫でつけているかのように、さわさわと緑の大地が揺れている。

 麻美は、たったひとりでその大地のまんなかに立っている。

 白のローブのような服を身に着けて、革のサンダルを履いた、おそらくは十代かそこらの少女。夢の中の麻美はそんな姿をしている。

 ぽかんと空を見上げてみると、突き抜けるような青空のなか、大海原をゆく船団の如き白い雲がゆったりと流れている。それもまた、姿の見えない巨人が思い切り手を伸ばし、それらを押してやっているようだ。

 麻美は、この地に吹き渡る風を全身で受け止めるように、ちっぽけな両腕を伸ばし、深く息を吸う。自分がこの広大な世界においてあまりに儚く弱い、それこそ風でも吹けば飛ぶような、ちっぽけな存在であるように思えてくる。

 しかしその一方で、この風と混然一体となって世界の果てまでも飛んでいけるような、あるいは、この世界の風の流れを手中に収め、意のままに操ることができるのではないかという気にもなってくるのが不思議だった。

 また、その大地を見渡してみれば、天を衝くような高さの塔があちこちに立っているのが目に入った。目の届く範囲では十基ほど。その飾り気のない建造物が、いったい何のために造られたものなのかは、まるで見当もつかない。

 麻美は、しばらくの間、その場に立ち尽くしていたが、やがて近くにある塔を目指して歩み出した。何かはっきりとした目的があるわけではなく、ただ風に誘われるままに歩き始めたのだった。

 近くで見上げると首が痛くなるほどの高さの石造りの塔は、住居として使用されている痕跡がなかった。むしろ、人々の生活から切り離され、忘れ去られつつある古色蒼然とした遺跡のような雰囲気を纏っている。

 そこには、木製の重厚な黒い扉があった。それが唯一、塔の内部へと繋がるものと思われたが、その両開きの扉には何重にも錠がかけられ、固く閉ざされている。

麻美は何気なく、その扉に手を当ててみた。試しに軽く押してみるが、その塔がここで過ごした年月の重さがそのまま掌に伝わってくるようで、当然、微塵も動く気配はない。

 この塔は、いったい何の目的で建てられたものか。

 麻美は扉に手を当てたまま、しばらくそこで茫然と立ち尽くしていた。

 その時、頭の中に何かが語りかけてくるような気配を感じ、麻美は思わず扉から手を離した。

 男の声なのか、女の声なのかも判別できない。あるいは、複数の人間たちの声を束にしたものが、麻美の胸の中に流し込まれてくるような感覚を覚えた。

『……い出して……はやく……』

『……ってるから……ここで……っと』

ハッとして、麻美は飛び退いた。その声は、たしかに扉の奥から聞こえてくるのだった。

 何十年もの間かたく閉ざされ、ちょっとやそっとの事では動くまいと思われたその扉が、わずかに震え、軋んでいるのが見えた。

 それはおそらく、天変地異の凶兆だった。この地を脅かすほどの巨大な生命が、殻を破って出てくるのを目の当たりにするかのようだった。

 麻美はその場から逃れようとした。だが、どうしても足が言うことを聞かず、扉から目を離すことができない。

「そこで何をしている?」

 背後から、太い男の声がした。

 振り返ると、麻美と同じような白い衣服を身に纏った壮年の男が、こちらに怪訝な目を向けている。

「そこに近づいてはならん。ましてや、お前のような子どもがひとりで……」

 男は杖を突きながら、こちらへと近づいてくる。

「この扉から声が聞こえたんです」

 麻美は男に向かって言い放った。目の前で起こっている異変を誰かに伝えねば、という使命感によるものだった。

「今、この扉の中から人の声が……!」

 そう言った途端、男はぴくりと顔を引きつらせ、「ここから立ち去れ! 早く!」と怒号を発した。鬼を思わせる男の相貌に、麻美は思わずその場に立ち竦んだ。

 その瞬間だった。

 めきめき、ぱきりと何かが爆ぜ、砕け散る音がした。

 振り返ると、厳重に掛けられていた錠ごと、扉が砕け散るところだった。木材が撓んだと思った次の瞬間、扉は大きく歪み、音を立ててばらばらに砕け、それらの破片は塔の中へと吸い込まれていく。

 その瞬間、扉の奥の光景が目に入った。塔の中へと繋がっていたと思われた扉の向こう側に広がっていたのは、果ての見えない洞の闇だった。

「逃げろ!」

 男の声が耳朶を打った。それと同時に、麻美の身体がふわりと浮かび上がった。あっと思う間もなく、途轍もなく強い風が麻美の身体を打ち、塔の中の暗黒へと連れ去った。

 洞に吸いこまれる瞬間、男の必死の形相が視界に入ったが、麻美を追って中に飛び込むほどの愚を犯すつもりはないらしかった。

 麻美は、激しい突風に押し流されながら、どこに通じているのかもわからない暗黒の中を、どこまでも転がっていった……。


 コチ、コチと、時計の秒針が、夕刻の薄暗い部屋で空しく響いている。

 麻美は、夢の記憶をひと通りなぞり終えると、ソファのうえで大きくため息をついた。

 これまでの人生で、同じ夢をいったい何度見たのだろう。

 初めてこの夢を見た時のことは覚えていないが、「同じ夢を繰り返し見ている」とはっきり意識したのは、高校生の頃だった。

 最初は、夢で見た景色の断片も、目を覚ました途端に霧消してしまっていた。

「あれ? 同じような夢を前も見た気がする……」

 そんな程度の認識だったのだ。

 だが、何度も繰り返されると、確固たる記憶として定着するらしく、今でははっきりと夢で見たものを頭の中で再現できる。まるで、擦り切れるほど再生したDVDを突っ込まれるレコーダーにでもなった気分だ。

 はっきり数えたことはないが、体感では、少ない時は一、二か月に一度くらいだが、多い時で月に二、三度、この夢を見る。思春期の頃などは、まさか月のものと関係があるのではと疑ったりもしたが、どうやら夢を見る頻度との関連はまったくないようだった。

「バカにしやがって」

 誰にともなく呟いて、麻美は立ち上がった。

 コーヒーでも飲んで気分を切り替えようとキッチンに立ち、薬缶を火にかける。湯が沸くまでの間、シンクに腰をもたれさせながら、またもあの夢のことを考えてしまう。

 現実に幻覚や幻聴をみるわけではないのだから、実生活において直接的に害があるわけではない。

 だが、真綿で首を絞められているような、漠然とした不安が心の中に堆積し続ける。時間が長引けば長引くほど、そのストレスは増えていく。

 この夢はいったいいつまで続くのかと学生時代から思ってはいたが、まさか三十に足を踏み入れようとする時まで続くとは、想像だにしていなかった。

 本当に、いつになったらわたしを解放してくれるのか……。

 ぼうっと考え込む麻美に声をかけるように、薬缶の蓋がカタカタと鳴り出した。

 沸かした湯をインスタントのドリッパーに静かに注ぐと、ほろ苦い香りがふわりと鼻腔をくすぐり、それだけですこし気分が和らいだ。

 いずれ、この夢とケリをつける時が来るのだろうか。

 それとも、何もわからないまま歳をとり続け、老婆になっても同じ夢を見るのだろうか。死の足音が聞こえてくる頃には、毎晩あの夢を見るようになり、果たしてどちらが夢で、どちらが現実かもわからなくなっているのではないか。

 麻美は、風に舞うカーテンをぼんやりと眺めながら、ひとり静かにコーヒーを啜った。

 結局、その日のうちに、麻美の心にかかった靄が完全に晴れることはなかった。

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