遠い月まで吠えるもの - 5

 四人の足は、先ほどよりも早かった。下りの道だということもあっただろうが、それ以上に、一分一秒でも早くこの間多良山から下山したいという気持ちのせいだった。

「おい、なんかおかしいぜ……」

 後方から、チハルが、息を弾ませながら叫ぶ。

「虫の声が全然聞こえねえんだよ。さっきまで、そこら中で鳴いていたのに……」

 カイトも、そのことには気がついていた。だが、口に出すのを恐れていたのだ。異変に気付いてしまうほど、自分が元いた場所から遠ざかってしまうような気がしたから……。

 だから、自分が気がついたもうひとつの違和感についても、自分からは口に出せずにいた。きっと、誰かが言い出さなければならない。誰かがその事実を指摘しなければならないと思いながらも、カイトはただひたすらに、目の前の道を黙って歩き続けた。

 やがて、先頭を歩いていたてっつんが、ぴたりと足を止めた。

「……ダメだ」

 てっつんは、小さく、消え入るような声で言った。

「お前らも気がついてるだろう……拝み岩のところから、もう二十分近く歩いてる。とっくに東の出口に着いていないとおかしいんだよ」

 てっつんは振り返って言った。

「気のせいじゃない。何でか知らんが、さっきから同じ所をループしてる。この遊歩道から出られないかもしれない」

 他のふたりも、その可能性にうすうす気がついていたようだ。さほど驚いた様子も見せず、深々とため息をついてその場に座り込む。

「やっぱり、そうだよな……」「いったい何だよ、これ」

 カイトは、拝み岩からここまでの道のりを思い出していた。

「……ここまで怖くて言い出せなかったんだけど、木の間から見える外の景色の繋がりが、なんだかちぐはぐだったんだ。山の下の方を歩いていると思ったら、次に視界が開けた時には町を上から見下ろすような高さになっていた。そういうことが何度も続いたんだ」

 三人は、黙ってカイトの言葉に耳を傾けている。

「えっと……つまり、遊歩道の西口と東口を繋いだ、環状の単純なループではないんだと思う。遊歩道の中の景色を断片的に切り出して、それを雑に貼りつけて並べたような感じだ」

「それがどうしたよ」

 地面に腰を下ろしたまま、チハルがこちらを睨む。

「歩き通しで疲れてるんだよ。ちょっと静かにしてくれ」

 その言い草に、カイトは思わず舌打ちする。

「お前なあ、こっちはなんとかしようと思って言ってんだ。このままだと山から下りられないかもしれないんだぞ」

「わかってるよ。だからちょっと落ち着いて考えさせてくれって……」

「お前ら、ストップ、ストップ」

 リョータが間に入り、カイトもチハルも口を閉ざした。

「チハルは特に疲れてるだろうから、ちょっと休んどけ……えっと、俺が考えるにだな、この遊歩道がループしてるんだったら、いっそこの道から外れてしまえばいい。野山を突っ切ってしまえば、町に下りられるんじゃないかと思うんだが、どうだろう」

「そう上手くいくかわからないけど、試してみる価値はあるな……」

 てっつんは、小さな声で言った。恐らく、自分が今夜の集まりの言い出しっぺであることに責任を感じているのだろう。

「……じゃあ、あと五分ほど休んだら、ここから下りてみよう。今の景色を見る限りでは、すぐに下に辿りつくはずだ」


 しかし、その思惑は外れた。

 草木をかき分け、転がり落ちそうになりながら急斜面を下りていった先に辿りついたのは、先ほどの遊歩道だったのだ。

「なんとなくそんな気がしてたよ、くそったれ!」

 そう言って、リョータは木の根を蹴飛ばした。

 カイトも、がっくりと肩を落とす。薄々はこうなる予感はあったが、それでも落胆は大きかった。道の上を歩いてもダメ、道を外れてもダメとなると、いったいどうすればよいのか、皆目見当もつかない。

 先ほどまでは、体力のないチハルを気遣っていたが、他人に構う余裕もそろそろなくなってきた。なにしろ、もうトータルで一時間以上、傾斜のある道を歩いているのだ。さすがに、足に疲労が溜まってきている。

 このまま夜が更けても、日が昇ってまた沈んでも、この山から出られないのではないかと思うと、気が変になりそうだった。

 万策尽きたとばかりに、四人は道の上で寝そべった。

 カイトの背中に、コンクリートのごつごつとした感触と、湿った冷気が伝わってくる。枝葉の間から、夜空が垣間見えた。さきほどまでは気がついていなかったが、満天の星々が夜空を埋め尽くしている。

「綺麗だな……」

 チハルがぽつりと呟いた。

 ふと、カイトは、以前呼んだ本で仕入れた知識を思い出す。

「人間の瞳孔って、暗闇の中で三十分以上かけてゆっくり開いていくんだと。だから、星空を観察する時は、時間を掛けて暗闇に目を馴らさないと、光の弱い星は見えないんだって……」

「へえ、そりゃ有益な情報だな」

 チハルは、心底感心したように言った。

「呑気に天体観測かよ」

 てっつんは笑って言った。

「ああ、でも本当に綺麗だ……ん?」

 リョータが、何かに気がついたような声をあげた。身を起こし、何かを探すように夜空を凝視している。

「なんだ、どうしたリョータ」

「いや。今のカイトの話を聞いて思い出したんだが、満月の時はこんなに綺麗な星は見えないんじゃなかったか? 月が星の光をかき消してしまうから……」

「ああ、そういえば……」

 今夜は満月。満天の星空が見えているのはおかしい……。

「やっぱりおかしいぞ……月がない。満月がなくなってる」

 リョータの言う通りだった。月の姿を探すまでもない。山に足を踏み入れた時に見た夜空と、明らかに空の様相が一変しているのだ。

「わけがわかんねえ。いったい、何が起こってるんだよ」

 てっつんは、頭を抱えた。

「来なきゃよかったんだ、こんな所に……」

 カイトは、てっつんの嘆きを聞きながら、呆然と夜空を眺めた。天体に詳しいわけではないが、オリオン座などの見覚えのある星座も見える。目の前に広がっているのは、毎年やってくる秋の星空であるはずなのだ。

 だが、まるで別の宇宙に来てしまったような途方もない孤独感が、カイトの心に押し寄せていた。カイトの直感は、こう語っていた。

 ここは、間多良山に見えるが、間多良山ではない。深間坂に見えて、深間坂ではない。ここはもはや、自分の知っている世界ではないのだと……。

 ふと、星空のある一点が目にとまった。

 微妙な違和感……。

 星屑が埋め尽くす夜空にあって、一カ所だけ、光の存在しない虚ろな空。まるで、星空を丸く切り落としたような……。

 じっとその一点を見つめていると、それの正体がだんだんとわかってきた。

 それは、漆黒の月だった。宇宙の闇を集めて固めたような、ブラックホールを思わせるほどの黒を纏った月だった。

 月はなくなってなどいなかった。自分たちの目の前に、たしかに存在していのだ。だが、その姿は、カイトの知っているものとはかけ離れている。正反対といってもいい。

 そこにはもはや、月光という言葉は存在しない。自身の躯で受け止めた陽の光を、優しく夜の世界へと注ぐような情愛は感じられず、そこにあるのは底無しの欲望である。自らに近づくありとあらゆる光を呑み込み、決して外に逃すことのない貪欲……。


 ウオオーーーーーーン……


 ウオオオーーーン……

 ウオオオーーーン……


 それは、あまりに突然のことだった。

山のどこかから響き渡った遠吠えに、四人は弾かれたように立ち上がった。

「この遠吠えは……」

 カイトは、てっつんの顔を見る。てっつんは、こちらを見返して頷いた。

「俺が聞いたのと同じやつだ!」

 てっつんがオオカミの遠吠えだと考えたのもむべなるかな、たしかにそれは大型の凶暴な肉食獣を思わせる発声だった。

 そして、四人の心中に浮かんできたのは、目的のものに辿りついた喜びなどではなかった。

 自分たちは今、間多良山という名の迷宮から抜け出せずにいる。そして今、巨大な獣がすぐ近くに出現したのだ。そこにあるのは、生物としての生存本能が発する、圧倒的な恐怖だけだった。

「どうする、どうしたらいい?」

「とりあえず、オオカミから距離を取らないと……」

「今、どっちから聞こえた? どこにいるんだ?」

 全員がパニック状態で動けずにいた。なにしろ、この山の道はどこに続いているのかわからないのだ。逃げているつもりでも、突然目の前からオオカミに出くわすかもしれない。下手に動くことはできないのだ。

 だが、ずっとこの場にとどまっているわけにもいかない。こんな視界の開けた場所にいては、すぐに見つかってしまう可能性が高い。

「とにかく移動しよう。行く当てはないけど、ここにいるのは危険だ」

「でも、どうする? 移動しても、またここに戻ってくるかもしれないんだぞ」

「いや、望みはある……」

 カイトは言った。恐怖のせいか、口から出てくる言葉が震えた。

「拝み岩に戻るんだ……あそこですべてがおかしくなった。こうなった理屈はさっぱりわからないが、元に戻れる可能性があるとしたら、あの場所に鍵があると思う」

 それは、単純な思いつきだった。自分自身が縋るものを求めた結果、口から飛び出た安直な考えだったかもしれない。だが実際に口に出してみると、不思議と希望が湧いてくる気がした。

「そうか……そうだな」

 他の三人も、顔をあげて同調する。

「しかし、この道はもうメチャクチャなんだろ? 拝み岩のところまでたどり着けるかな」

「それはわからない。でも、あの地面が歪んだ感覚の後、俺たちはそこから歩いてきたんだ。ちゃんとここから地続きになっている……はずだ……と思う」

 カイトは自信なげに言った。だが、こんな状況にでは確信も何もない。とにかく行動あるのみだった。

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