遠い月まで吠えるもの - 6

 最初に山をのぼり始めたときと同じ方向、すなわち東から西に向かって、四人は遊歩道を走り始めた。

 先を急ぎながらも、周囲の景色を常に警戒する。ツギハギ状態の道の景色は目まぐるしく変わり、道幅が広くなったり細くなったり、平坦になったり上り坂になったりする。拝み岩のある場所をうっかり通り過ぎてしまうように気をつけなければ……。

「この辺じゃないのか?」

 てっつんが叫んだ。

「ほら、この街灯。チハルがもたれて休んでいたところだ」

「ああ、間違いない」

 そこで足を止め、草木をかき分けて拝み岩に近づいた。果たして、そこに拝み岩があった。その見上げるほどのふたつの巨岩は、先ほどと変わらない様子で四人を迎え入れた。この歪んだ世界で、この拝み岩だけが唯一変わらないように思えた。

「頼みます、神様か仏様かわからないけど……俺たちを元の世界に戻してください」

 てっつんがそう言って、一歩前に進んだ時だった。

「うっ……」

 鼻を殴られたような衝撃が走り、カイトは思わず、両手で顔を覆った。

「おえっ」「ぐっ……」

 他の三人も、顔を覆ってその場にくずおれる。

 これは。獣のはらわたの中に放り込まれたような、この酷い臭いは。


 のそり。のそり。


 それは、大地を歪めるような足音とともに、拝み岩の向こう側から姿を現した。

 三メートルはあろうかという拝み岩を、ゆうに見下ろす巨体。

 それは、確かにオオカミの形をしていた。とんがった耳、真っ白な体毛、つり上がった目、そして、口からはみ出た牙……。だが、その体躯は、オオカミのものというにはあまりに巨大すぎた。

 カイトは理解した。住宅街にまで漂ってきたという強烈な獣の臭い。町中に響き渡ったサイレンのような遠吠え。てっつんが言っていた「オオカミ」とは、間違いなくこの怪物のことだ。

 目の前の巨獣は、拝み岩を胸元に抱え込むように立ち、こちらを見下ろしている。牙の間からあふれ出した涎が糸を引き、地面にしたたり落ちて、ぽとりと音を立てた。

 その瞬間、四人は弾丸のように、拝み岩の中央の隙間に駆け込み、その中に体を押し込んだ。

 当然、事前に申し合わせをしたわけではない。それは四人が言葉を交わさないままに、同時に行った咄嗟の判断だった。

 四人の体が押し合いへし合いしながらも、窮屈な岩の隙間になんとか収まる。

 ごうごうという雷轟のような唸り声が耳朶を打つ。

 もっと奥へ。オオカミの爪が届かない奥へ。考えることはそれだけだった。

 四人の間に言葉はなかった。理屈も交渉も通じない獣を目の前にして、四人は、自分も一匹の獣に過ぎないのだという現実を、痛いほどに感じていた。

 一番最後に岩に逃げ込んだのは、チハルだった。チハルは体を奥に押し込もうと、足を必死にばたつかせる。

 その足をなんとか捕らえようと、外側からオオカミの巨大な爪が伸びてきて、地面をがりがりと引っ掻いている。

 充満する強烈な臭いを堪え、間に挟まれたカイトは、チハルの体を奥へと引っ張る。

「もっと奥いってくれ!」「無理だ! 奧に鉄柵がしてある、これ以上いけねえ!」

 狭い岩の間で、押しくらまんじゅうの状態が続く。オオカミの爪は、この中まではギリギリ届かないようだが、外で待ち伏せをされたらどうにもならない。一時しのぎはできても、ジリ貧の状態だ。

 それに、あの怪物の巨体なら、ひょっとしたらこの岩を崩すこともできるのではないだろうか。もしそうなれば、一巻の終わりだ。皆ひとり残らず、奴の爪でバラバラに解体されて、胃の中に収まることになるだろう。どうか、助けてください、神様、仏様……。

 怪物の唸り声を聞きながら、皆が祈った、その時だった。

 ぴたり、とオオカミの爪が動きを止めた。今のいままで、執拗に攻撃を続けていたオオカミが、するりと前脚を引っ込めたのだ。

「……?」

 いったい、何が起こったというのか。

 岩の奥に体を押しつけたまま、外を覗いてみる。その隙間からはオオカミの顔を見ることはできないが、どうやら、首をあちこちに巡らせて、何かを探しているような様子だった。

「何やってんだ、あの化け物は……」「何でもいい。このままどっか行け」

 四人は声を潜めながら、事態が好転することを祈った。救いの手を差し伸べてくれるのなら、何だっていい……。

 そんな四人の耳に届いたのは、あまりに意外な鳴き声だった。


 ワン、ワン。

 ウオン、ウオン。


 犬の鳴き声……?

 間違っても、さっきの怪物の声などではない。日常で聞き慣れた、どこにでもいる飼い犬の吠える声だ。

 そう、例えば、仙人の庭で飼われているような……。

 ハッとして、カイトは外の景色を覗いた。

 オオカミは、こちらに背を向けて、自分の足元にいる小さな動物に向かって唸り声をあげている。

 そこにいたのは、一頭の雑種犬だった。そして、カイトの記憶が正しければ、それは仙人の庭で鎖に繋がれていた犬のうちの一頭に違いなかった。

 よく見ると、オオカミと対峙しているのはその一頭だけではない。仙人が連れていた五頭の犬が、目の前の怪物を取り囲むように控えているのだ。だが……。

「無茶だ」

 思わず、口に出していた。

 五対一。数だけを見れば優勢だが、そんな頭数では到底埋まらない戦力差であることは明白。それはあまりに無謀な戦いに見えた。

 オオカミは、地面を蹴り上げたかと思うと、目の前の一頭に飛びかかった。

「ああっ!」

 岩の隙間から顔を出して様子を見ていた四人は、思わず悲鳴を上げた。

 次の瞬間、目の前で繰り広げられるであろう酸鼻極まる光景を想像し、思わず目を細めた……。

 だが、実際に起きたのは、誰にも想像しえない事態だった。

 確実に犬の体を捉えたかと思われたオオカミの爪は、そのまま空を切って、地面に突き立ったのだ。

「……え?」

 カイトたちは、ぽかんとしてその様子を眺めた。

 空振り? 狙いを外したのか? いや……違う、そうじゃない。

 振り下ろされたオオカミの腕が、犬の体を突き抜けているのだ。まるで、立体映像のように、犬は平然とその場に立ち、オオカミを見上げている。

「なんだあ、ありゃあ。ホログラムか?」

 それを合図にするかのように、困惑するオオカミの周りを、犬たちがぐるぐると走り始める。

 オオカミは目にとまった犬に攻撃を仕掛けるが、先ほどと同じでまったく手応えがないようだ。まるで、犬たちの亡霊が群がり、オオカミを翻弄しているようだった。

 突如、オオカミの動きが止まった。そして次の瞬間、巨木が倒れるような音を立てて、ドスンと地面に倒れ伏したのだ。

「なんだ、目を回したのか?」と、てっつん。

 するとリョータが目を細めて言った。「いや……違う、よく見てみろ。あいつらの首輪」

 目を凝らしてよく見ると、五頭の犬がつけている首輪から、紫色の細い糸のようなものが伸びており、それがオオカミの体に十重二十重に巻きついているのだ。

「あれで、あの化け物を縛っているんだ。すごいな、よく訓練されてる」

 リョータは唸った。

「攻撃が届かないのは、どういう理屈なんだ?」

「そんなん俺が知るかよ」

 しばらくすると、五頭の犬は同時に動きを止めた。そして、その中心で寝転がっているオオカミは、口を開く自由も与えられず、ふごふごと鼻息を漏らすばかりである。

 四人は、オオカミが身動きをとれないのを確認すると、恐る恐る拝み岩の間から這い出た。

 この怪物を制圧した犬たちは、まるで何事もなかったかのような純真無垢な瞳で、四人を見つめている。

「とりあえず、助けてくれてありがとうな」

 てっつんが、犬の頭を撫でようとすると、やはりというべきか、その手は犬の体をすり抜けた。

「本当に触れねえんだ。こんなにはっきり見えてるのに……」

 てっつんが困惑気味に呟いた、その時だった。

「ほいほい、お疲れさん、と」

 拝み岩の後ろから、仙人がひょっこり姿を現した。

「お前さんらも、災難やったなあ。でもまあ、これもええ経験や。こんなもん、なかなかお目にかかれへんで。はっはっは……」

 仙人は、手に持った錫杖のようなものを地面に突き立てながら、心底楽しそうに笑った。

 四人は言葉を失い、ぽかんと仙人の顔を見つめる。

「見ていたんですか、ずっと……」

 リョータが怒りと呆れが入り交じったような声で言った。

「まあ、そうつっかかるな。ちゃんと説明したるさかい。その前に、ほれ……こいつを処理せんと」

 仙人は、オオカミの前にひらりと躍り出る。

 オオカミは地面に倒れたまま、殺気に満ちた目を仙人に向けた。

「すぐに楽にしたるから、そう怒るな」

 仙人は手を合わせてむにゃむにゃと呪文のようなものを唱えると、錫杖をしゃんと鳴らした。よく見ると、そこからも紫の糸が伸びてオオカミの体に巻きついているようだ。

「ほうれ、元の世界に帰りなさい」

 そう言って、錫杖をくるりくるりと二回転させる。

 その途端、あの時と同じ、大地が波打つような奇妙な感覚が起こった。先ほどはほんの一瞬だけだったが、今回はずっと続く眩暈のような揺れを感じる。

 てっきり、仙人がその神通力でもって地震を引き起こしたのだとカイトは思った。だが、その考えも間違いだとすぐに気がつく。地面が揺れているのではない、空間そのものが捻じれて、歪んでいるのだ。

 その証拠に……とても信じがたいことだが、オオカミの身体が液体のようにぐにゃぐにゃに形を変えながら、どんどんと小さくなっていく。まるで、身体の真ん中に突然現れたブラックホールに吸い込まれていくようだった。

 オオカミは唸り声か悲鳴かも判然としない声を漏らしながら、その存在を失い続け、やがて完全に虚空へと姿を消してしまった……。

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