雨に語る話 - 2
――樋口諒子の話――
さて、南棟の階段で起こった、怪奇現象の話ね。
正確にいえば、三階から屋上へ上がる途中にある、踊り場で起こったことなんだけど。
わたしは、その踊り場の怪しげな噂を聞いた時、自分でも不思議なくらい、いてもたってもいられなくなった。
それまでは、心霊現象や都市伝説みたいな話には、まったく関心がなかったの。むしろ、そういうオカルトじみたことを楽しそうに話している人を見ると、内心、小ばかにしていたかもしれない。態度には出さないけれど、「そんなこと本気で信じてるの? バカじゃない?」ってね。
でも、いざ自分の通っている学校でなにか不可思議な現象が起こったらしいと聞くと、俄然興味がわいてきた。我ながら節操がないとは思うけど、やっぱり真偽を確かめたいという気持ちが働くのよね。信じがたいけど、火のない所に煙は立たぬともいうし、煙の出どころを確かめようと思ったわけよ。
まあ、あれこれと理屈をいっても、結局わたしもそういう妖しげな話に惹かれる子どものひとりに過ぎなかったってことね。
わたしは、事の詳細を聞くために、ある人を頼ることにした。
……え? 目撃者に直接話を聞きにいったのかって?
まあ、それが一番手っ取り早くて確かなんでしょうけど。でもその場合、当事者の生徒……つまり、皆から恐れられていた上級生たちに話を聞くことになるわけでしょう。いくら興味津々だったとはいえ、わたしにはさすがにそれほどの行動力も胆力もなかったわ。
その代わりに訪ねたのが、同級生で図書委員の高坂いずみさんだった。
彼女のこと覚えてる?
……まあ、そうよね。彼女、わたしよりも地味だったし。というより、あえて目立たないようにやり過ごしていたって感じだけど。
とにかく、図書委員の高坂さんは、そういう類の話が大好きで、日々、色々な情報を収集しているっていう話を聞いたことがあったの。そんな彼女なら、当然、例の踊り場の噂についてもなにか知っているはず。わたしはそう思って、ある日の放課後、彼女のもとを訪れたの。
彼女は、図書室のカウンターに座って、眉間にしわを寄せながらじっと本を読んでいた。
うわあ、なんだか気難しそう。読書の邪魔をして怒られないかな、なんて思いながら、恐る恐る声をかけたんだけど、意外にも気さくに応えてくれたわ。
むしろ、わたしが踊り場の話を聞きたいことを伝えると、彼女は嬉しそうに教えてくれた。『あなたもあの噂に興味あるの?』なんて、目を輝かせてね。
彼女も、誰かに話したくてうずうずしていたんでしょうね。わたしは頷くと、彼女は、どこから話を仕入れたのか、ためらうことなく事件のあらましをわたしに教えてくれたのよ……。
その日から遡ること二週間ほど前、ある日のお昼休みに、それは起こったそうよ。
当時、三年生たちがいつものように踊り場の周辺で集まっていたの。複数の生徒が階段に腰かけて、ボール遊びをしたり、気に入らないクラスメイトや教師の陰口を叩いたりしていた。
まあ、行儀は悪いけど、教師たちも見て見ぬふりをしていたわね。どうせ注意したって聞く耳持たないような連中だし、教室内でうるさくするくらいなら、校舎の隅の方にかたまってくれている方がいくらかマシだと思っていたのかもしれない。まあ、褒められた行為ではないのは間違いないけどね。
彼らが談笑している時、その中の一人が、踊り場で横になったそうなのね。
こう、頬杖をつく感じで。ごろんと、床に寝そべったのよ。
ええ、汚いと思うでしょう? でも、お仲間たちも階段を椅子代わりに腰かけていたわけだし、そういうところ、あまり気にしていなかったみたいね。不良の溜まり場なんて、そんなものかもしれない。皆いつも通り、何も気にすることなく、そのまま駄弁っていたそうよ。
でも、彼らの目の前で、驚くべきことが起こった。
その、床に寝そべっていた男子生徒……名前はたしか、三島恭平っていうらしいけど……彼がすこし姿勢を変えようと、身体を移動させのね。
その途端、彼の姿が忽然と消えたの。
目撃者のひとりが言うには、ふっと、蝋燭の火を吹き消すような感じだったって。
まさに、煙のように消えたのよ。
あまりに突然のことで、まわりの生徒たちは何が起こったのか理解できなかった。
……ええ、そうよ。あの踊り場で、人間がひとりいなくなったの。驚いたでしょう。というより、信じられないわよね。そういう顔してるもの。
でも、ちょっと待ってね。この話にはまだまだ続きがあるのよ。
彼らは、きょろきょろとまわりを見回して、消えた三島恭平の姿を探した。でも、やっぱり彼はどこにもいない。彼が寝転んでいたところの床や壁に触れたりしたけれど、抜け穴やどんでん返しなんてあるはずもない。そこはごく普通の、リノリウムの床だった。まあ、忍者屋敷じゃあるまいしね。
みんなが困惑し、どうしようかとお互いの顔を見つめているとき、ある生徒が、階下を指差して「あっ」と声をあげたの。彼が指した先を見ると、三階の廊下に、虚ろな目をした三島恭平が立っていた。
瞬間移動?
まあ、そう思うわよね。彼らも同じことを考えたらしいわ。
方法も目的もわからないけど、どうやら三島は、俺たちを驚かせるために、何か大掛かりな仕掛けを用意したらしいと。
でも、すぐにそうではないことに気がついた。
三階の廊下に現れた三島の様子が、なんだかおかしかったのよ。意識はあるのだけれど、前後不覚というのか、声をかけても朦朧とした様子でぼうっと突っ立ったまま。
こいつはいったいどうしてしまったんだろうとみんなが訝しんでいると、そのうちのひとりがまた「あっ」と声をあげたのよ。「こいつおかしいよ、偽物じゃないか?」と。
彼が、それを看破できたのは、まったくの偶然といっていいでしょうね。
その日の午前中にあった体育の授業中、三島は左手に怪我を負ったそうなの。手の甲を擦りむいただけだったけど、念のために包帯を巻いて過ごしていたらしいわ。
でも、目の前の三島にはそれがなかった。包帯はもちろん、怪我ひとつなかったそうよ。
目の前にいる男が偽物だと理解した彼らは、三島を踊り場の方に連れていった。三島は特に抵抗することもなく、彼らに手を引かれるまま階段をのぼり、また彼らに言われるまま、踊り場に寝転んだ。
え? 何のためにって? もちろん、偽物の三島恭平を送り返すためよ。
どこに送り返すかって……あの世とか冥界とか言われる場所じゃないかしら。この世ではないどこか、というやつね。
いや、まあ……もちろん、彼らもそこまで筋道立てて考えて行動していたわけではないと思う。
おそらく、その時の彼らはこんな風に考えたんじゃないかな。
「本物の三島恭平が、踊り場で突然姿を消した。それと同時に、偽物の三島恭平が姿を現した。本物を取り戻すために、偽物は送り返さないといけない。そのためには、さっき三島が姿を消した場所に、偽物のこいつを送りこまないといけない……」
こんなところでしょうね。推測したというより、直感に従ったんじゃないかしら。
でも、結果的に、彼らの直感は正しかった。
彼らは、偽物の三島恭平を踊り場の同じ位置に寝かせてみた。すると、偽物は先ほどと同じようにその姿を消したの。それと同時に、右手に怪我を負った本物の三島が帰ってきた。三階の廊下に、困惑した様子で立っていたらしいわ。
彼は何が起こったのか理解できず、ただ困惑していたそうよ。
「今、何が起こったんだ?」ってね。
あの場所で何が起こったのか、理解してもらえたかしら。
端的に言えば、あの踊り場は、飲み込んだ人間の『コピー』を生みだすことができるのよ。
意味が分からない……? そうよね。高坂さんからこの話を聞いたとき、わたしだって信じられなかったもの。
これは高坂さんの仮説だけど、その踊り場には、目に見えない落とし穴のようなものが隠されているんだって。彼女はそれを、『マイナス1のくぼみ』と呼んでいたわ。つまり、真っ平に見えるその踊り場の床に、人間がひとり入れるだけの、わずかな『くぼみ』があったのよ。三島恭平は、偶然、そこに落ちてしまったというわけ。
例えばだけど……そう、このコーヒーフレッシュを見て。
蓋を剥がして、ここに小粒の氷を入れてみる。そうすると、氷が容器のなかに姿を隠すかわりに、こんな風に中の液体が溢れてくるわね。
あの踊り場では、これと同じようなことが起きているのよ。人間が『くぼみ』に落ちて姿を消すと同時に、そこから押し出されて飛び出した未知の物質が、その人間の姿を模して形を成し、人間の『コピー』として現れる。まるで、世界の均衡を保つようにね。
三島恭平の怪我のことから推測するに、数時間から数日前の過去のデータをもとに、『コピー』は造られるみたい……なんて、これ全部、高坂さんの受け売りだけどね。
いやいや、妄想なんかじゃないわ。それに、まだこの話には続きがあるの。
三島恭平の消失と、彼の『コピー』を目の当たりにした彼らは、それを恐れるどころか、面白がって『くぼみ』の中に一人ずつ入っていったそうなの。
呆れを通り越して、笑っちゃうわよね。向こう見ずというのか、怖いもの知らずというのか……。
でも、少なくとも三島は無事に戻ってきたわけだし、「一時的に自分という存在がこの世から消えてなくなる」というのがどんな感覚なのか……。それを知りたいという気持ちは、正直わからなくもないけどね。
それに、結果的にいえば、彼らがそうして自分たちの身を投げうってくれたからこそ、踊り場の怪奇現象の実態が掴めのだから、感謝しなければならないわね。もちろん、彼らには一切そんなつもりはなかったでしょうけど。
とにかく、三島たちの身を挺した実証実験から、踊り場に潜む『マイナス1のくぼみ』の仕組みや特徴がだいたい推測できたわ。
まず、その『くぼみ』に落ちるには、踊り場のなかの、ある一か所に寝転ぶ必要があるということ。
その踊り場のどこでもいいというわけではないし、立ったままでも駄目。ちゃんと身体を横にしないと、『くぼみ』に入ることはできないの。だから、三島恭平が『くぼみ』に落ちたのは、ものすごい偶然だったのね。
そしてもうひとつ。『コピー』は同時に二体以上生まれないということ。
これ、どういうことかわかる?
例えば、Aという人間が『くぼみ』に入ったとしましょう。すると、その『コピー』であるA´が現れる。この状態のまま、Bが新たに『くぼみ』に入ろうとした時、どうなると思う?
この場合、B´は現れない。『くぼみ』のなかにいたAが押し出されて出てくるのよ。
さっき言った通り、『くぼみ』には人間はひとり入る分だけのスペースしかないわけだから、Bが入ってくると同時にAははじき出されてくるっていう寸法ね。ああ、スペースっていうのは言葉の綾よ。実際に床下に人が隠れられる空間があるわけではないからね。
でも、こうなると、AとA´が同時に存在することになるわね。まさにドッペルゲンガーのような有様ね。これを元に戻すには、A´を踊り場に寝かせて、『くぼみ』のなかに帰さなければならない。そうすれば、Bが『くぼみ』から出てきて、元通りというわけ。
これが、東階段の踊り場で起こった怪奇現象の全容。
……これだけ説明しても、まだ信じられない?
でもまあ、そうよね。さっきも言ったけど、最初はわたしも信じられなかった。だから、自分から聞いておいて何だと思われるかもしれないけど、高坂さんに言ったのよ。
「さすがにそんな話、信じられない」って。
そうしたら彼女、怒るどころか、その反応を待ってましたといわんばかりに、目を輝かせてわたしの手を取って言ったわ。
「じゃあ、今から確かめにいかない?」ってね。
なるほどそう来たか、と思ったわね。
彼女は揚々と自分の立てた仮説について語っていたけれど、その時点ではあくまで仮説。彼女はそれを自分の目で確かめたくて悶々としていたんでしょうね。でも、そのためには協力者が必要不可欠だった。
わたしが彼女の前に現れたのは、彼女にとって渡りに船だったのでしょう。わたしからしてみれば、飛んで火にいる夏の虫という感じだったけど。まあ、長々と説明してもらった手前、断るわけにもいかないからね……。
それで、高坂さんに引っ張られるようにして、すぐに現場に向かったわ。東棟の三階から、屋上へと向かう階段をのぼり、その途中にある、問題の踊り場へ。
放課後の遅い時間だったし、怪奇現象の噂が広まっていたせいもあって、さいわい人気はなかったわ。わたしたちは、ふたりで床に寝そべって、『くぼみ』の場所を探った。芋虫のようにずるずると地面を這いずりながら……傍から見れば、恐ろしいほど滑稽よね。
わたし何やってるんだろう、と思いながら、ふと、高坂さんの方に目をやった時、それは起こったの。
ほんの一瞬の出来事だったけど、わたしはこの目ではっきりと見た。高坂さんの体が、虚空に吸いこまれるように、すうっと消えていく瞬間を。
こう、しゅぽんっと、下から待ちかまえていた大きなストローに吸われたような感じだったわね。
「えっ?」
わたしの間抜けな声が階段に反響した。わたしはその寝転んだ姿勢のまま、ぱっと階段の下を振り返った。そこには高坂さんが立っていた。
ああ、彼女が言っていたことは本当だったんだ……。
「すごい、本当だったのね!」
わたしは思わず彼女に向かって声をかけたけど、彼女は虚ろな目でこちらを見るだけだった。
ああ、そうか。あれはさっきまで話していた彼女と同じ人物ではない。あれは生まれたばかりの『コピー』なんだ。
わたしは恐る恐る高坂さんの『コピー』に近づいて、その手を取った。さっきまでいきいきと話していた彼女とは打って変わって、ぼんやりとした目で、静かに呟いた。
「あなた、いったい誰……?」
そういえば、わたしはさっき、図書館で高坂さんに会ったばかりだった。今、わたしの目の前にいるのは、数時間前の記憶を引き継いだ『コピー』なのだから、わたしのことなんて知る由もないのよね。
わたしは「いいから、こっちに来て」と彼女の手を引いて、階段をのぼった。彼女はおとなしくついてきた。まるで、年の離れた幼い妹を連れているみたいだったわ。『コピー』が生まれてしばらくは、ああいう半覚醒の状態が続くらしいわ。
階段をのぼりながら、手にびっしょり汗をかいたのを覚えてる。
早く、高坂さんをもとに戻さなきゃ。もし、この『コピー』が戻らずに、永遠にこのままだったらどうしよう……。そんなことを考えて、心臓がバクバクしていたわ。
でも、それは杞憂だった。高坂さんが消えた辺りに『コピー』を寝かせると、さっきと同じように、吸いこまれるように消えていったわ。
それを見てほっとした途端、「成功したのね!」と、階段の下から声が聞こえた。
「やっぱり、わたしの説は正しかったんだわ……!」
それは、戻ってきた本物の高坂さんの声だった。彼女の言う通り、仮説はこれで立証されたのよ。
その後、高坂さんに頼まれて、わたしも『くぼみ』に落ちることになった。気は進まなかったけど、高坂さんに、どうしても自分の目で人間の『コピー』を見てみたいって拝み倒されてね。
「絶対にすぐに元に戻してよ? 絶対よ?」
わたしはそう何度も念に念を押して、『くぼみ』の中に入り込んだ。
『くぼみ』の中に落ちていた時の記憶……?
そうね、はっきりとした記憶があるわけじゃないんだけど……。
どこまでも続く真っ白な空間に、ずっと浮かんでいたような気がするのよね。真っ白というより、ただの何もない空間だったのかも。時間の感覚もなかったんじゃないかな。現実ではせいぜい数分間の出来事だったんでしょうけど、その間のわたしの意識は、プランクトンにでものりうつって、今後のわたしの人生よりもずっと長い時間、海の中を漂っていたんじゃないかって思うことがあるの。
ううん、これは仮説なんかじゃないわ。わたしの記憶と感覚の問題。
ただ、わたしがそうじゃないかって思うだけの話よ。
まあ、あの踊り場で何が起こったのかを知れたのは良かったけど。
それ以来、卒業するまで、わたしがあの踊り場に近づくことはなかったわ……。
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