第1話 雨に語る話
雨に語る話 - 1
折原美紀のもとに、久保田正康から連絡が入ったのは、つい先週のことだった。
「突然、連絡してごめん。俺のこと覚えてる?」
「ちょっと話したいことがあるんだけど、近々会えないかな……」
正直、驚いた。
深間坂中学校の同級生。美紀の記憶の限りでは、それ以上でも以下でもない関係だった。同窓会でもあるのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「とにかく、話したいことがある」
その一点張りで、詳しいことはまた会ってから……と久保田はいう。
「変な保険やら商材やらの勧誘じゃないよね」と冗談半分で尋ねると、「そういう類の話じゃないから安心して。そんなことより、もっと大事な話だ」という。美紀はただ了承するしかなかった。
美紀は、大学卒業とともに地元である深間坂から離れていた。就職後も実家に戻るという選択はせず、県外で職を得て、独り暮らしを続けている。
盆や正月に実家に戻ってきてはいたが、そのたびに、両親からやんわりと結婚をせっつかれる。そのため、最近は帰省するのもすこし億劫になり、足が遠のいていたというタイミングだった。
こういうきっかけでもなければ、なかなか地元に戻ることはない。怪しい話ではないようなので、同級生と旧交を温めるのも悪くないだろう。それに、もしかしたら、他にも数人の同級生に声を掛けているのかも……。
そういうわけで、何でもない週末の休みに、わざわざ美紀は深間坂に戻ってきたのだった。
待ち合わせ場所である「まほろば」という喫茶店に向かって歩いている時、ふと思う。しかし、この町は何も変わらないな……と。
生まれも育ちもこの深間坂だが、正直なところ、美紀はあまりこの町を好きになれなかった。郊外の閑静な住宅街というならば、聞こえはいい。だが美紀に言わせれば、閑静というより陰鬱で陰気臭いという感じだ。
生まれ故郷であるはずなのに、町の空気が肌に合わない。特に、中学校を出たあたりから、言いようのない居心地の悪さのようなものを感じるようになった。
はっきりとした理由があるわけではない。学校で孤立していたとか、近隣の住人との諍いがあったとか、そういう事情があるわけではないのだが、なんとも居心地が悪く感じるのだ、この町は……。
実のところ、県外の大学を選択し、一人暮らしを始めたいといったのも、これが大きな理由だった。有り体にいえば、早く家を出ていきたかったのだ。この深間坂から離れるために……。
ふと空を見あげると、灰色の厚い雲が垂れこめていた。今にも雨が降りだしそうだ。
ちらりと鞄の中を確認する。念のため、折りたたみ傘は持ってきたが、雨が降る前に辿りつくだろうか……。
美紀は、自然と早足になった。
幸い、雨が降り出す前に「まほろば」に到着した。
植え込みに囲まれた白壁の建物をぐるりと見回してみる。上を見あげると、曇天を背景にして、風見鶏がからからともの寂しい音をたてて回っている。
腕時計に目を落とすと、十三時五十分。約束の時間の十分前である。彼はもう来ているだろうか。
ドアのガラスを鏡代わりにして髪型を整え、深呼吸をしてから扉を押し開けた。頭上でカランとベルが鳴る。
「いらっしゃい、おひとり様?」
黒いエプロンに真っ赤な蝶ネクタイのをつけた、マスターと思しき中年の男が美紀を出迎えた。
「いえ、待ちあわせなんですが……」
美紀はそう応えながら、店の中に目を走らせた。
店内はさほど広くなく、カウンターとボックス席をあわせて五、六人の客がまばらに座っているが、その中に男性のひとり客はいなかった。
「まだ来ていないようなので、適当なところに座らせてもらいます」
そう言いかけたとき、窓際のボックス席にひとりで座っている女性が、じっとこちらに目を向けていることに気がついた。
その女性とばったり目が合う。すると、彼女は柔和な表情を浮かべ、こちらに向かって静かに手を挙げた。
「ああ、お連れ様ですね」
それに気づいたマスターは、にっこり笑って美紀をそちらの席に誘導しようとする。
「え? いや、その……」
ちがいます、知らない人です。
そう口にしようとするが、思いがけない展開に、声がつっかえて出てこない。
美紀は、もう一度彼女の顔をちらりと見る。すると、目の前の彼女は微笑み、「久しぶりね、折原美紀さん」と言った。
あれ、もしかして……。
美紀の頭の中で、埃をかぶった古いアルバムのページがぺりぺりと音をたてて開いていく感覚がした。
「もしかして、樋口さん?」
美紀がそういうと、彼女がほっとした表情を浮かべる。
「ああ、よかった、覚えていてくれて……お久しぶりね、折原美紀さん。深間坂中学校で同じだった、樋口諒子よ」
「ええ、久しぶり……だけど……」
美紀は目の前の状況に困惑していた。
樋口諒子は、いま彼女が言った通り、深間坂中学校の同窓生である。
だが、はっきりいって学生時代の接点は薄い。というより、すくなくとも美紀の記憶の範囲では、皆無に等しい。
美紀は、久保田から連絡をもらったこともあり、実家に置いてあった中学校の卒業アルバムをざっと見返していたのだが、それがなければ樋口諒子の名前を思い出すことはできなかっただろう。
「ほら。ここ、座って座って」
諒子は、自分の対面の席を指した。どうやら、彼女は美紀が来るのを待っていたらしい。
美紀は状況が掴めないまま、彼女に言われた通り、対面の席に腰かけた。
「えっと……それじゃあ、アイスコーヒーを」
美紀がそういうと、マスターは二人の間の微妙な空気を怪訝そうにうかがいながら、厨房へ歩み去っていた。
「いったいどういうことなの?」
諒子を問い詰めるように、美紀は身を乗り出していった。
「わたし、久保田君から連絡をもらって来たんだけど……」
「そうそう。あなたに連絡をとってもらうように、わたしが頼んだの。彼から聞いてない?」
諒子は取り澄ました顔で、目の前のアイスコーヒーをストローでくるくるとかき混ぜる。
「何も聞いてない。話したいことがあるって言われたから来たのよ。詳しいことはそこで話すって彼は言ってたけど」
美紀がそういうと、「うーん、そっか……」と諒子は顔をしかめた。
「厄介なことを押しつけられたな……」
諒子がぼそりとそう言ったのが聞こえ、美紀はすこしムッとする。
「で、久保田君は来ないの? ていうか、わたしは何でここに呼ばれたのよ。樋口さんは知ってるんでしょう?」
「ええ、そうね……でも、話せば長くなるというか、すこし込み入った話なのよ」
「だから、それをわたしに話すためにここに呼んだんでしょう?」
「まあ、それもそうね……」
諒子は、また物憂げにコーヒーをかき混ぜる。どうやら、楽しい同窓会という雰囲気ではないらしい。
ふと、美紀は中学校時代の彼女のことを思い返した。
樋口諒子。中学時代の同級生だというのはまぎれもない事実だが、関係性としては、それ以上でも以下でもなく、仲が良かったとは言えない。というか、そもそも彼女と会話をした記憶が一切ない。
自分が覚えていないだけで、事務的な会話やクラスメイトとしてのごく普通のやり取りくらいはあっても不思議ではないが、あったとしてもそれくらいである。
中学校を卒業して以来、会うことはもちろん一度もなかったし、今日、ここでこうして出会わなければ、今後の人生で彼女のことを思い出す機会はおそらくなかっただろう。事前に卒業アルバムに目を通していたとはいえ、ここでよく彼女の名前が出たものだと、自分の記憶力に感心するくらいだ。
別に、中学校当時に彼女を避けていたとか、口をきかないようにしていたとか、そういうわけではない。教室という独特な力の働く場の中では、人間は自然と区分けされ、グループ間に壁が生まれたりするもので、自分と彼女はそれぞれ別の集団に所属していたというだけの話だ。
ともあれ、折原美紀にとっての樋口諒子とは、大勢いるクラスメイトの内の一人に過ぎず、彼女にとっての自分も同様である、ということは間違いのない事実だった。
そんな彼女が、わたしに何の用があるというのか……。
そんなことを考えているうちに、美紀の注文したコーヒーが運ばれてきた。美紀は店員に会釈し、ミルクとフレッシュを控えめに入れてかき混ぜた。
案の定というべきか、二人の間に沈黙が下りる。
諒子は、複雑に絡み合った糸の先端を探すように、何から話すべきかを考えているように見えたし、美紀の方は、諒子が話し出すのを辛抱強く待っていた。
やがて、頭の中の整理がついたのか、諒子はおもむろに口を開いた。
「中学校の南棟の階段の話、覚えてる?」
「学校のかいだん?」
諒子が突然放った言葉が理解できず、美紀はオウム返しをした。
「ひとりでにピアノが鳴ったりとか、夜中に人体模型が走るとか、そういう話? うちの中学に、そんな七不思議みたいな話、あったっけ」
「いや、学校の怪談じゃなくて……」
諒子は宙に『階段』を描くように人差し指を縦、横と動かした。
「こっちの階段の話。校舎の南棟の三階から屋上の階段で変な噂がたったの、覚えてない?」
美紀は首を振った。
「さあ、どうだったっけ……ていうか、急に何の話? 中学時代の思い出話をするためにわざわざ呼んだわけじゃないんでしょう」
美紀は、そういいながらも、頭の片隅で母校の校舎を思い浮かべた。
中庭を挟むようにして、南棟と北棟があり、そのふたつを中央棟が繋いでいる。上から見下ろせば、すこし縦に引き伸ばしたような『コ』の字型をしていた。
主に使用される階段は、全部で四か所あり、南棟と北棟にそれぞれ一か所、中央棟には二か所。屋上まで通じているのは、北棟と南棟にある階段だけだった。
しかし、屋上に通じる扉は施錠されており、生徒は立ち入り禁止である。そのため、三階から屋上までの階段は、使用されることのないデッドスペースだった。諒子はその場所のことを言っているのだろう。
「あの場所って、たしか不良たちの溜まり場だったでしょう。わたし、あんまり近づかないようにしていたからわからないわ」
少しずつ、当時の記憶が蘇ってきた。
主にやんちゃな上級生グループが、そのスペースを占有していたのだ。占有といっても、他の人が使う場所でもないので、教師たちも黙認していた節がある。教室で騒いで、他の生徒を巻き込むよりはよかろうと思っていたのかもしれない。
少なくとも、美紀には関係のない話だが……。
そう思った時、ふと、誰かの言葉が脳裏を過ぎった。
『ねえ、知ってる? 南棟の階段の怪奇現象の話』
『うちの部活の先輩が実際に見たんだって』
『近づかない方がいいっていってたけど、本当かな……』
それは、果たして誰の言葉だったか。はっきりとは思い出せないが、教室内でそんな噂が囁かれていたような……。
そのあまりに懐かしい記憶に、美紀は思わず膝をうちそうになった。
「思い出したみたいね」
こちらの表情を見て、諒子は意味ありげに笑った。
「たしかに、そんな話聞いたことあった気がするわ」
しかしなんとまあ、懐かしい話だろう。もはや遠い過去と思っていたあの頃の記憶が脳裏を過ぎり、美紀はため息をついた。
「たしか、わたしたちが二年生の時だったわね。内容は知らないけど、怪奇現象だか心霊現象だかで、たむろしていた先輩たちも近寄らなくなったんだっけ」
部活動などで先輩にいびられている後輩や、彼らにちょっかいをかけられている生徒たちは、ここぞとばかりに陰口を叩き、溜飲を下げていたのを思い出す。
『先輩たちが揃いも揃って、ビビって逃げるなんて』
『いつも偉そうにしているくせにね』
そんな彼らの噂は耳に入ってはきていたが、結局、その踊り場でいったい何が起こったのか、なぜ、生徒たちがその場所を避けるようになったのか、その肝心なところはわからずじまいだったが……。
その時、ぽつ、ぽつと窓を叩くような音が聞こえてきた。
ふと外をみると、鈍色の空から、雨粒が降り始めたところだった。
「雨、降ってきたね」
「……そうみたいね」
窓の外に目を向けたまま、美紀は独り言のように呟いた。
閑静な街並みのなかで、住人たちが雨足に追い立てられるように洗濯物を取りこんだり、窓を閉めたりと慌ただしい気配が漂っている。
美紀は視線を戻すと、「それで?」と諒子にいった。
「結局、何の話がしたいのよ」
「折原さんは興味ない? この噂の真相、聞きたいでしょう」
「興味ないわよ。それとも、その話がわたしとなにか関係あるの?」
そういうと、諒子は大げさに肩をすくめてみせる。
「それが、関係あるんだよ。それに、久保田君もね。そこの所、彼がちゃんと説明してくれていると思ったんだけどなあ……」
諒子はそういうが、美紀にはまるでピンとこなかった。
「まるで身に覚えがないけど。まあ、そこまでいうなら聞いてあげようじゃない」
「ええ、すこし長くなるかもしれないけどね」
「どうせ断っても、聞かなきゃならないんでしょう? こうなったら噂話でも与太話でも付きあってあげるわよ」
そういって、美紀は意趣返しとばかりに肩をすくめてみせる。
その代わり、くだらない話だったら後でさんざんこき下ろしてやるけどね、と内心呟いた。
「ありがとう」
諒子はぽつりとそういってから、静かに語り始めた。
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