エピローグ 町が眠りに落ちる時

町が眠りに落ちる時

 わたしは相変わらず、町の中をさまよい歩いていた。

 気がつけば、先ほどからぐずぐずと暮れなずんでいた空の色も、いい加減夜の闇に染まりつつある。指先から、足下から、すこしずつ這い上がってくる冷気が、わたしをからかい、嘲笑うようだ。足はすでに疲労困憊で、棒のようになっているのだが、歩みを止めようとしない。

 果たして、どれくらいの間歩いていたのだろう。

 一日中歩き続けたが、実のところ、何度も同じ道を巡っていたような……何度も同じ家の前を通り、同じ角を曲がり、その度に同じ場所に辿りついたような……結局、この町の景色の一端にも触れていない気がするのだ。

 わたしが足を踏み入れたこの深間坂という町は、外から訪れた者を深淵へと導く迷宮だったのかもしれない。そんな不安にも似た想いが、何度も胸の内に渦巻いては消えた。

 いくら歩けども、この町の表面に張った皮膜を撫でるばかりで、その実体を掴むどころか、触れることすらできずにいる。わたしの目や耳は何度も欺かれ、ついにその正体を捉えることは叶わなかった。

 ……そのかわり、長い夢を見ていた気がする……。

 白昼夢というものだろうか。あるいは、町がわたしを惑わせるために見せた幻想だったのかもしれない。あるいは、この町がわたしに下した、言葉なき宣告だったのか。

 目の前の道をいくら歩き回ったところで、お前は所詮、異邦人に過ぎないのだと……。


 空を見上げると、煌々とした満月が、わたしを嗤うようにぽかんと浮かんでいた。

それを見たわたしは、なんだか打ちのめされたような気になって、ついに歩みを止めた。

 いい加減、歩き疲れた。

 そろそろ休まなければならない。

 帰ろう。そうだ、家へ帰ろう……。

 そう思った時になぜか、公園で出会った少年の顔が脳裏に浮かんだ。

 ……この町のどこかに、本当に天使の棲む家があるかもしれないと、彼は言った。

 結局、わたしはそれを見つけることができなかった。その家があるという月之杜いう場所にさえ、辿りつくことができなかったのだ。

 そっと、自分の鞄に手をやった。

 くれない堂という古書店で入手した、『ある町角で』という本がそこには入っている。

 その本を取り出して、あの公園の四阿で読み終えた箇所を開いてみる。すると、そのページの間から、白く薄いものがするりと零れ落ちた。わたしは反射的に手を伸ばし、それを掴んだ。

 あの時、わたしは風に吹かれて落ちてきた桜の花びらを挟んで封じ込めていたのだ。

 しかし、わたしが右手に掴んだその感触は、花びらのものではなかった。そっと手を開くと、丁寧に折りたたまれた一枚の紙片が掌に載っている。

 紙片を慎重に開いていくと、そこには地図が描かれていた。目的の場所に導く情報以外の一切をそぎ落とした、とても簡素で粗雑な内容のものだった。

 何度も曲がりくねった矢印の先に二重丸が描かれており、そのすぐ近くに子どものような字で「天使の棲む家」と書かれている。

 いったいいつの間に仕込んだものか、あの少年の仕業に違いないとわたしは思った。

 わたしは、矢印の先を目指して、再び歩き出した。


 夕闇に溶けた町の風景の中は、先ほどまでとはまるで違って見えた。それは日没によるものではなく、明確な目的地と、それに至る地図を得たことによりもたらされた変化のように思われた。歩を進める先に、新たな風景が目の前に開けていく、確かな感覚があった。

 わたしは、地図上の矢印の上をそのままなぞるように歩いた。その行く先々には、風見鶏のある喫茶店があり、妖しげな古道具屋があり、妙な形の岩があり、山に半分飲み込まれた廃屋があった。それらすべてが、何故だかとても懐かしいもののように思えるのが不思議だった。

 そうして矢印を辿っていくと、あっさりと目的の場所に辿りついてしまった。そこは、本にある通り、また、少年が言った通り、月之杜という高台の住宅街だった。瀟洒な家々が並ぶ一角に、その家はひっそりと佇んでいた。

 他の家には、住人の生活の気配に満ちていたが、目の前の「天使の棲む家」だけは沈黙していた。この家だけが、時の流れから取り残されているようである。

 表札はなく、インターフォンは作動していない。わたしは門扉をくぐり、庭を横切って玄関の扉に手をかける。鍵はかかっておらず、扉は難なく開いた。そっと玄関に身体を滑り込ませると、シーリングライトがひとりでに廊下を照らし出した。

 そこは、ごく普通の家に見えた。居間を覗けば、家族が食卓を囲んで談笑しているのではないかと思うほど、そこここに生活の痕跡が残っている。だが、そこに人の気配を感じ取ることはできなかった。この家の中身が丸ごと、取り繕ったもののように思えてならなかった。

 わたしの足は、自然と階段の方へと向いた。階段に足を踏み出すと、またひとりでに照明がついた。二階のフロアからも光が漏れている。

 わたしは一段一段、何事かを噛みしめるように階段をのぼっていった。この階段をのぼった先に、わたしを待つものがあるという確信があった。

 階段をのぼりきると、扉から差す薄明りに誘われるように、奥の部屋に入った。

 その部屋の真ん中に、ひとりの少女が立っていた。

 少女はわたしの姿を見ると、うっすらと笑みを浮かべ、そしてわたしを迎え入れるように、ゆっくりと両手をひろげる。

 いや……違う。

 彼女の背中から、真っ白の羽が伸びているのだ。蛹から成虫へと姿を変える蝶のように伸びていく羽は、やがて部屋の端から端まで届くほどの長さになった。

 ここは本当に、「天使の棲む家」だった。

 わたしは、窓から差す月光を後光のように背負った彼女の姿に息をのみ、ただそこに立ち尽くす。そんなわたしに向かって、彼女は口を開いた。

「おかえりなさい」

「ただいま……」

 わたしの口から、自然とその言葉が零れ落ちた。まるで、毎日、毎晩、家に帰って来た時に、家族に向かって言うように。

 なんだろう。この感覚はいったい何なのだろう……。

「あなたは今、あなたの居るべき場所に戻ってきたのよ。ほら、ご覧なさい」

 彼女はそう言って、窓の方を振り返る。高台にあるこの家からは、深間坂全体の夜景が見えるはずだった。だが、目の前に広がる景色は、まるで違うものだった。

 そこにたしかにあったはずの家も、木々も、街灯も、自動販売機も階段もマンホールも学校も図書館も電信柱もブランコも風見鶏も鉄塔も空き地も……すべてが輪郭を失くし、溶け合い、混ざり合っていた。あらゆるものを隔てる境界はなくなり、闇に溶けて合一している。

 これはいったい……。

 わたしは彼女と肩を並べて、呆けたように窓の外の様子を眺めていた。

ふと隣を見ると、彼女は無言のままに涙を流していた。それが歓喜によるものか、それとも悲哀によるものか、わたしには知る由もない。だが、ここに至って気がついたのだ。この町は今、生まれ変わろうとしているのだと。

 これまで、わたしが、あの町の変化を押しとどめていたのかもしれない。町にとっての異分子であるわたしが体内を這いまわり、その変貌を妨げていたのだ。

 だがようやく、わたしは在るべき場所に帰ってきた。それを待ちかねていたように、町は今、その姿を変化させている。町を見下ろし嘲笑っているように見えた星空さえも例外ではなかった。天と地はもはや入り混じり、漆黒の渦を形づくっている。 今、わたしの目の前で、町は混沌をさらに煮詰めた狂乱の様相を呈していた。

 しかし、その中でひとつだけ変わらないものがあった。どこまでも広がる暗黒の中で、満月だけがその輪郭をくっきりと残している。

 彼女は、混沌とした闇夜に浮かぶその白い真円を指差して言った。

「さあ、帰りましょう。わたしたちの家へ」

 わたしの背中が隆起し、めりめりと皮膚が引き裂かれたかと思うと、彼女と同じ真っ白な羽が現れる。

 窓を開くと、優しい風が頬を撫でた。

 ふたりは手を取り合い、月に向かって夜空を泳ぎ出す。

 眼下では町の崩壊が続いている。だが、やがてまた新たな景色が生みだされるだろう。

 その時に、わたしは何を想うだろうか。

 今日と同じように、その見知らぬ町を歩きまわるだろうか。そしてまた、町から与えられる幻想に弄ばれながら、家路を求め続けるのだろうか。

 わたしはずっと同じことを繰り返していたのかもしれない。そして、またこれからも……。

「ほら、見てごらん」

 わたしたちは混沌に歪んだ町を見下ろした。

 延々と続く破壊と再生……。わたしたちは、その一瞬に立ち会っているに過ぎない。

 わたしたちがこの世界から消えた後も永続する、生と死のループ。

「ねえ、もう時間がない」

 そうみたいだね。

 そろそろ行かなくては。

 この町とは一度ここで別れを告げよう。

 もう、何度目のさよならになるんだろう。

 わたしにもわからないけれど。

 とりあえずまた、次に目を覚ます時まで。


 おやすみなさい。

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連作短編集 「歪んだ町」 久良木 景 @k_kuraki

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