遠い月まで吠えるもの - 3

 それから二週間後の、満月の夜。

 集合場所である間多良山の東口で、カイトとリョータ、てっつんの三人は、残りのひとりの到着を待っていた。「遅っせえなあ」

 てっつんはスマホで時間を確認し、呟く。

「七時集合っつったのに、もう十分も過ぎてるぞ」

「まあ、許してやれよ。チハルが一番家が遠いんだから……」

 カイトがなだめるように言った。その隣で、リョータは自転車に半分体重を預けながら、欠伸をしている。

 カイトは、今から足を踏み入れる山の方に目をやって、すこし身震いした。

 目の前に黒い壁が押し寄せてくるような圧迫感だった。夜の闇を寄せ集めて塊にしたような、巨大な影がそこには立ちはだかっていた。その足元で、秋の虫たちが各々 好き勝手に鳴き声を発している。

 ……間多良山って、こんなに大きかったか?

 カイトは本当に驚いていた。住宅街の横に寝そべっているちょっとした小山だと、どこか高を括っていたのだ。だが、こうして完全な闇に染まった山を目の前にすると、普段姿を覗かせていたあの間多良山と同じものだとはとうてい思えなかった。

 カイトは思わず肘を抱え、ぶるりと怖気だった。

「なんだ、びびってんのか?」と、てっつんがからかうように言う。

「違う。思ったより冷えるからさ……」

 カイトは誤魔化すように腕をさすった。実際、それも嘘ではなかった。

「もう九月も終わりだからな。長かった夏もこれで終わりだ。俺も一枚羽織ってきて正解だった」

リョータはそう言って、半袖の羽織りを指す。

「なんでも用意しておくに越したことはないよ。懐中電灯も持ってきたよな?」

「ああ、言われた通り」

 てっつんはズボンのポケットから持参したライトを取り出す。

「300ルーメンってのがどれ程のものかわからないけど、これで充分だろ」

 そう言って、光の輪をカイトの顔に浴びせた。夜の闇に慣れていた目に真っ白な光が飛び込んできたせいで、一瞬、何も見えなくなる。

「おい、マジで眩しいからやめろって……」

 三人がはしゃいでいると、道の奥から「おおい」という聞き馴染みのある声と足音が聞こえた。

 暗闇から現れたのは、自転車を押しながら小走りで駆けてくるチハルだった。チハルは、この涼しい夜の気温にもかかわらず、真夏と同じ半袖と短パンだ。さすがに山道を歩くことを考慮してか、足元はいつものサンダルではなくスニーカーを履いている。

「悪りい。来る途中で自転車がパンクしちまってよ」

「ははは、ドンマイ……」

「よっしゃ。揃ったところで、拝み岩に向かうか」

「待った。自転車はどうする?」

 リョータの一言に、それぞれが自分の乗ってきた自転車に目を落とした。

 それなりに舗装された遊歩道とはいえ、山の中を通っているため、ほとんどが坂道であり、途中には急な階段もある。当然、自転車で乗り入れようという話ではない。

「ここに置いておけばいいだろ。拝み岩まで行って、何もなければ折り返してこっちに戻ってくればいい」とてっつんは言う。

「でも、こんなところに四台も並べて停めておいたら、不審に思われないか?」

「リョータって、つくづく心配性だよな。じゃあ、その看板の裏に隠しとこう。そもそもこんな遅い時間に人が通りかかることもないと思うが……」

 てっつんの発案に従い、四台の自転車を看板の裏の茂みに隠していると、さきほどまで張り詰めていた夜の闇がかき消えるように、空から月明かりが降り注いだ。

「お、見ろよ。ちょうど月が出た」

 カイトは空を指さした。くっきりとした輪郭をそなえた満月が、雲間から姿を現したところだった。

「こんなに明るいのなら、やっぱり懐中電灯も要らなかったかもな。遊歩道には街灯もあるし」

「バカ。夜の山を舐めるなよ。足元が見えなかったら、転んで石に頭をぶつけるかもしれないぞ」

「はいはい、と」

 カイトも、ポケットに入れていた懐中電灯を取りだした。最初は「スマホについてる懐中電灯で充分かな」と言っていたのだが、リョータに苦言を呈されて、家から持参したのだ。

「よし、準備はいいな」

 てっつんが号令を掛けようとした時、またも「待った」が掛かった。

「おい、向こうから誰か来るぞ」

 そう口にしたのはチハルだった。チハルが指さした先、住宅街の道路の向こうに、遠くの街灯に照らされて、ゆらゆらと揺れながらこちらへ近づいてくる人影が見えた。

 遠くて顔は見えなかったが、その足元に、地面に這いつくばるような複数の影がある。

 カイトは、はっと気がつく。

「あれ、仙人じゃないのか?」

「ああ、本当だ」

 リョータが目をすがめて言った。

「あの飼い犬たちを連れてるな。夜の散歩か? あのオッサンが犬を連れて散歩してるのは初めて見たな」

 仙人はどんどんとこちらに近づいてきて、その姿がはっきりと見えた。仙人は左手に杖のようなものを携えており、その先から伸びるリードが五頭の犬の首輪に繋がっている。

「おい、どうする? 本当にこっちに来るぞ……」

 四人は顔を見合わせた後、誰からともなく、看板の後ろに身を隠した。懐中電灯を消してその場にしゃがみこみ、じっと息を潜める。

 やがて、犬たちの足音と息づかいが聞こえてきた。

 カイトは、ぎゅっと目を閉じ、耳から入る情報に神経を集中した。ざり、ざりと地面を踏む仙人の足音がすこしずつ大きくなり、看板の前でぴたりと止まった気がした。自然と、犬たちの足音もそこで止まる。

 それから、しばらくの静寂があった。

 この看板の向こう側で、仙人はいったい何をしているんだ。地図を眺めているのか? それとも、俺たちの気配に気がついた……?

 カイトは、懐中電灯をぐっと握りしめ、その沈黙に耐えた。

 三十秒ほどの間があった後、仙人は再び歩き出した。仙人は、犬たちとともに遊歩道へ入ったようだ。その足音がどんどん遠ざかっていき、やがて聞こえなくなってから、カイトたちは看板の裏から転がるように飛び出した。

「危ねえ。冷や冷やした」

「もしかして、バレてたんじゃないか?」

「さあ、どうだろう。ただこの看板の地図を見ていただけのような気もするけど……」

 思わぬ人物の出現に驚き、不安や安堵の言葉が漏れる。

「オッサン、杖を持ってたな。たぶん山歩き用だろう。きっと夜の散歩でこのルートをいつも通っているんだ。気にする必要はないだろう」

「いきなり来るからビビッたけど、別に隠れる必要なかったかもな」

 チハルはあっけらかんと言った。その横で、てっつんは腕を組み、仙人が進んでいった遊歩道を睨んでいる。

 その表情を見て、てっつんが考えていることがなんとなくわかる気がした。

「どういう理由は見当もつかないけど、仙人は満月の夜に犬たちを山に放してるんじゃないのか? やっぱり、てっつんが聞いたのはあいつらの遠吠えだったんじゃ……」

 カイトが言うと、てっつんは珍しく自信のないような表情で、「そうなのかな……どうなんだろう、わからん」と答える。

「せっかく来たんだから、確かめようぜ。そのために集まったんだろ」

 チハルの一声で、四人はかたまって遊歩道へと歩き出した。

「街灯があるから、このあたりはまだ懐中電灯は必要ないな。とにかく急ごう。ぎりぎり仙人の後ろ姿が見えるくらいの距離まで近づくんだ」

 四人は、黙って夜の山の中に足を踏み出した。仙人に追いつくために、大きな足音をたてない程度の急ぎ足で、ゆるい傾斜の道をのぼってゆく。静寂な山道を想像していたのだが、四方八方から虫たちの鳴き声が鳴り響き、騒々しいほどだった。

 二十メートルから三十メートル程の間隔をおいて街灯がたっているものの、周囲は真っ暗な闇に包まれている。カイトは小学生の頃に、何度かこの道を通ったことがある。だが、それはもちろん日中の話だ。夜になると、ここまで変わって見えるものかとカイトはひそかに驚いていた。夜道が暗いと頭でわかっているのと、実際にそこを歩いてみるのでは全然違う。リョータの言うことを聞いておいてよかったと、ポケットの中の懐中電灯を握りしめる。

 こうして四人で闇の中を歩いていると、町のどん底を歩き回っているような気分だった。

 おかしな想像だ。今は山の上に向かって歩いているというのに……。

 カイトは想像する。深間坂がアリ地獄のようなすり鉢状になり、その中心のくぼみの周辺を、四人が歩いている。円を描くように歩きながら、すこしずつアリ地獄の外側に寄っていくものの、やがては重力に屈して、一番下へと滑落する。そして、また負けじと歩き始める。だが、四人とも口には出さないが、本当は理解しているのだ。このくぼみから抜け出すことは永久にできないのだと……。

 カイトは首を振り、その奇妙な想像を頭から追いやった。

 虫の声と四人が砂利を踏む音だけが、夜の闇に響いていた。

 すると唐突に、てっつんが声を潜めていった。

「仙人は、どこに向かってるんだと思う?」

「さあ……夜の散歩のつもりなら、このまま遊歩道を通って西口に出て、住宅街を山沿いに歩いて帰ってくるってのが自然なルートだと思うけど。それだと、仙人の家に戻るまで大体一時間くらいだな。もしくは、拝み岩のところで一端折り返して戻ってくるパターンもあるな」

 リョータが淡々と応えるのを聞いて、チハルが言う。

「でもそれだと途中で鉢合わせにならないか?」

「まあ、その時は適当に会釈でもして知らない振りをしとけばいいさ。仙人の方は驚くかもしれないけど、別にこっちは危害を加えたりするつもりもないんだから、向こうから犬をけしかけたりはしてこないだろう」

「そうだといいけどよ……」

 しばらくそのまま歩き続けて、砂利道や何段かの階段を越える。やがて傾斜が小さくなり平坦な道が続く。山の上の方のまでのぼってきたのだ。そこからは、深間坂の夜景を見下ろすことができた。家々の窓から漏れる光が整然と並んでおり、意外にも綺麗に見えるのだった。

 道幅は広くなっていき、四人が肩を並べて歩いても十分なほどの広さになったところで、ついに拝み岩の前に到着した。

「おい、着いちまったぞ」

 虫の声がさんざめくなか、チハルがはあはあと荒い息を吐きながら困惑気味に言った。

「仙人に追いつくどころか……後ろ姿も、見えなかったじゃんか……」

「お前に気をつかって、ペースを落としてたんだよ。ったく、本当はもっと早足で行きたかったのに」

「うるせえな……ああ、ちょっと休憩」

 てっつんの言葉に言い返す体力もないらしく、チハルはすぐ近くの街灯に凭れかかって息をついた。

 カイトは、その先に続く道を見た。奥は闇に塗りつぶされ、そこに人や犬がいた気配などはもちろん感じられない。

「オッサンにしては本当に足が速いな。意外と身軽なんだな……」

 カイトの呟きに、リョータも頷いた。

「まあ、歩き慣れているのかもしれないな。山の道に慣れてるってのは、たしかに仙人らしいよ……で、ここからどうするんだ? 例の遠吠えが聞こえるまで待ってみるか?」

「ああ、そうだな。チハルもへばっているし、休憩がてら待機してみよう」

 てっつんの応えに、「賛成、賛成」とチハルも力なく呟いた。

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