「この砂糖を僕たちで売るの? さすがに誰かに目つけられないかな?」

「シゲチーの意見に賛成だな。三人寄っても所詮子供の集まりなんだぞ。ヤクザに目をつけられて奪われるのがオチだよ」


 不安を口にするシゲチーの言い分は、至極真っ当だった。ある日突然、貞春たちのような浮浪児が闇市の一画で金に等しい価値の砂糖を売り始めようものなら、誰だって出処を怪しむに決まっている。

 あわよくばブツを掠め取ろうと企むやからが現れる可能性だって十分考えられるし、それが現実に起こりうるのが今の日本だ。


 脅威は他にもある。警察が禁制品を扱っている店を片っ端から検挙する手入れで、強制的に商品を没収されることもあれば留置場に放り込まれてしまい、泣く泣く廃業を余儀なくされる店もいくつもあった。


 闇市でしのぎをけずっているヤクザや愚連隊も怖い存在であることに変わらない。彼らに目をつけられると商売そのものが成り立たなくなる恐れがある。


 終戦直後の無法地帯と化していた闇市の治安維持を目的として、行政はテキヤに〝東京露天商同業組合〟という団体を結成させて限定的に治安維持を任せていた経緯がある。東京都と警察の指導のもと、組合に属する各組が露天商を統制し組織化を図ることで、どうにか秩序を保とうとしたわけだ。


 それまでゴザを敷いて品物を置けば店として成り立っていた闇市に、新規に出店する場合はその土地の組合に加入して初めて正式に営業を行える〝鑑札〟を得る必要が生じた。これには入会金が必要となり、その他にも様々な雑費を支払う必要がある。


 しかし一方で、闇市の利権を是が非でも手に入れたいヤクザや愚連隊の衝突が増加の一途を辿っていたのも事実で、出店者から現金や商品を半ば脅迫的に徴収する〝カスリ〟という行為が多発していていたため、闇市を生活の基盤とする住民から根強い反感を買っていた。


 闇市で目立つリスクを貞春もシゲチーも理解していたが、当のヒロヤンは二人の指摘にも表情一つ変えることはなく答えた。


「確かに俺達だけだったら、暴力に物を言わせるやからに目をつけられるだろうな。だったら後ろ盾があればいい。向こうが力でかかってくるなら、こっちも負けない力があれば問題ないだろ」

「なにか当てでもあるのか」

「まあな。実はある人にナシをつけてあるんだ。この時間ならたぶん、ガード下のホルモン屋で一杯やってるだろうから二人も一緒に来いよ」


 一先ひとまず角砂糖が詰められたダンボールを元の場所に戻すと、ヒロヤンが話していた人物と会うために三人は上野駅前へと戻った。


 口の中に余韻が残る甘みが、じょじょに消えていくのを惜しみながらカーバイトランプに照らされる屋台の間を縫っていく。 

 上野と御徒町間を結ぶ高架下には、夜も深いというのに人通りが多くおでんやシチュー、焼鳥、ホルモン焼きと書いた紙がいくつも夜風に舞って客を呼び込んでいた。


「あそこの店にいるはずだ」

「なんだか、随分と騒がしい客がいるぞ」


 ヒロヤンが指差した先には、一軒のおでん屋が店を構えていた。頭が禿げ上がった爺さんが一人で切り盛りしているお店で、屋台の骨組みから吊り下げられた裸電球が店主に食って掛かっている男性を照らしていた。


「おいっ、爺さんよ。ここを誰の許可を得て営業してんだ」

「そんなもん知るかい。ちゃんとショバ代は払って正式に営業してるんだ。どこの馬の骨ともしらない輩に文句言われる筋合いはないね」

「なんだとッ、このジジイがッ!」


 男は胸元まで開けたシャツに短く刈りあげた髪、それに足元は雪駄せったといかにも怪しい風体だった。

 屋台を支える細い支柱を拳で殴りつけ、派手に怒鳴り散らしている。あまりの剣幕に周囲の人間は迷惑そうに距離をあけて、見知らぬふりをしていた。


「あいつ何様なんだよ。大の大人が爺さん一人相手に恫喝なんかしやがって」

「さあな、どこかの新興ヤクザか愚連隊の三下だろうよ。今の上野はテキヤとヤクザと愚連隊が戦争してるようなもんだ。ショバ代、塵銭ゴミセン、カスリ、弱者から甘い蜜が湧き出る土地を暴力を生業にする奴らが見逃すわけない」

「二人とも、そんな悠長に話してる場合じゃないよ。止めないとあの男の人に殴られちゃう」


 シゲチーの指摘通り、怪しい男は拳の骨を鳴らして今にも殴りかかりそうな挙動をしていた。


「そうだな、なんとか助けないと」

「その必要はない。いいから見てろ」


 ヒロヤンがアゴを指した方向に視線を向ける。椅子を蹴飛ばして激昂した男が店主の胸倉を掴んだその時だった。


「そのへんにしとけ、チンピラが」


 正義の味方よろしく、トラブルに割って入ってきた男が振り上げられた手首を掴むと、そのまま背中に捻りあげて瞬く間に暴れていた男を無力化してみせた。


 坊主が半端に伸びたようなボサボサした頭、革の半長靴はんちょうか、飛行服姿の一目で元航空隊にいたことが知れる格好で、左目には大怪我を負っているのかはたまた視力を失っているのか、黒い眼帯を装着していた。


「なんだ、今日は珍しく伊藤さんが見れたな」

「まともなって、どういう意味だよ。そもそもあの人がヒロヤンが話してた人であってるのか」

「そうだ。あの程度の相手なら、きっと目を瞑ってても勝てるだろうぜ」


 一方的に関節を極められ、身動きを封じられていた男は聞くに堪えない罵詈雑言を吐いていたが、軽く足を払われると情けなく尻餅をついて蛙が潰れたようなうめき声をあげた。

 小さなプライドに傷がついたのか、みるみるうちに顔を紅潮させると渾身の捨て台詞を吐いて暗がりの中に姿を消していった。


         ✽


「お前たちが坊主の話していた仲間か。十四、五にしては随分とガキっぽいな」


 男を追い払ったのち、屋台の椅子に腰掛けた伊藤さんは胸元のポケットから日の丸模様の洋モクを取り出すと、マッチに火を点け紫煙をくゆらせた。


 穂先に火を灯す指先が震えていることに気がついたが、注文していたカストリ焼酎を一口で半分ほど飲み干すとピタリと止んでいたので、恐らくはアルコール中毒の――それもかなり進行している状態なのだろうと察した。

 似たような人間は腐る程目にしてきたからよくわかる。


 近頃闇市には、米と米麹を原料に素人が作る〝カストリ焼酎〟と、〝バクダン〟という密造酒が広く出回るようになっていた。後者は強い毒性を持つメチルアルコールが混入されている場合が多く、失明する者や最悪死亡する者が続出していたにもかかわらず飲む人間が跡を絶たなかったため、社会問題となっていた。


 貞春の父も生前は酒を嗜んではいたが、あくまで常識の範囲内での飲み方だった。それに比べて伊藤のそれは味わうと言うより、ただ黙々と胃袋に酒を流し込む作業にしか見えなかった。


「あの……ヒロヤンとはどのような関係なんですか?」


 おでんを口に運ぶ伊藤さんの背中に声をかけると、振り向きもせずに手にしていた箸をヒロヤンに向けて答えた。


「先週だったかな、俺のところに来ると用心棒にならないかって相談を持ちかけてきたんだ。面倒だから断っても良かったんだが、好きな酒をいくらでも飲ませてやるって言われちゃ断れねえな」


 店主に空のグラスを差し出し、なみなみと注がれた焼酎を一気に飲み干す姿に苛ついている自分がいた。


「……あの、失礼なことお聞きしますけど、伊藤さんの年齢っていくつですか?」

「三十五だが、それがどうした」


 最初こそ義侠心が備わった人だと感心したが、自分の子供であってもおかしくない年齢の少年に酒をたかるとはどういった了見なのか。それに、こんな人を頼るヒロヤンの思惑も分からなかった。


「いい年して子供に酒を恵んでもらうなんて、恥ずかしいとは思わないんですか?」

「貞春、それは少し言いすぎだよ」

「なんでだよ。こんなアル中に何が出来るっていうんだ」

「いい加減にしないか。お前に伊藤さんの何がわかる」


 シゲチーとヒロヤンにいさめられるも、腹の底から堪えようがない怒りがふつふつと湧き上がってきて眼の前の男にぶつけたくて仕方なかった。


 なんでこんな酒に逃げるような意志薄弱の男が戦場から生還して、家族のことを第一に考えていた優しい父が遥か南方の地で散らなくてはならなかったのか――。


 貞春の脳裏には、蓋をして閉じ込めていた懐かしい家族の記憶の数々が蘇っていた。戦争末期に召集を受けた父は、数カ月後に我が家に訪れた兵事係が携えた白木の木箱とともに、名誉の戦死を遂げたとだけ伝えて帰ってきた。


 木箱の中には小さな小石が一つはいってるだけで、とうとう遺骨すら帰ってくることはなかったあの日の晩、母は一人父の写真を抱いて泣いていたことを今でも忘れることが出来ない。


「貞春。なにも辛いのはお前だけじゃないんだぞ。伊藤さんだってな」

「いや、その坊主の言うとおりだ。確かにガキに酒を恵んでもらってる大人なんざ、人としてどうかしてるな」


 それ以上は言わせないように、ヒロヤンの言葉を遮った伊藤さんは勘定をテーブルに置くと、覚束ない足取りで席を立った。


「博文。悪いが用心棒の話は無しだ。他を当たってくれ」

「ちょっと、伊藤さんッ! ああ、クソッ、貞春やってくれたな」


 呼び止めても無駄だと悟ったヒロヤンは、不貞腐れたように店主にカストリを頼むと、慣れもしない酒を勢いよく呷って咽ていた。

 

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