一抹の不安を抱えたまま、言われた通りに日が暮れてから高麗軒へと三人で向かった。「どうせなら二人も連れてこい」と誘われていたので、心細かったこともあり声をかけると、ヒロヤンは警戒心よりも好奇心が勝り、シゲチーにいたっては警戒心よりも食欲が勝ったようで、結局ついてくる運びとなった。


 昼から振り続けていた雨は夜のどばりが落ちても止むことを知らず、肌には粘り気を帯びた汗がまとわりついて離れない。こんな夜は出歩くことを嫌って闇市を訪れる客足は普段より少ないのが常なのだが、高麗軒が見えてくると天候も関係なく賑わっていた。


「なんだか、随分と騒々しいな」


 高麗軒が近づくにつれ、複数人が激しく言い合っている声が店の外まで漏れていた。一番の巨漢であるシゲチーは、相手を捲し立てる声色にすっかり腰が引けていたようで、貞春の背に回ると縮こまっていた。


 発音や独特の訛から、闇市でも散々聞いていた中国語であることは辛うじて理解できたが、簡単な単語程度の知識しか頭に入っていない貞春では、ましてやシゲチーでは聞き取ることなど到底不可能だった。


 もしかしてらヒロヤンなら、と視線で訴えるも「流石に俺もわからない」と首を横に振って答えた。


 しまいには陶器が割れる音が空気を震わせ、思わず首をすくめると、ただでさえボロボロな引き戸を壊しかねない勢いで一人の男性がサンダル姿で飛び出してきた。


 なにやら悪態を吐きながら店内を指差し、飛んでくる皿を避けながら貞春が来た方角とは逆に向かって、唾を吐き捨てながらガニ股で去っていった。


 三人で見合いながら頷いて、恐る恐る高麗軒に近づき暖簾を潜ると、店内はテーブル席が三つに、カウンター席が五つと、決して広いとは言えない間取りだった。

 湯気が立ち上るキッチンには二人立っていて、在日中国人だという店主は黙々と作業に当たっていてもう一人は、背中を向けて下拵したごしらえをしているようだった。


 席の半分ほどは客で埋まり、先程の喧騒が嘘のように客同士が談笑に華を咲かせている。そのうちのテーブルに座っていた一人の客が、店内に入るのに二の足を踏んでいた貞春たちを見つけるなり、わざとらしく舌打ちをして周囲の客に中国語でなにやら話しかける。すると、途端に親の敵を見るような三人を見抜いてきた。


「おお、お前ら来てくれたか」


 あからさまに拒絶されている空気が漂う店内に、聞き馴染みのある声が響く。声のする方に顔を向けると、カウンター内のキッチンで背を向けていた男性が、実は伊藤さんで飛行服姿から料理人の格好に着替えて立っている。

 それだけでも妙におかしな組み合わせに見えてならなかった。


「伊藤さん。こんなところで何してるんですか?」

「見りゃわかるだろ、料理人だよ。まあ、見習い中の身だけどな」


 そう言うと、店主に二言三言話しかけて正面のカウンター席に座れと促された。腰を下ろすと周囲の視線が無遠慮に背中に突き刺さる。


「オヤジさんは日本人を嫌っちゃいないんだが、常連客はそうもいかなくてな。今日は特に客層が悪くて申し訳ない」

「色々利きたいことがあるですけど、まさか伊藤さんが料理を作れるなんて知りませんでした」


 借りてきた猫のように縮こまりながら、壁にかけられたメニュー表に目を向ける。全て貞春たちが知っている漢字とは異なる字体で書かれていた。


 中には読める字で〝焼餃子〟と書かれたメニューも存在した。それは日本人向けに伊藤さんが店長に提案した品のようで、少し自慢げに語っている顔は飲んだくれているときとは別人に見えて、違和感が拭えない。


「ガキの頃から親父に隠れてお袋に手料理を教わってたんだよ。兵役について自炊から離れはしたが、いつか自分の店を持ちたいと子供の頃に夢見てたんだ」

「それで、高麗軒で修行をしているんですか?」

「そうだ。俺の歳じゃ、こんな時代でなくても雇ってくれる店なんてありはしないからな。中学を卒業したら長い修業生活を経て、ようやく一人前になるのが当たり前の世界だが、ここの店主は見た通り態度こそ良くないが事情を説明すると俺を雇ってくれたんだ」


 伊藤さんも少しは中国語を話せるようで、中華鍋を振るっていた店主に話しかけると小さく頷いていた。


「なんて話しかけたんですか?」

「俺にコンロを一つ貸してくれと言ったんだ。修業ついでにお前らに試食をお願いしたくてな」

「いいんですか? 正直言って、僕たち試食に向いてるとは思えませんよ?」

「構いやしない。そんなだいそれた料理を振る舞うわけじゃないんだ。美味いか、美味くないか、それだけ教えてくれたらいい」


 伊藤さんから何かを頼まれたことはこれが初めてのことで、断るのも気が引けていると自信満々に手を上げたシゲチーが、「試食ならお任せあれ」と力強く宣言したことでとうとう後には引けなくなってしまった。


「シゲチーは、ただ食べたいだけだろ」

「バレた? だって美味しそうな匂いをずっと嗅いでたら、お腹が減って仕方ないんだもん」


 ヒロヤンとシゲチーの掛け合いををよそに、「よし」と気合を入れた伊藤さんの雰囲気は一転して職人のそれとなった。

 酒が入ってないとここまで人が変わるのかと感心するほどに、こなれた手付きでおたまで油をひくと、轟々と火を吹くコンロの上で鉄鍋を振るう。


 中では米粒と卵が混然一体となって踊っている。少量の塩を加えてサッと炒めると、すぐに皿に盛られて貞春たち三人の前に供された。具材は至ってシンプルなのに、黄金に煌めいて見えるチャーハンに生唾をのみこんで、一口頬張る――。


「美味しい……。伊藤さん、コレ美味しいよ」

「貞春もか。俺も間違いなく美味いと思う。シゲチーはどうよ」

「僕も美味しいと思う。昔食べたチャーハンより美味しいよ」


 伊藤さんは自身を〝見習い〟と称していたが、これなら今すぐにでも客に出せる質ではないかと三人とも確信していたが、食べてる様子を離れた位置でじっと見ていた店主が注文が入ってるわけでもないのに鉄鍋で油を温めると、あっという間にチャーハンを四人分作ってテーブルに置いた。


「タベテミロ」


 拙い日本語で、顎で湯気が立っているチャーハンを指す。何故このタイミングでと不可解に思ったのは、貞春だけではなく伊藤さんも同じなようで、黙って頷いた。


「じゃあ、いただきます――」


 たった一口で理解させられた。料理とは作る人でここまで味が変わるものかと。

 目を見開いて驚いた貞春は、再び確かめるように口に運ぶ。米粒と卵が完全に一つとなっていた。口に入れた瞬間に米粒同士がくっつくことなく、ほろほろと解けていく。


 ヒロヤンもシゲチーも隣で言葉を失っていた。使っている材料は一緒、使っている鉄鍋も一緒、素人目には特別変わったことはしていないように見えたのだが、最後に口にしていた伊藤さんは悔しそうな顔でレンゲを置いた。


 お腹が膨れた三人は、店先で伊藤さんと別れる際に、また試食をお願いできないかと頼めまれた。


「うちのオヤジさんは技術的なことは何も教えてくれない。今も作ってるところをみて赤点だったんだろうな。金のことは気

にしなくていいから、これから定期的に味見に付き合ってもらえると助かるんだが」

「うーん。どうしようか」


 ヒロヤンはどちらでも構わない、と判断を委ねてきた。シゲチーはご馳走にありつけるのなら大賛成とのこと。正直舌が子供な三人だけでは役不足ではないかと悩んでいたところ、ちょうど伊藤さんが求めてる人材にぴったりな人を思い出して今度連れてくると約束をした。

 

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