鞍馬組に拉致されてから一月が経とうとしていた。七月に入ると蒸し暑さが本格的に増して、太陽を拝む日数も減っている。


 旭日旗を背負った〝大日本帝国〟は正式に〝日本国〟と改称され、軍国主義や神国思想も教科書から徹底的に排除され、過去の遺物になりつつある。


 闇市でも大きな動きがあった。三角広場で産声を上げた近藤産業マーケットが、砂糖の四百五十倍の甘さを誇る人工甘味料のサッカリンや、芋を使った甘い菓子の販売を正式に許可されて大量生産が可能となったのだ。


 砂糖を原料とする飴は未だに禁制品に指定されている。甘味に飢えていた国民の間で空前の飴ブームが到来したのが七月だった。翌月にはズルチンという甘味料の使用許可も認可されるようで、近藤マーケットの空きコマは商機を見逃さない商売人が我先にと入居し、似たような飴屋で埋め尽くされている。


 後の〝アメヤ横丁〟の語源にも繋がる一方で、闇市では酒を提供する店が増えた影響から、元から悪かった治安がさらに物騒なものとなっていた。掏摸すり、強盗、傷害――気を抜けば自分も被害に遭いかねない街だが、それなりに愛着も湧いている。


 憂鬱な長雨が一日中降り続く上野で、またも昼から酒を煽っていた伊藤さんは、美味しそうに酒をのみながら席をともにしていた貞春に語りかけた。


「そういえば、養育院に匿名で粉ミルクやらなんやら、たっぷり寄付したんだってな。ガキのくせに随分と豪気なことすんじゃねえか」


 あの一件以来、距離を空けていた伊藤さんと顔を合わす機会も増え、毎回ではないけれど食事を御馳走してくれることもあった。稼いだ金は全て酒に回してると言っても過言ではない生活を送っているようなので、酩酊した姿もすっかり見慣れたものだ。


「あれはヒロヤンの意見に従ってやったことです。それに、全員の命を救えるほど、戦争孤児は少なくありませんからね」


 板橋の養育院では、次から次へと〝浮浪児狩り〟で強制収容される戦争孤児で溢れ返っていると聞いている。

 特に生まれて間もない乳幼児の受け入れが激増していて、まだへその緒も取れていない子供が殆どだとか。

 ミルクも満足に入手できない養育院では受け入れ後一ヶ月程度で次々に死亡してしまう状況が続いていた。


 年が明けると毎月三桁を超える嬰児えいじが栄養失調で亡くなり、職員の手によって地中深くに埋葬されていると聞いて、微力ながら手助けをしたいと思ったまでだ。幸いにもあぶく銭が手元にあったので、伝手を頼って掻き集められるだけ掻き集めて寄付したのだが、それでも救える命は微々たるものである。


「謙遜しなくていい。全員は救えなくても、救われる者は確かにいるんだからな」

「だといいんですけど。いつだって割りを食うのは弱い立場の人間ですよね」


 店主の代わりに酒瓶を傾け、グラスに注ぎ入れながら初めてあった日の無礼を思い出し、謝罪をした。父が生きていればしてあげたかった手酌を、伊藤さんは目を丸くして見ていた。


「僕は伊藤さんのことを何も知らなかったというのに、自分の杓子定規で勝手に見下していました。その節はまことに申し訳ありません」

「なんだ、そんな事で悩んでたのか。いいさ、お前は何も間違っちゃいない。今の俺は誰からみても愚図な人間だからな。こんな風体だから子供に怖がられるのも慣れっこさ」


 口元に薄っすらと自嘲を込めながら語った。少しの沈黙の後、自らの過去について詮索されることを嫌っていたはずが、トタン屋根から落ちる雨粒をぼんやりと眺めながら、訥々とつとつと語り始めた。


「俺はな、去年までゼロ戦に搭乗していた操縦士パイロットだったんだよ」

「零戦のパイロットって、すごいじゃないですか」


 緒戦で功績を挙げたこと、階級は大尉だったことも語った。「偉かったんですね」と酒を継ぎ足して素直に褒めるも、反応は芳しくない。むしろ不味そうに酒を煽ってグラスの底を台に叩きつけた。


「どれだけ英雄だと騒がれたところで、人殺しには変わらない。今でも夢に見る……撃ち落とした敵機のパイロットが、爆発四散する前に最後に見せる苦悶の表情をな。敵にだって家族がいれば、愛する者もいただろう。奴らの命を対価に得た勲章は、戦後直後に闇市で全て二束三文の金額で売ってやったさ」


 目の怪我は敵機の機銃がコックピットを撃ち抜いた際に、飛んできた破片によって負った怪我のようで、今は見たくないもの見なくて済むと他人事のように語る。


「俺はこの目の怪我のせいで現場から離れざるを得なくなった。その後、鹿児島の知覧基地に配属されると、特攻隊のパイロットを教育する指導教官を拝命したんだ」

「特攻隊……」

「お前達より少しだけ年長の未来ある若者に向けて、絶対に生きて帰ってこれない作戦を告げなくてはならなかった。なのに奴らは泣き顔一つ見せずに飛び立っていたよ。当然、還ってくる者はいなかった。どうせ死ぬのなら、俺みたいな人間が特攻するべきだったのに……」

「だから昼から飲んだくれて、酔い潰れてるんですか」


 自分を罰するために酒に溺れているのだとしたら、それほど愚かで悲しいことがあるだろうか。あの凄惨極まる戦争に巻き込まれた者は、全員が全員被害者で、もちろん伊藤さんが自らを罰することが正しいとも思えない。


 一人で抱えるには重すぎる十字架の正体を知り、かける言葉が見つからないでいると珍しく酒を途中でやめ、酒代を置くとふらつきながら立ち上がった。


「変な話に突き合わせて悪かったな。その詫びに暗くなったら、〝高麗軒〟に来い。飯をご馳走してやるよ」

「え、高麗軒って高架下の店ですよね。あそこの店主って日本人嫌いで有名じゃないですか?」


 高麗軒は終戦直後の物資の調達もままならぬ中で、いち早く高架下で営業を始めた中華料理店として名を知られていた。ただ店主が一癖も二癖もある在日中国人で、日本人は暖簾をくぐるだけで包丁を投げつけられるという噂を聞いたことがある。


 貞春たちは噂を恐れて一度も訪れたことはなかったが、近くを通るたびに闇市にはない調味料の香りが漂い、腹を鳴らしたことは何度もある。


「それは噂に尾ひれがついて回ってるだけだ。在日中国人であることは間違いないないが、誰から構わず襲いかかるような狂人じゃない。それに味も確かだしな」

「それならいいんですけど……」


 

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