七
事務所から外に出た貞春は、雲一つない空を見上げた。鳩が群れとなって高く舞い上がっていく。無意識に深呼吸を繰り返した。
なんでもない景色が美しく見えるのは、三人とも無事で戻ってこれるとは思わなかったからだろうか。生きた心地がしなかったと、緊張から解き放たれて漏らすヒロヤンは、帰りの道中にこれまでの経緯を全て説明して謝罪をした。
「本当に申し訳ない。いくら頭を下げても許してもらえるとは思ってないが、今回の件は全部俺が悪かった。みんなを危険に巻き込んで命の危機に追い込んでしまったのは、俺が金に目が眩んでしまったからで……」
そう言って頭を下げたヒロヤンに、貞春は「これでよかったんだよ」と石ころを蹴飛ばしながら言った。
「ヒロヤンだけが悪いんじゃないよ。俺もシゲチーも、自分たちで考えることを放棄して、どこかヒロヤンに頼りすぎてた部分があったのかもしれない。戦争だってさ、国民全員が何も考えないで盲従し続けた結果がこの有り様じゃん。だからさ、これからは三人で共に一から頑張って、前に約束したように大人たちを見返してやろうよ」
「うん。僕も出来ることなら何でもするからさ、もっと頼って欲しいな」
「お前達……本当にお人好しだよな」
憑き物が落ちたように笑うヒロヤンの顔が、年相応に見えたのはこのときが初めてだった。今回の一件で、これまで築き上げてきたものが実は幻想であることと、僕たちはその幻に踊らされていただけであることを知れて良かった。でないと坂を転がり続けていることに気付けないまま、今頃奈落の底に落ちていたかもしない。
またゼロからのスタートになるというのに、貞春の心はどこか胸が晴れ晴れとしていた。闇市に戻ってくると、無事に帰ってきた三人の姿を見た屋台の店主たちが、こぞって話しかけてきた。
まつ江さんも事態を聞きつけてやってきて、貞春の顔を見るなり周囲の視線も関係なく抱きついてきたので、恥ずかしのあまり顔が熱くなった。
その日は精神的にも肉体的にも疲れ切ってしまい、宿に帰るなり泥のように眠りに落ちて、翌朝目覚めるとヒロヤンに「お前達に見せたいものがある」と伝えられた。
「どこかで聞いたことのある台詞だな」
朝早くからふかし芋を売っている店で三人分買うと、口の周りを汚しながら湯島天神に赴いた。昨晩寝ている間に降った雨が地面に水溜りを作り、境内の紫陽花は
前回来た時は梅の花が咲いていたが、まさかあの頃はヤクザに捕まって絶対絶命の状況に陥るなど夢にも思わなかったなと振り返っていると、こっちだとヒロヤンに手招きされて再び本堂の裏へ小走りで駆け寄った。
「またなにか隠したのか?」
そこは以前、角砂糖の箱がぎっしりと詰め込まれたダンボールを隠していた場所で、どうしてまたここに連れてきたのか尋ねるとしたり顔で答えた。
「実はな、新橋の倉庫に向う直前に虫の報せというやつなのか、上手く言えないが嫌な予感がしたんだ。それで一応念のために、その時持っていた全財産を埋めてから出かけたんだよ。その後悪い予感は見事に的中して、ブツは全部鞍馬組に回収されちまった。お前たちが事務所に来る前に、恐らく瀬下は全て換金したにちがいない」
そう言って放置されていたスコップで掘り進めていくと、スコップの先が何かに当たる鈍い音がして両手で土を掻き出す。すぐに見慣れたアルミ缶が姿を現した。
「良かった。この隠し場所は割れてなかったみたいだな」
「待ってよ、金を隠してたことがバレたりしたらタダじゃ済まないぞ」
「大丈夫だ。鞍馬組の奴ら、伊藤さんに壊滅状態に追い込まれて、事務所から夜逃げ同然に逃げたらしい。瀬下は今頃警察にお縄になってるはずだ」
やっぱ人間簡単には変われないなと、溜息を吐きながら一方でこれがヒロヤンらしいやと吹き出す。つられて三人とも腹を抱えて湯島天神に笑い声が響き渡った。
お腹がよじれるほど笑って、目尻に滲む涙を拭いながらこの金をどうするか尋ねると、全額戦争孤児を引き取っている施設に寄付したいと言った。
「なんだか〝寄付〟なんて、これまでのヒロヤンらしくないね。明日は大雨かもしれないよ」
「シゲチー。今は梅雨なんだから、いつ雨が降ったっておかしくないよ」
二人のやり取りを聞いて、耳まで赤くしたヒロヤンは話題を変えるように声を張る。
「それより、次にどんな仕事を始めるかだけど、何をするかは貞春に決めてもらいたいんだ」
「僕が?」
突然矛先を振られた貞春は、素っ頓狂な声で返すとシゲチーも賛成だと手を上げて、早々に多数決でこちらが不利になってしまった。
「急に言われても何も思い浮かばないけど……。そもそもどうして僕がそんな大事なことを一人で決める必要があるんだよ。ヒロヤンのほうがずっと頭が良いじゃないか」
「ああ、頭は確かにいいかもしない。それは否定しない」
否定はしないのか。相変わらずのふてぶてしさは健在のようで苦笑いしていると、話を続けた。
「だけど、貞春は身を挺して俺を救ってくれただろ。あの姿を見た俺は、常に自分が正しいと思い込んでいたことを酷く恥じた。瀬下の言葉を借りるようで腹立たしいが、この時代に他人の為に体を張れる奴なんざ、そうそういない。そんな真面目で不器用な奴だからこそ、俺達の代わりに決めてほしいんだ」
「買いかぶりすぎだとは思うんだけど……しばらく考えさせてくれないか。やっぱりすぐには決められないよ」
「なら、頭の片隅にでも今話したことを置いといてくれればいい。すぐに決める必要はないからな」
思いがけず決定権を委ねられ、取り敢えず返答を先送りにしたものの、頭の中では思考が
どんな仕事をしたいのか――今までは闇市で働くことで頭がいっぱいで、将来について真剣に考えたことなどなかったことに、今更気がついた。
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