六
「なんで、ここに伊藤さんが?」
貞春の問いかけを無視して、歩みを進める伊藤さんは倒れた男を跨ぐともう一発、視線を瀬下に向けたまま発砲した。
取り巻きの一人が悲鳴を上げる間もなく膝から崩れ落ち、頭から血を流して事切れた。そこからの展開は一方的なもので、死ぬことが怖くないのか事務所の中央に向かって歩きながら、二発三発と一切の躊躇もなく
当然狭い室内で発砲するものだから、反響音と硝煙の臭いで、たちまち事務所内は戦争の最前線と化した。
理由は分からないが、単身ヤクザの組所務所に殴り込んで来るなんて正気の沙汰ではない。精確に人体の急所を狙いながら、折り重なる組員に一瞥もくれずとうとう残すは瀬下一人となった。
その手には弾が込められた拳銃が握られていたが、眼前で繰り広げられる光景に呆気に取られていたようで、慌てて銃を構え直すと自分を奮い立たせるように語気を荒らげた。
「な、なにもんだッ、テメエは!」
「俺か? 俺はただの死に損ないだよ。まあ、お前にとっては死神かもしれないがな」
相対するように両者銃口を向き合わせる。頭を抱えて
「奇遇やな。ワシと一緒で、それ九四式やろ。装弾数は六発やな、威勢のいいあんさん。何発撃ったか覚えとるか」
「計六発。お前みたいな蛆虫にありったけぶち込んでやりたかったが、三下相手に使い切ったみたいだな」
「糞ったれが。どこぞの組の回しもんかはさておき、ありったけの弾丸を喰らうんは貴様や」
そう言い放つと、躊躇なく引き金を何度も引いた。万事休す――思わず目を閉じたのだが、激発音が止んでゆっくり目を開けた貞春の視線の先に伊藤さんの姿はなかった。
「ふん。何がヤクザだ。口だけ野郎が」
信じられないことに、伊藤さんは銃弾を避けもせず真正面から飛び込んできたようで、何事もなかったかのように血の付いた拳を床でのびている瀬下のスーツで拭き取っていた。
口を開けて見てるしか出来なかったヒロヤンとシゲチーが、貞春の無事を確かめると駆け寄って抱きついてきた。
「良かった! 一時はどうなることかと思ったよ」
「俺が悪かった……本当にすまん」
「いいんだよ。それより、どうして伊藤さんがここにいるんですか?」
たった一人で獅子奮迅の活躍を見せた伊藤さんは、昼から馴染みの屋台で一杯やっていたところ、見慣れない子供に声をかけられて貞春たちが攫われたことを聞かされたという。
「見慣れない子供? どんな子だったんですか」
「さあな。俺からしたらガキなんてどいつもこいつも見分けるのが難しい。ただ、大陸訛りの拙い日本語だった気がする。もしかしたら、引揚げ孤児なのかもしれんな」
引揚者は、終戦後に外地――すなわち日本の支配地域から終戦を機に国内へ帰還する者を指すが、敗戦時点で海外に在住する日本人は、軍人、民間人の総計で六百六十万人以上に上り、引揚げした日本人は昭和二十一年末までに五百万人にのぼった。
親を帰国前に亡くした子供たちは、たった一人、あるいは幼い兄弟とともに引揚船に乗り込んで日本に帰ってきた〝引揚孤児〟たちである。彼らは外地で暮らしていたため日本の生活に馴染めず、差別や偏見も根強いこともあって保護収容施設から脱走を繰り返し、街頭で生活を送る子供も多かったのが現実だった。
「そういえば、僕たちが捕まったとき、瀬下に金を受け取っていた子供がいました。もしかしたら、今回の件と関係してるのかもしれません」
「そいつ……もしかしたら密告した奴かもしれない」
「ヒロヤン? 密告した奴が、どうして助けを求めるんだよ」
「う、まあ、それもそうだよな」
三人で頭をひねっていると、伊藤さんが「お前らな」と口を挟んだ。
「とりあえず、ここは俺に任せてさっさと帰れ。歩いて帰れるだろ」
「伊藤さんは、どうするんですか?」
「俺はコイツに話がある」
そう言って目を覚ます素振りも見せない瀬下を爪先で蹴った。不敵な笑みは正義の使者には程遠かった。
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