一寸先は闇――戦争を通じて骨身に沁みていた格言だったが、まさか自分がヤクザに拉致されるとは誰が想像できるだろうか。


 未だ舗装が為されていない道路のわだちにはまるたび、後部座席でくぐもった声を出すシゲチーの顔は鼻水と涙で濡れていた。


 自分がしっかりしないと、と覚悟を胸に左右に揺られること数分――停車すると扉が開かれ、脚の拘束のみ外されると自分で歩けと怒鳴られた。


 空襲の際についたすすが残る雑居ビルの前に連れ出され、取り巻きの男に背中を押されて前につんのめる。


「階段を登って二階に行け」


 命令されるがままに間口の狭い階段を、貞春、シゲチーの順で登っていく。後ろからは逃走を防ぐ目的か、瀬下と取り巻きたちが続いていた。


 まるで絞首台の十三階段を登るような心境で、震える脚をなんとか動かして一段一段登っていくと、真っ直ぐ伸びる廊下の左右に幾つか扉が見えた。


 入居者がいれば、そうでない部屋もあるようで、そのうちの一つが鞍馬組の事務所となっている。空襲の跡地に辛うじて残る建物には似つかわしくない、木彫りの看板が掲げられていた。

 

「そう怯えんでも、お前達の命まではとらんから安心しとき。あのクソガキの前で白状すれば五体満足で返してやる」

「あの……ヒロヤンは、どうなるんですか?」


 扉の前に立つ。ここは此岸と彼岸の境だ。もしも向こう側に渡ってしまえば、額面通り無事に帰れる保証などどこにもない。なんせ相手は人を人とも思わぬヤクザである。


 恐る恐る瀬下に尋ねると、額に青筋を浮かべて答えた。


「そんなに決まっとるやろ。鞍馬組の盗品と知って舐め腐った真似してくれたんや。ワシら東京のヌルいヤクザとちゃうからな。まず生きて返すことはできひん。お前等も今日のことは忘れて、真っ当に生きたほうがええで」


 その宣告に膝は震え、シゲチーは嗚咽を漏らして涙を流していた。生殺与奪の権利を完全に握られていることを再認識して、事務所に通される。


 簡素な木製の机がコの字型に並んでいて、天井近くには神棚が設けられていた。贅沢にも白米が供えられていて、壁には任侠にんきょうと刺繍された巨大な旗が壁に貼り付けられている。それに室内には、事務所に足を踏み入れた貞春たちを威嚇するように数えると五人の男たちが、剣呑な眼差しを向けていた。


 その部屋の中央に、両手足を完全に拘束された上で、目隠しまでされて床で転がっているヒロヤンの姿を見つけた。


「ヒロヤン、無事だったか!」


 口もガムテープで塞がれていて、苦しそうにうめき声を上げている様はいつものふてぶてしさの欠片もなく、顔は何度も殴れたのか酷いあざがいくつも浮かんでいた。


 瀬下は取り巻きの男に目隠しをはずすよう命令し、乱暴に目隠しを外されたヒロヤンの怯えた目があらわになり視線が交わった。


「さあて、それじゃあ証人も連れてきたことやし、なにか弁明があるんなら聞こか」


 靴底を鳴らしてヒロヤンの正面に立った瀬下は、口を自由にしてやるとヒロヤンに発言の機会を与えた。


「なんで貞春たちを連れてきたんだッ、約束と違うだろ!」

「五月蝿いんだよ、クソガキがッ!」


 取り巻きに腹を思い切り蹴り上げられたヒロヤンは、床に嘔吐しながら息も絶え絶えに答えた。


「何遍も言ってるだろ……。俺は、なんも知らなかった。ヤバいブツなのは薄々気がついていたけど……金が手に入るなら多少のリスクは呑み込んで稼いでいたからな」

「そんな理屈通ると思っとんのかい。まあええ、ここで押し問答する時間も惜しいしな。おい、お前達」


 振り返った瀬下に呼ばれると、取り巻きに両手の拘束を解かれてヒロヤンの前に立たされた。何をするのか、いや、考えていると、おもむろにスーツの懐から九四式の拳銃を取り出して貞春に取手の部分を向けてきた。


「ええか、無事にここから出たいんやったら、この拳銃で親友の頭をハジくんや」

「お、おいッ! 俺は知らないって言ってるじゃねぇかッ」


 ヒロヤンが声を振り絞って命乞いをするなか、手渡された拳銃はやけに冷たかった。鉄の塊とはいえ、実際の重さ以上に貞春の手に伸し掛かる。命を奪う重さに、頭の中では最悪の映像が浮かび上がった。


 床に血の海が広がり、その中で光を失った眼を貞春に向けるヒロヤンが、呪詛を撒き散らしながら絶命していく瞬間。


 ヒロヤンを殺す? 誰が? 僕が? 


「……な、何を言ってるんですか。そんなこと俺に出来るわけ」

「なら、お前らも死ぬか? どのみちウチのブツをちょろまかしたクソガキは生かす予定はない。本来ならツレのお前等も同罪になるところを心の広いワシが許してやる言うとんのや。なあに、簡単よ。銃口を相手に向けて引き金を引くだけや。至近距離なら猫でも外さん」

「貞春、撃っちゃダメだよ! もしも人殺しなんてしたら、全部の責任を押し付けられるだけに決まってる」


 喧嘩の一つも出来ないくせに、ヤクザに囲まれながら必死に忠告するシゲチーに目を向ける。「黙れッ」殴られ蹴られうずくまる様子を、瀬下は神棚の下の机に重そうな体を預けて、紫煙を燻らせながら眺めていた。


「いくら考えたところで、逃げ道なんかないで。出来なきゃ全員死んでもらうだけや」


 吹き出す煙の向こうに、温度を感じさせない目が二つ。いつの頃だったか、道端で見かけた蝶を捕食している蟷螂カマキリの複眼に酷似していた。


 言われたとおりにしなければ、確実に三人とも殺されてしまう――本能で生命を危機を感じ取った貞春は、シゲチーとヒロヤンそれぞれに視線を向けて、十字架に祈りを捧げるように拳銃を握りしめた。


「はよ撃たんかいッ」


 瀬下の恫喝が鼓膜に反響する。

 ふと、絶体絶命の状況にも関わらず、父から聞いた逸話を思い出していた。


 昔々、一隻の船が難破し乗組員は全員海に投げ出されたなかで、一人の男が命からがら、海上に浮かんでいた板切れにすがりついて助かった。


 するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして溺死させてしまった。


 まさに今のような状況じゃないか――笑う余力もなく、引き金に指をかける。


「いつか戦禍が本土を呑み込む頃には、戦争を賛美している人間の醜悪さが露呈することになるだろう」


 父の残した言葉通り、戦争に負けた日本国民は手のひらを返して、平然と弱者を蹴落とすような人間に成り下がってしまった。それとも、これが人間の本質なのだろうか。


 言われた通りに拳銃をヒロヤンに向けると、互いが涙を流していることに気がついた。殺さないでくれと訴える目を避けるように、貞春は瞼を閉じる。


 二人助かるために一人を殺すか、誰も救えずに三人ともむざむざと殺されるか――。


 悩みに悩んだ末に、構えた両手をダラリと下げて、手のひらから離れた拳銃が床を転がった。小さな声で「殺すことなんてできない」と呟くと、激昂した瀬下は拳銃を拾い上げて貞春に銃口を向けた。


「なんなら今ここで脳みそぶち撒けてやろうかッ!」

「だからっ、俺が組に入ってヒロヤンが出した分の損失を稼ぎます。それで許してはもらえないでしょうか」

「貞春、お前、自分が何言ってるのかわかってんのか」


 三人とも運良く切り抜ける策など思い浮かばず、唯一の解決策と言ったら自分を身売りするしかなかった。初めて見る驚愕に満ちた顔で、ヒロヤンは貞春を見ていた。


「仕方ないよ。誰かが犠牲にならないと全員助かる術なんてないからね。瀬下さん、盃を受けますので、どうかヒロヤンを許してやってはもらえないでしょか」


 深々と頭を下げると、黙って拳銃を構えていた瀬下は暫く黙り込んだ。それから聞こえたのは発砲音ではなく、笑い声だった。膝を叩いて笑う姿に、取り巻き連中も互いに見合って困惑しているようだった。


「お前、おもろいボンやないか。久しぶりに笑わしてもらったで、今日日親友のために体張る奴なんざ、よう見いひん。よし、わかった。その案を呑んだろやないかい」

「ア、アニキ……流石にオヤジにバレたら不味いのでは」

「じゃかあしいわッ! このワシがええ言うとるんや。なにか問題あるかい」

「い、いえ」


 全身の拘束を解かれたヒロヤンとシゲチーは、不安そうな顔で貞春を見つめていた。これで良かったんだと自分に言い聞かせながら、二人に背を向ける。


「面白いもん見せてもらったさかい、今日は特別にクソガキもまとめて許したる。さっさと荷物をまとめて帰んな。だが、ボンだけはここに残れ。今日からワシの舎弟として働いてもらうで」

「……はい。わかりました」


 事務所から追い出される二人の声が、背中に深々と突き刺さる。

 もう一緒に暮らすことも、商売すること叶わないけれど、どうか元気で暮らして欲しい。心のなかで祈っていると、突然耳を塞ぎたくなるほどの激発音が室内にとどろいて慌てて振り返ると、取り巻きが糸を切った人形のように、床に伏せていた。


「よお、また会ったな」


 声の主は、飛行服姿で事務所の入口に立っていた。忘れもしない眼帯の男は、いつぞや物別れした伊藤さんだった。

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