四
売れ残るはずだったクレヨンが少女の手に渡り、いくらか気分が晴れたのもつかの間――けたたましいクラクションが闇市に響き渡った。
なんだなんだと、周囲の店主も通行人も辺りを見渡して様子を確認していた。警察が手入れの際に乗り込むトラックのものではないので、すぐに逃げだす人も見かけないがクラクションに紛れて怒声が聞こえると、慌てて逃げ出す姿が目立つようになる。
「邪魔だ邪魔だッ、どきやがれ!」
耳を押さえたくなるほどの声量で、人混みを強引に掻き分け姿を現したのは一台の真っ黒な塗装が施された車だった。
貞春の店の前でブレーキを踏むと、土埃の中で運転席と助手席の扉が荒々しく開かれ、着流しの男たちが降りてきた。
急いで後部座席に回り込むと恭しく扉を開く。すると、中から養豚場から逃げ出してきた豚のような脚の短い男が、似合っているとは到底思えない磨き上げられた革靴で闇市に降り立った。
「おう、おまえが貞春っちゅうガキか」
「そうですけど……どちらさんですか?」
「ワシは
まさかヤクザが車に乗り込んで直々にやってくるとは思わず呆気にとられた。スリーピースの真っ白なスーツを着込んでこそいたが、今にもボタンがはち切れそうなほどの太鼓腹がせり出していたことにくわえ、クセの強い関西弁が妙に滑稽に聴こえる。
よほど両脇に立っている男たちのほうが威圧感があったが、男の正体はさておくとして、この食糧難極まる時代に相当恵まれた食事にありついていることだけは、体型からみてハッキリとしている。
しかし、貞春の知る限り鞍馬組という名前は上野に住み着いて一年ほど経つが、一度たりとも耳にしたことはなかった。
「おいガキ! 黙ってねぇでさっさと答えんかいッ!」
「まあまあ、そない大声ださんでもええやろ。所詮堅気のガキやで」
立ち並んだ男たちは今にも飛びかかってきそう剣呑な目つきで、貞春を睨みつけている。頬には刀傷が走り、ともすれば喉元を食い破ってきそうな空気にたじろいだものの一言で
「鞍馬組っていやあ、大阪から流れてきたヤクザじゃねぇか」
遠巻きに眺めていた通行人から、そのような会話が聞こえた。大阪からわざわざ東京まで出てきて、なぜ車を止めてまで自分に挨拶をしてきたのだろうか――。
東京の地で名を挙げようと、ショバ代でもたかりにきたのだろうかと警戒心を高めていると、瀬下はポケットに両手を突っ込みながら店頭に残っていた商品に視線を落とす。
それまでの態度から一変して、精一杯ドスを利かせた声を震わせた。
「この店だけ、やたら仰山高価な品が売ってるやないか。いったい何処から仕入れたブツなんや」
「それは……俺にはわかりません。仕入先を知ってるのは、この場にいない親友だけなんで」
「ほな、仕入先も知らんブツを売っとったっちゅうんか。少しはその親友とやらを怪しまんとアカンで。言っとくけどな、このブツは全部ワシら、鞍馬組が売り捌く手筈やった
「……なんですって?」
瀬下が口にした言葉が悪い冗談にしか聞こえず、馬鹿みたいに本当なのか尋ねると、再び取り巻きに顎で命令して一枚の便箋を貞春の前で広げてみせた。
そこにはビッシリと、生活必需品から嗜好品まで細かな数字とともに羅列されていた。
「よお見てみい。ここに書いてあるブツ、数字、全部お前等が売り捌いたやつと当てはまるやろ。忘れたとは言わせへんど。お前の親友はな、新橋の倉庫にノコノコとやってきたところを取っ捕まえて、今ウチの事務所で監禁しとる。ヤクザのブツを盗んで売っぱらってたなど認めた日にゃどうなるかわかっとるから、意地でも関係ないと頑なに認めてへんがな。そこで代わりに、親友のアンタに聞いてみよう思うてな」
「た、確かに……ここに書いてあるのは売った覚えがあります。ですが、ヒロヤンが盗みなんてするはずないです」
ヒロヤンが捕まってる? 突然の告白に心臓の鼓動は一気に高まった。いったいヒロヤンは何をしでかしたんだ? 額から汗を吹き出し、散り散りになる思考をなんとか繋ぎ止めて、ヒロヤンは無事なのか空回る口で尋ねた。
「今はまだな」
取り巻きが愉快そうに口角を上げて答えた。きっとなにかの間違いだ。最近ヒロヤンの様子がおかしいと薄々感じてはいたが、まさかこれほど愚かな犯罪に手を染めてるなんて考えたくもない。
こちらの考えてることを見透したのか、瀬下は恨みを込めながら吐き捨てた。
「お前等が売っ払ったブツはな、そもそもウチが高値で売り捌く予定の闇物資やったんや。それをどこぞのチンピラが盗みやがって、お前等に卸してくれたんや」
「ちょっと待ってください。それじゃあ悪いのは、その盗んでいったヤツじゃないですか」
「まあ聞け。その男は小狡いやつでな、ワシらに追われてることに勘付きよったら、全部お前等に罪を擦り付けて自分は姿をくらまそうと計画を企てていたみたいやで。まあ今頃、東京湾で魚の餌にでもなっとるやろ」
なあ、と取り巻きに同意を求めると、硬い表情でウス、と答えた。
涼しげな顔で恐ろしい言葉を吐く姿は、滑稽な容姿とは対称的に冷酷な表情が垣間見えた。日の丸が目印のラッキーストライクを口に咥えると、すかさず背後から刀傷男がかけよりマッチで穂先に火を灯した。
悠然と紫煙を燻らせながら、瀬下に車に乗るよう促される。拒否権などはなからなかった。
「とりあえず、お前も事務所にこい。お仲間のおデブちゃんは既に車内でお待ちやで」
視線を車内に向けると、言葉通り後部座席には両手足を麻縄で縛られたシゲチーが、大粒の涙を浮かべて寝転されていた。
「シゲチー、大丈夫か」
慌てて駆け寄ろうとするも、両腕を拘束されて身動きが取れなくなってしまった。肩から軋むような音が聴こえる。下手に動けば容赦なく関節を外してくるに違いない。結局抗うことも出来ず、シゲチーと同じように両手足を縛られて後部座席に押し込まれた。
「よし、ほな帰ろか」
瀬下の一声で車が発進しかけたその時、突然急ブレーキを踏んで車内にいた全員が前方に仰け反った。なんや、と悪態をつく瀬下とともに、貞春も視線を前方に向けた。
そこには一人の少年が日本語ではない言葉で、
貞春と年はさほど変わらないように見える。擦り切れた短パン、元が何色かもわからない開襟シャツを羽織っていた。
なにより気になったのは、この世界のすべてを憎むような目付きである。どんな人生を送ってくればそのような目つきになるのか、想像することさえできなかった。
「ちっ、しつこいガキやな」
瀬下は舌打ちをすると、まだガラスを開けて近寄ってきた少年に、札束がギッシリと詰め込まれた財布から数枚紙幣を取り出すと適当に投げ渡した。地面にひらひらと落下するお札を、少年が屈んで拾っている隙に車はアクセルを踏んで、闇市を離れていく。
動くなと注意されるも、体をくねらせて後方に流れる景色を見た。落ちた札束を両手で握りしめながら、こちらを眺めていた少年の姿が印象的で、見えなくなるで目を離すことができなかった。
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